とにかく書いておかないと

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夏目漱石の『草枕』を読む。4

2024-04-06 08:11:49 | 夏目漱石
第四章

 夜中の侵入者はおそらく衣類を持ち出したようである。写生帖を見ると明け方に作った俳句に句がつけられている。この付け句の存在は注目すべきものなのかもしれない。

 昼近くふたりの足音が聞こえる。部屋の前につくと、一人は引き返す。もう一人が入って来る。小女郎である。食事を持ってくる。その小女郎との会話から、この宿にいる若い女が、出戻りの娘つまり那美であることがわかる。その女の部屋が画工の泊っている部屋であることもわかる。夜中に部屋に忍び込んだのも、付け句も那美の仕業であろう。

 食事が終わり、しばらくたつと那美がお茶を出しにくる。画工は茶人がきらいなようだ。画工と那美の会話が進み、興味深い会話がなされる。

「ここと都と、どっちがいいですか」
「同じ事ですわ」
「こう云う静かな所が、かえって気楽でしょう」
「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。蚤の国が厭になったって、蚊の国へ引越しちゃ、何にもなりません」
「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出してちょうだい」と女は詰め寄せる。
「御望みなら、出して上げましょう」と例の写生帖をとって、女が馬へ乗って、山桜を見ている心持ち――無論とっさの筆使いだから、画にはならない。ただ心持ちだけをさらさらと書いて、
「さあ、この中へ御這入りなさい。蚤も蚊もいません」と鼻の前へ突きつけた。驚くか、恥ずかしがるか、この様子では、よもや、苦しがる事はなかろうと思って、ちょっと景色を伺うと、
「まあ、窮屈な世界だこと、横幅ばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、まるで蟹ね」と云って退けた。

 これは画工の冒頭の言葉と対応する。どこへ行ってもこの世は住みにくいのだ。だからこそ画工は画や詩の意味があると言っていたが、那美は画になることを拒絶するのだ。ここに「草枕」大きなヒントがある。

 鶯が鳴き、それを那美は「本当の歌」だという。人間と関わらない自然そのものの中に自由を見ているのであろう。

 那美は「本当」ではない。那美は那美を演じているのである。演じるということは同化と異化の反転運動を続ける。本物の那美に近づくと思えば、本物の那美を相対化する。それによって自分を確認しながら自分であろうとする。二重の自分が生まれる。それは鏡に写る自分を見るようなものである。
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