とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石『道草』を再読しました

2019-04-29 08:39:41 | 読書
 夏目漱石の『道草』は一見するとつまらないだけの小説である。しかし語り手を意識し、語り手を相対化する視点をもてば、喜劇的な人間の姿を描いたおもしろい小説に思えてくる。

 NHKの『100で名著』で取り上げられるので、夏目漱石の『道草』を再読した。再読とは言え、内容はほとんど覚えていなかった。それも当然である。おもしろくないのだ。最初に読んだ時も義務的に字面を追っただけだったのだ。

 内容は子供のころ養子に行った家の主との経済的な問題や妻との不和などが描かれているだけだ。これをおもしろいと思うほうがおかしい。

 しかしこれはわれわれ人間の真実のような気がする。いわゆる最近の小説は取り繕って描かれているが、「金」や「人間関係」のわずらわしさこそがわれわれの生活における一番の問題である。これを正直に描く小説は、ある意味現代的である。

 さらにこの小説を読むためには「語りの構造」を意識すべきである。この小説は3人称小説である。しかし焦点はほとんど健三という主人公にあてられている。健三は明らかに夏目漱石がモデルである。健三にとっては妻も、幼い時の養父や養母もみんな俗悪な人間である。しかし読者は本当に俗悪なのは健三のほうでないかと気づき始める。偏屈な健三がすべてのトラブルの原因なのである。だから冷静に読み進めれば、健三自身を笑う小説なのだ。

 夏目漱石は自分自身を許せない。しかし「自分」というのは許すしかない運命共同体である。人間である限り本質的な問題が得枯れている小説なのだ。
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シアターコクーンで『LIFE LIFE LIFE』を見ました

2019-04-28 09:45:20 | 演劇
2019年4月21日(土)14:00開演
スタッフ
作:ヤスミナ・レザ 
上演台本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
キャスト
大竹しのぶ、稲垣吾郎、ともさかりえ、段田安則 

 「笑えるけれどもむずかしい」という印象の演劇である。日常的な出来事を描き、人間的な喜劇となっているが、それが3つのバージョンで演じられる。観客はこの3つのバージョンの違いが何を意図しているのかをどうしても考えてしまう。人間を考えさせられ、運命を考えさせられ、人生の不思議を考えさせられる。自分を振り返ることになる作品であった。

 大竹しのぶ、段田安則、ともさかりえの役者としての力量は言うまでもない。すばらしい役者である。稲垣吾郎は初めて演劇で見るのだが、他の3人に負けていない。4人がいるだけで緊張感があるいい舞台になる。

 KERAの演出は「人間」を描いている。表面をつくろいながらも、どうしても本音が浮かび上がるような醜さ、しかしその醜さこそが人間らしくいとおしい。3つのバージョンを丁寧に描き、どれもがありうる展開であり、どれもが自分であると考えた瞬間、自分の生き方にナイフが突き刺さるように感じてしまった。

 ひとつ残念だったのは稲垣吾郎さんが出演していたせいかチケットが取りずらく取れたのが2階席であった。真上から見下ろすような形になり、とても見づらい。これだったらもっとチケットを安くしてもらいたかった。一方ではこういういい作品をもっとたくさんの人に見てもらうように再演をお願いしたい。

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「あの人、『伝える』言葉を『伝わる』かたちにする名人でした。」

2019-04-26 18:57:29 | 折々のことば
 4月24日の「折々のことば」より。

あの人、「伝える」言葉を「伝わる」かたちにする名人でした。(井上一夫)

 伝えたつもりが伝わっていないことがある。放送作家・作詞家の永六輔は、とくに思いをこめること、市井で耳にした大事なことを伝える時は、逆に丁寧に「笑いをまぶして」いたと、彼の本を手がけた元編集者は言う。教育もきっと同じ。教え育てることよりも、そこにいれば子供が勝手に育つような大(おお)らかな場所を用意しておくことが先だろう。『伝える人、永六輔』から。(鷲田清一)


 前回のブログの続きのような「ことば」である。

 私たちは伝えたいことがあるから「ことば」を使う。そして自分が言いたいことは伝わるものと思いがちである。しかしそう簡単にはいかない。だから「ことば」を解釈する訓練をする。問題は現在の国語教育は解釈することばかり学ぶ。しかし本当はいいたいことをわかりやすく伝える技術も同じくらい大切なのだ。それなのにそれは教えない。

「伝える」言葉を「伝わる」かたちにする教育が必要なのだ。
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「自分の言葉に違和感を抱いているという君は、見込みがある。」

2019-04-24 06:38:39 | 折々のことば
 4月20日の「折々のことば」より。

自分の言葉に違和感を抱いているという君は、見込みがある。言葉に疑いを抱かないような人間の書く文章なんて碌(ろく)なもんじゃない (田村隆一)

 言葉で輪郭をなぞらないとそれが存在することすらわからないのだけれど、言葉にしてしまうと何かを逸してしまった気がする。何かが零(こぼ)れ落ちたような、あるいは逆に何か余計なものを抱え込んだような。いつも過少か過剰。そんな不均衡というかちぐはぐが、言葉と感情のあいだにはある。詩人の人生相談集『ぼくの人生案内』から。(鷲田清一)

 国語の授業では、教師はどうしても言葉は「自明」のものとして教えてしまうし、生徒は言葉を「自明」なものとしてとらえてしまう。「言葉」に対する疑いもないし、「言葉」に対する畏怖もない。だから「言葉」に対する敬意もない。

 本来、「言葉に疑いを抱く」ことが国語教育の主たる目的の一つなのではないかと改めて考えさせられる「ことば」である。

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新国立劇場で『かもめ』を見ました

2019-04-22 19:08:07 | 演劇
 2019年4月20日(土)13:00
 スタッフ
  作:アントン・チェーホフ
  英語台本:トム・ストッパード
  翻訳:小川絵梨子
  演出:鈴木裕美
 キャスト
  アルカージナ:朝海ひかる
  トレープレフ:渡邊りょう
  ソーリン:佐藤正宏
  ニーナ:岡本あずさ
  シャムラーエフ:俵木藤汰
  ポリーナ:福麻むつ美
  マーシャ:伊勢佳世
  トリゴーリン:須賀貴匡
  ドールン:天宮良
  メドヴェジェンコ:松井ショウキ
  ヤーコフ:山崎秀樹
  料理人:高田賢一
  小間使い:中島愛子

 チェーホフの『かもめ』は最初の湖畔での劇中劇の前衛性とラストシーンの衝撃によって私にとってとても気になる作品ではあった。しかし、何度見てもその良さがよくわからなかった。最近になり少しずつこの作品の良さがわかり始めた。今回の『かもめ』はとてもおもしろく感じた。登場人物の愚かさと、人間らしさがからみあって話が進行する「演劇」が本質的に持つよさが感じられたからだ。

 第一幕の印象はよくなかった。役者の演技がオーバーすぎて、素人くさく感じてしまったのだ。しかしそれがだんだんと収まっていく。つまり素人臭いオーバーな演技は演出家の意図だったのだ。なぜこういう演出をしたのか。考えてみると、演技のブレがなかったのはアルカージナだけである。つまり役者は変化しなかった。第一幕でオーバーな演技をしていた人物も徐々に役者になっていく。そしてこの芝居の板についていくのである。人生は演劇である。「かもめ」のはく製がその象徴となっている。

 今回の演劇の特徴は二つある。ひとつはオールオーディションということだ。失礼ながら私にとっては普段あまり見ることがない役者さんたちが多く出ているが、適材適所であり演出家の意図がしっかりと感じられるキャスティングになっていた。だから演出の意図が伝わりやすかったのではないか。また準備に時間をかけることもできたのだろう。しっかりとした舞台になっていた。

 もう一つは、トム・ストッパードが英訳したものを翻訳したことである。トム・ストッパードが英訳したさい、かなりテキストをいじっている。それによってわかりやすくなったのは確かだ。しかしチェーホフこれが許されるのだとすれば、台本の改変はどこまで許されるのかが問題になっていくだろう。

 いずれにしても何度も見続けることは大切なことなんだと学んだ芝居だった。『かもめ』という芝居のすばらしさを改めて知ることができたいい演劇だった。

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