田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

iPhone 11

2020-01-31 12:02:38 | その他

 別に新しもの好きだとは思っていないが、止むを得ぬ事情から最近iPhoneシリーズの最新機種のiPhone 11を導入した。機械とか、ITには全く弱い私には「猫に小判」的な状況となることは必至だが、まあお付き合いしてみようと思っている。

   

 iPhoneとの付き合いもけっこう長くなった。確か今回で4機種目となるはずだ。前機種はiPhone 7だった。けっこう重宝していたのだが、昨年石狩川河畔のトレッキングの際に二度も道端に落としてしまった。その際、道端の小石の上に落ち画面に大きなひびが走ったのだった。幸い表面に張っていたカバーガラスに護られて使用することに不都合はなかった。それでも気にはなっていた。

 そこで前機種のiPhone 7が機種代金の支払いが完了したことと、妻がdocomoと契約していたこともあり、softbankからdocomoに乗り換え、家族割引も利用することにした。

 実は知人のsakagさんがアウトドア仕様の超堅牢な京セラのTORQUE G010という機種を使用されているのを知り、その機種を導入しようとしたのだが、私の知識では導入が困難と判断して断念した経緯があった。

   

 ということでの今回の導入なのであるが、最新機種とはいってもiPhone 11には3機種(iPhone 11 Pro Max、iPhone 11 Pro、iPhone 11)があり、その中では最も下の機種である。iPhone 11がこれまでの機種と違う点は主としてカメラ機能のようである。テレビCMでもお馴染みかと思われるが、カメラのレンズが二つ搭載されていることが特徴のようだ。説明によると広角カメラと超広角カメラの二つのカメラが搭載されているそうだ。私はふだんスマホのカメラはほとんど使用しないのでその恩恵はあまり感ずることがないかもしれない。今後は手持ちのコンデジより性能が上のようなので積極的に使ってみようかと考えている。二つ目の特徴としてバッテリーの持ちが長くなったということで、こちらは有難い改良である。

 私がスマホで主として活用しているのは、インターネット機能、スケジュール機能、メール機能、マップ機能、メモ機能などである。つまりスマホが搭載している機能の多くを利用できない状態であるが、今さら仕方のないことと割り切っている。

 今回は珍しくiPhone 11の解説本を購入してきた。少しはこれまでより活用の幅を広げられたら、と思っている。

 と同時に、実は前々機種も登山中に落として画面にひびを入れてしまった経験がある。そこで落下防止のためにひも付きのケースを早期に購入し、アウトドアに出かける際には首からぶら下げる方法を取ろうと思っている。


しれとこ大百科

2020-01-30 20:28:31 | 講演・講義・フォーラム等

 「しれとこ大百科」? なにそれ?という感じであるが、れっきとしたイベント名である。正式には世界自然遺産・知床の日 記念行事「しれとこ大百科」という行事名である。「大百科」と銘打ったのは、知床の自然のあれこれを理解し、守り育てようという趣旨のようである。

          

 本日、1月30日は「知床の日」だということだが、この日を「知床の日」と定めたのは、2005(平成17)年に知床が世界自然遺産に指定された年に流氷が知床に接岸した日にちなんだということだ。

 本日(1月30日)午後、ホテルライフォート札幌を会場にして表記記念行事が開催され、参加した。記念行事は、「未来へつなぐ!北国のいきもの守りたい賞」の受賞団体の表彰式、さらには被表彰団体の活動発表、そして講演という内容だった。

   

 「しれとこ大百科」というイベントは確か今回で4回目だと思うが、「未来へつなぐ!北国のいきもの守りたい賞」は昨年に続き2回目だと説明があった。今年の表彰団体は、

◇(株)北海道アルバイト情報社

◇(株)北海道コカ・コーラボトリング

◇認定NPO法人カラカライトトンボを守る会あいあい自然ネットワーク

◇NPO法人環境把握推進ネットワークPEG

の4団体・会社だった。

 短い時間の中で、それぞれが活動の内容を紹介してくださったが、自然を守り、生き物を守る活動に取り組まれていることが伝わってきた。こうした活動が広く認知され、大きな輪となっていくことを期待したい。

 続く講演は斜里町立知床博物館の学芸員:内田暁友氏「知床の植物」~オホーツクに突き出た小宇宙 植物が織りなす多様性ワールド~と題してお話された。

   

 内田氏は冒頭、スクリーンに北海道の花であり、海浜植物の代表格のハマナスの花を映し出した。そして言語不明瞭に「雅子妃がどうのこうの」と口ごもるのである。雅子妃とハマナスの花の間に何か関係があるらしいとは思えたのだが、それ以上は分からなかった。帰宅して調べたところ、皇室には身の回りの品々を区別する目印として「お印」を用いるしきたりがあり、そのお印には樹木や花の名前が用いられることが多いそうだ。雅子妃が皇室に入られた際に「ハマナス」が選ばれたということだ。ちなみに新天皇陛下は「梓(あずさ)」だということである。

   

   ※ 北海道の花であり、雅子妃のお印でもあるハマナスの花

 その後、内田氏は知床の植物の特殊性に言及された。まず海浜の植物であるが、知床半島の先端部には道路がないために他地域とは違って海域と陸域が分断されることなく繋がっているため他地域には見られない植物の分布がみられることが特徴であると語った。また、高山植物では高度がそれほど高くなくとも冷涼な気候もあり、大雪山の高山植物と似た分布がされているとした。そしてスクリーンには数々の貴重な植物が映し出された。私にとってはその植物(花)がどれだけ貴重なのかは、まったく計りかねる門外漢である。高山植物の方は若干登山も楽しんでいるので多少は見覚えのある花も登場したが、いずれにしても何のコメントも出来ない。映し出された写真だけを羅列することにする。

 先述したように私は植物については全くの門外漢であり、関心も薄い。しかし、内田氏によると絶滅危惧種などの調査で何日も山に籠って植物調査をしているとのことだ。大変な努力をされて、自然の実態を調査され、植物多様性の保護に努められているようだ。植物に限ったことではないが、内田氏のように地道な努力をされている多くの方々の努力があって、私たちは地球の、あるいは自然の実態を知ることができることに感謝しなければならないのだと本日改めて感じさせられた。

   

   ※ チシマコハマギク

   

   ※ エゾモメンヅル

   

   ※ エゾヨモギギク

   

   ※ レブンコザクラ

   

   ※ バシクルモン

   

   ※ シレトコスミレ

   

   ※ 同じくシレトコスミレ

   

   ※ タカネタチツボスミレ

   

   ※ タニマスミレ

   

   ※ チシマツガザクラ

   

   ※ ラウススゲ

   

 ※ 知床五湖に繁茂する帰化植物の園芸スイレン。何とかできないものか、と内田氏は嘆いた。

 


映画 風の電話 №265

2020-01-29 15:07:00 | 映画観賞・感想

 あの2011年3月11日の大震災によって家族の全てを奪い去られた一人の少女の哀しみがこんなにも重く、深く、長く、彼女の心の中に沈殿していたとは…。その哀しみを見事なまでに表出したモトローラ世里奈という女優の存在感に圧倒された映画だった…。

     

 昨日(1月28日)午後、シネマフロンティアにおいて映画「風の電話」を観た。

 「何か良い映画を観たいなぁ」と思っていたところ、過日の新聞に震災を受けた岩手県・大槌町に電話線が繋がっていない「風の電話」が実在し、多くの人が訪れていることをモチーフとして制作された映画が第70回のベルリン映画祭に招待・上映されるとのニュースを目にした。「これはきっと良い映画だ!」との思いを強くし、昨日映画館に足を運んだ。

 平日、しかも宣伝もそれほど打っていなく地味な映画のためか観客はかなり少なかった。

   

   ※ 出演の左からモトローラ世里奈、西島秀俊、三浦友和、西田敏行の俳優陣です。

 映画は西田敏行、三浦友和、西島秀俊といったベテランが脇を固めてはいるものの、あくまで主演のモトローラ世里奈の映画だった。

 モトローラ演ずる「ハル」は岩手県・大槌町で東日本大震災に遭遇し、両親・兄弟を失い一人残されてしまい、唯一の肉親である叔母に引き取られ広島で暮らして8年が経過し、高校3年生だった。ある日、叔母が突然倒れ、自分の周りの人が誰もいなくなってしまう不安にかられた彼女は、震災以来一度も帰っていなかった故郷の大槌町へ向かう。

 ハルはいろいろな土地で、いろいろな人たちに出会いながら大槌町に向かうというロードムービー的な要素も含んだ映画となっている。その間ハルはほとんど言葉を発しない。周りが三つ問う中、一つ応えるといった感じで彼女はその動作、その表情から観客に何かを伝えようという感じだった。

   

   ※ 顔全体がそばかすに覆われているが、それが彼女の個性だと認められているそうだ。

 大槌町の自宅跡にたったハルはそれまでの無口とは別人のように亡き父母に、兄弟に叫びかける。「呼んでいるのに何故応えてくれないの?」、「何故私だけ取り残されたの?」と、これまで封印していた心の叫びをぶつけるハルだった。ハルは再び広島へ帰ろうとしたとき大槌町にある「風の電話」の存在を知った。そこを訪れたハルは「風の電話」のボックス内で父母や兄弟に話しかける。自宅跡のときのように泣き叫びはしなかったものの、彼女が父母や兄弟に向かって語りかける話の一言一言は私たち観客の心に中に、ずっしりと重く、深く、長く伝わってくるものがあった。

 そのハルの言葉は、あらかじめ用意されたセリフではないという。広島から始まったロケの中でモトローラ世里奈自身が思い、感じたことが、そのままの言葉となって発せられた言葉だという。モトローラ世里奈とは、なんていう俳優なんだ!けっして美少女とはいえないモトローラ世里奈だが、その存在感は抜群である!

   

 ※ ご覧のように決して美少女とはいえない(失礼!)風貌ですが存在感は抜群でした。

 映画のテーマも素晴らしかったが、モトローラ世里奈という俳優を知ることができ、彼女が今後どのような俳優として成長していくのか、非常に興味深い。


北区・安春川探訪(?)

2020-01-28 20:26:25 | 「めだかの学校」関連

 探訪とはちとおこがましい。そこで最後に(?)を付けさせてもらった。講座開設のための事前踏査をどうしてもしておかねばならなかった。そこで半分雪に埋もれてしまっていた北区・新琴似の「安春川」を訪れた。

   

   ※ 「安春川」と書かれた銘石も雪をほろってなんとか判読できる程度でした。

 本日(1月28日)午前、講座開設のためにチームを組んでいるS氏と安春川を実際に訪れることにした。そのわけは、「めだかの学校」の新年度企画の一つとして野外講座「さっぽろの古を訪ねて」を企画中であることは以前にも拙ブログで紹介した。その講座の一コマとして「新琴似屯田兵中隊本部」を訪ねることにしていたが、そこから少し離れたところに「安春川」がある。安春川は新琴似屯田兵が入植した地が湿地帯だったところを農地にするために、1890(明治23)年に屯田兵の手によって開削した(4.7Km)という歴史があった。そこで中隊本部の見学と同時に安春川も見学できないものかどうか、実際に現地を歩いて無理ない行程であるかどうかを検証する必要があったため、本日現地に赴いたというわけなのだ。

   

   ※ 始発点のところから雪に覆われた安春川を望んだところです。

 安春川は新琴似地区の都市化に伴って川の流れが枯れてしまったそうだが、現在は川の周辺を整備するとともに、創成川処理場の高度処理水を導水してせせらぎを回復させることによって、住宅地の間を流れる親水公園的性格を帯びた住民の憩いのプロムナードとなっていて、案内によると川の両岸には屯田兵の偉業をたたえるタイル画が展示されているという。

   

   ※ 安春川の中間地点まで来て撮った様子です。

 さて、実際に歩いてみたところ「新琴似屯田兵中隊本部」の建物が遺されている新琴似神社から「安春川」の始発点まで12分ほどかかった。よってここでは15分はみる必要がありそうだ。しかし、ここまででは安春川の素晴らしさも、タイル画も見ることができない。私たちはプロムナードを受講者に歩いてもらうことが必要ではないかと考えた。しかし、4.7Km全てを歩くことはシニアの足ではとうてい無理である。私たちは中間付近までだとどうだろうかと考えて実際に歩いてみた。約20分かけて歩くと中間付近まで到達した。そしてそこで初めて屯田兵に関するタイル画も見ることができた。

    

   ※ 明治時代の人々の様子を描いたタイル画の一つです。  

 問題は帰るため時間にも20分を要する。トータルするとかなりの時間にもなり、距離も相当である。シニアの体力のことも考えると難しい判断が迫られる。

   

   ※ この画は、倉庫を警備している屯田兵の図でしょうか?

 S氏との間では、受講者の全体像がまだつかめていないので、受講者全体が決定した時点で顔ぶれを見ながら最終決定にしましょう!ということになった。

 私たちが取り組んでいる野外講座「さっぽろの古を訪ねて」第3弾「北の守りと開拓を担った屯田兵の史跡を辿る」の企画案も近日中に最終決定することになっている。その時にはまた拙ブログでも報告したいと思っている。

      

      ※ 夏の安春川の様子の写真をウェブ上から拝借しました。      


シベリア・サハの暮らしと音楽文化

2020-01-27 17:04:05 | 大学公開講座

 シベリア・サハ共和国では、冬の気温が摂氏マイナス50度にもなるという。一方で夏は40度近くまで上昇するらしい。年間の気温差100度の厳しい自然の中での人々の暮らしとそこで培われた音楽文化についてのお話を聴いた。

          

 1月25日(土)午後、紀伊國屋書店札幌本店のインナーガーデンにおいて「北海道科学大学まちかどキャンバス」が開催され参加した。

 今回の講座は「シベリア・サハでのマイナス50度の暮らしと音楽文化」と題して同大学の荏原小百合准教授が講義をされた。

     

  ※ 赤い部分がサハ共和国で、国土は日本の約8倍の広さだそうだ。

 荏原准教授の専門は「文化人類学、音楽人類学」だそうで、現地の芸術高校で教鞭をとられたりして、何度もシベリア・サハに足を運ばれている方である。リード文にもあるようにサハ共和国は寒暖の差が非常に大きく、厳しい自然環境におかれた国である。冬には、北国に暮らす私たちでも想像するのが難しいマイナス50度にもなる酷寒の地である。しかし、そのような厳しい環境の中でもサハの人たちは逞しく生活しているとのお話を伺った。特に驚いたのは、冬期間には国を横断するように流れるレナ川が氷結すると、そこが国道となり交通の要衝としての役割を果たしているという話には少なからず驚いた。

       

      ※ 講義をされる荏原小百合札幌科学大准教授です。

 サハは現代でこそ、ダイヤモンド、天然ガス、金、その他の鉱物資源が発掘され、採掘、加工も盛んになったそうだが、伝統的には牛馬の飼育によって生活を営んできた民族だということだ。

 そうした生活の中で人々の間に生まれたのが「ホムス」と呼ばれる金属製の口琴である。それはちょうどアイヌ民族が生み出した竹製の「ムックリ」を鉄製に置き換えたような楽器である。荏原氏はご自身の専門分野との関りもありサハ民族の口琴音文化に注目したということだ。

   

   ※ 写真真ん中の三つがケースに収められた「ホムス」です。

 サハは前述したように鉄などの鉱物資源が得られるという地域性もあり、鉄を加工する技術が早くから発達し、そのことがホムスの誕生に結びついたそうだ。荏原氏は実際にホムスを演奏もしてくれたが、その音色は口腔を共鳴させるという共通点があるため似たような音色に聴こえてきた。ただ、ホムスには様々な演奏方法があり、より多様な音色を引き出すことができるようだ。

 ホムスはサハの人々にとって広く普及し、国民楽器とも称されているという。ホムスを演奏する人を「ホムシスト」として称しているらしいが、ホムシストの演奏を「鉄は歌う」、「ホムスは歌う」と人々は敬い、サハの大地の語りとして聴くということだ。

 荏原氏によると、サハの人々はホムスを通じて、〈大地〉→〈鍛冶師〉→〈ホムスの演奏〉→〈聴衆〉→〈大地〉というように自然を再認識するものとして位置付けられているという。

   

   ※ 会場前にはサハ共和国の民芸品などが展示されていました。

 荏原氏は言及されなかったが、ムックリについても造詣が深いようだ。荏原氏は言外にアイヌ民族のムックリもホムスのような存在であってほしいという願いのようなものがあった気がしてならない。


スノーシュー in 利根別自然休養林

2020-01-26 19:35:50 | スノーシュートレック & スノーハイク

 快晴!無風!絶好のコンディションの中、岩見沢市まで遠征してスノーシューを楽しんだ。少雪の今冬とはいえ、さすが雪どころ(?)岩見沢である。それなりに雪も積もっていてスノーシューを楽しめた。しかし…。

  

  ※ 利根別自然休養林の全図です。私はこの図のBコースを歩きました。

 本日(1月26日)、天気予報もまあまあだったのでスノーシューに行くことを決めていた。目的地はブログを通して交流のある「ピンネの風に揺られて」https://blog.goo.ne.jp/norono3)のブログ主であるつうぅさんのホームゲレンデ(?)「利根別自然休養林」と決めていた。つうぅさんのブログでは度々鳥などの生き物のレポがあるので、それを期待したのだ。

   

   ※ 利根別自然休養林のウォーキングコース(夏バージョン)の入口です。

 自宅から約1時間半かけて「利根別自然休養林」の入口に着いた。休養林は岩見沢の住宅地の後背地に広がる自然休養林である。マップによると距離順にA、B、Cと三コースあるが、Cコースは台風などによってコースが寸断されているらしく、立入禁止のマークがあるため、Bコースを歩くことにした。(約5Km)

   

   ※ このような案内板がたくさん設置されていて安心して歩けます。

 私はマップでいう上側(北側?)から歩き始めた。営林署が整備した休養林らしく良く整備されたコースが用意されていて、歩くスキーの跡がくっきりと付いていた。コースはあまりアップダウンもなく淡々と続いている感じだった。つまりコースはスノーシュー向けというよりは、歩くスキー向けに設定されたコースのようだった。だからだろうか?行き交ったのはスキーを付けた人だけだった。

   

   ※ 歩き始めて間もないコースの様子です。整備され、歩きやすいコースです。

   

   ※ コースの分岐点にはこのような案内標が立っていました。

 肝心の生き物にはまったく出会えない。聞こえてくるのはカラスの鳴き声だけ…。きっと子細に見れば、生き物の姿が見えてくるのかもしれないが、見る目が節穴の私には見えないということなのかもしれない。途中でスキーのシュプールの跡にあきらかにエゾシカの足跡だと思われる跡を見かけたが…。

   

   ※ 明らかにスキーのシュプールの跡をエゾシカが歩いた跡が残っています。

   

※ ここはAコースとBコースの分岐点です。右へ行くとBコース。下へ向かうとAコースです。

 スタートから1時間半かかってコースの真ん中辺にあたる「中央園地」に着いた。大きく立派な東屋があったので一息つくことにした。腰を下ろして妻に電話をしていた時、目の前の木でガラ類の鳥が木を突いているのを目撃した。写真に撮るにはコンデジの望遠では遠すぎる。静かに近づいてみたのだが、気付かれてしまい残念ながら写真に収めることはできなかった。遠目ではっきりしなかったが、その大きさからヤマゲラではないかと思われた。

   

   ※ 「中央園地」にあった大きな東屋です。かなりの人数が休めます。ここでヤマゲラを目撃したのだが…。

 中央園地付近は休養林の中でも高い位置にあると思われるが、さらにその前方に「展望園地」があり、高さを増していった。するとスキーのシュプールの跡が消え、スノーシューの跡になった。どうやらスノーシューを楽しむ方は別のルートを歩いてこの地に来るのかもしれない。

   

   ※ 私が歩いた後のスノーシューの跡です。

 しばらく行くと「展望園地」を前にして壁のように立ちはだかる登りがあった。案内板ではそこから100mとあった。その壁のような上りにも細い跡があったのだが、太くてしっかりした踏み跡は右側に伸びていた。私は何の疑いも持たずにそのしっかりとした踏み跡の方へ進んだ。ところがいくら前進しても「展望園地」らしいところに着かないのだ。その辺りになると踏み跡もあちらこちらと散らばっていた。その一つの踏み跡を頼りに前進するとT字路のようにして太い踏み跡に戻ることができた。「おかしい?」と思った私は、その太い踏み跡を戻ってみた。するとやはり私が思った通り、戻った先に「展望園地」があった。展望園地は確かに休養林内ではピークに位置していたが、木に遮られてそれほど展望が効く場所ではなかった。

   

   ※ 「展望園地」でパノラマ仕様で撮った展望です。

 そうなった理由を考えてみた。つまり、地元の人にとって大して展望も効かない「展望園地」は魅力を感じないのだろう。そのため急坂を伴う「展望園地」を避けたために踏み跡があちこちにできたということではないだろうか?

 「展望園地」からはひたすら下りが続いた。しかし、その踏み跡がそれまで通ってきたコースの様子とは違うように思われた。どうも整備されたルートとは言い難い様子なのだ。いやそれは、先の「展望園地」に至るルートがまちまちだったことで、私の中に不信感が生まれたせいだったのかもしれない。

   

   ※ 「展望園地」からの帰路ですが、あきらかに前半のコースとは様相が違います。(上下2枚とも)

   

 スタート地点に近くに「大正池」がある。そのときスノーシューが活きた!踏み跡があるところから「大正池」までは少し距離があり、写真を撮るのに適していなかった。私は池に近づくために踏み跡のない深雪の中を進んで「大正池」を写すことができた。スノーシューが活きるのはやはり道なき道を進むときである。かといって、初めて踏み込む地では不案内のために迷ってしまっては大変である。そのあたりのさじ加減が課題である。

   

   ※ 踏み跡がないところをスノーシューで進むと、ご覧の通りです。

   

   ※ 苦労して(?)撮った「大正池」です。

 スタートしてから3時間半を擁してBコースを一周することができた。

 目的だった生き物の観察は、ゲラ類をチラット見ただけだったが、静かな雪に埋もれた森林の中を一人往くのは何とも心地良いものである。これからもいろいろなところに出没し、スノーシューを楽しみたい。

   

   ※ 最後の1ショットです。何の足跡でしょう?教えて!つうぅさん。 


中村哲医師を悼む

2020-01-25 21:58:10 | 講演・講義・フォーラム等

 アフガニスタン人民のために全身全霊をかけて支援に取り組んでいた中村哲医師が昨年12月4日、何者かの凶弾に倒れたことは記憶に新しい。その中村医師のお別れ会が福岡市で営まれた本日、それに連動して札幌市のおいても「中村哲医師 追悼の集い」が開催されたので参加した。

    

 本日(1月25日)夜、エルプラザホールにおいて「中村哲医師 追悼の集い」が開催された。会場の定員は320名だそうだが、関心の高さを反映して立見席が出るほど多くの人たちの参加の中で開催された。

 代表の方の挨拶の後、中村医師にとって生前最後となるDVD「用水路が運ぶ恵みと平和」(2016年刊)が放映された。それは奇しくも中村医師が1984年にパキスタンのペシャワールに医療奉仕団として赴任して以来、アフガニスタンにおける3年前まで全活動を網羅したものであった。

        

 実は私は中村医師が2011年5月に来札して講演した際に、同じエルプラザホールにおいて中村医師のお話を直接伺ったことがあった。(その時の記録はこちらhttps://blog.goo.ne.jp/maruo5278/d/20110523)そのときは確か用水路建設のための資金援助を求めての全国行脚の一環だったと思われる。中村氏はご自身の行動を特別に誇るでもなく、むしろ淡々とご自身の考え、実践を語っていたのが印象的だった。私はむしろその姿に氏の誠実さを感じ、その姿勢に打たれたことを記憶している。

 ところが今夜の集会は、その後私の期待とは少し方向が違ってきてしまった。というのも、この日の集会は「北海道パレスチナ医療奉仕団」が主催で、集会名も正式には「中村哲医師 追悼の集い」+「第13次パレスチナ医療・こども支援活動報告会」となっていた。主催者としてはむしろこちらの方が主眼だったようだ。したがってDVD放映の後は、報告会が主となってしまった。こちらの活動も尊い活動ではあるが、その報告は割愛させていただく。

 そこで今夜の集会で渡された文書の中に、中村医師が生前に語った印象的な言葉が紹介されていたので、その言葉を紹介したい。

◇病気やけがの背景を解決しなければ、本当の予防と治療にはならない。

◇小さな希望を実現することが大切。戦よりも食料自給。武器ではなく命の水を。

◇100万発の銃弾より、1本の用水路。

◇憲法は、我々の理想です。理想は、守るべきものじゃない。実行すべきものです。

◇憲法9条は、近代の歴史を背負う金字塔。しかし、同時に「お位牌」でもある。平和憲法は、戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万ランの人々の位牌なのだ。

◇ことを思い立ったら、直ちに取り組んでください。

◇どんな小さな希望でもその実現のために力を尽くしなさい。

◇最初は小さなことでも継続すれば、現地の住民との信頼関係が生まれます。

 どの言葉も、中村医師が言うから重い。そして素直に私たちの心に浸み入る。

      

 今夜の集いでは、中村医師の活動を中心的に支えてきた「ペシャワール会」の追悼号(号外)が渡された。その中にはペシャワール会の主だった方々と共に、奥様、長男、長女の方の寄稿文も寄せられている。貴重な会報である。整理下手の私だが、長く保存したいと思っている。

 


初スキー in ban.Kスキー場

2020-01-24 19:51:46 | スポーツ & スポーツ観戦

 今年も何とか初滑りを終えることができた。最近は年に一二度滑るだけであるが、今日もなんとか昔取った杵柄で無事に滑り終えることができた。それにしてもスキー場は閑古鳥が鳴く状況だった…。さらにはなんととんだ災難にも遭遇した。

   

 本日(1月24日)、特に予定もなかったのでスノーシューにでも出かけようかと思っていたが、寝過ごしてしまいスノーシューで遠くへ行くことが難しくなった。そこで近間のban.Kスキー場でシーズンの初滑りをすることにした。

     

   ※ ban.Kスキー場は全コースオープンと謳っていたが左右のリフトは休止状態だった。

 ロッカーからスキーを引っ張り出し、ban.Kスキー場に着き硬いプラスチック靴を苦労して装着し、チケット売り場に着くとちょうど12時だった。シニア4時間券(2,600円)を購入して「さあ!久しぶりに楽しもう」としたとき、手にしているストックの片方が違っているのに気づいた。急いでスキーを立てかけたところに行ってみたがそこには跡形もなかった。チケットを購入するほんの僅かな時間に取り違えられてしまったらしい。片方だけ取り違えたのだから意図的なものではないと思う。私はスタッフにお願いし、場内放送をかけてもらったが、間違えた方は現れなかった。幸い長さは大して違いがなかったので、間違えた人が現れるまで左右違うストックで滑ることにした。

   

   ※ 午後0時半ころのメインゲレンデの様子です。

 久しぶりのスキーは1本目こそやや安定を欠いたが、やや後傾になっていることに気づき、それを修正してからは安定して滑ることができた(と思っている)。しかし、哀しいかな体力の衰えは覆うべくもない。リフトで5本を滑ったころには大腿部の筋肉が硬直しているのに気づいた。時計を見ると、滑り始めてからまだ40分程度しか経っていなかった。

   

   ※ スキーロッジ前のスキー立てに立てかけてあるスキーも少なかったです。

 一休みを入れ、それからも同じ本数滑ったが、もういっぱいいっぱいだった。結局スキーを脱いだのは14時15分、実質的には2時間に満たない初滑りだった。結局、瞬間的に大きな負荷のかかる運動に耐える筋力がもはや失われてしまった…ということか?ちょっと寂しい気分だが、いたしかたないことか?

 ことスキーに関して、私は特別な思い入れがある。聞きづらい話になるかもしれないが、少々お付き合い願いたい。

   

   ※ 閉鎖されたコースでは人工降雪機が稼働していました。

 私が若かったころは、冬といえばスキー一色だった。特に20代の頃は、スキーの準指導員の資格取得を目指して夢中にスキーに取り組んだ。準指導員が目前の頃などは年間50日を超すほどスキーに打ち込んだ。(というのも、勤務後に夜間スキーに通っていたのだ)

 30歳の時に待望の準指導員の資格を取得し、それから3年後には無事に指導員の資格を得た。指導員の資格を得てからは、その名の通りスキーの指導に没頭した。地域のスキー振興のために少しは貢献できたのではとの自負はあるつもりだ。海外スキーにもスイス・フランスとカナダへと2回の海外スキーも体験した。

   

   ※ スキー場内にはご覧のように閉鎖されたところが何か所もありました。

 「もうおスキーも腹いっぱいかな?」と思い始めた時期と、職場で管理職となる時期が重なった。すると、スキー指導に出かけることが徐々に困難になり始めた。一校を預かるような立場になると、夜間のスキー教室の指導はほぼ困難となってしまった。そうしたことが重なり、やがて指導員の資格を返上することになってしまい今日に至っている。しかし、中には管理職となっても工夫をしながら熱意をもって指導員を継続されてきた方もたくさんいらっしゃる。私はその意味では意思の弱い人間である。スキーに情熱を傾けた時期を懐かしく思い出している。

 さて、現実に戻ろう。ban.Kスキー場は閑散としていた。少雪の上、平日とあってゲレンデはガラガラだった。目立つのはスキー授業の中学生と、中国から来た人たちだった。リフトにも乗っている人が数えるほどだった。昔のスキーブームを知っている一人としては寂しいかぎりだが、これも時代の流れ、致し方のないことか?

   

   ※ スキー授業中の中学生です。

   

   ※ さすが雪国・札幌の中学生なかなかの足前に映りました。

 結局、間違えられたストックは私の元へは戻らなかった。以前ならすぐに新しいものに買い替えるところだが、今はそんな経費をかけるつもりはない。左右の違ったストックを使用するのも悪くはない、と考えるほどスキーへの情熱が冷めてしまった私である。


映画 モダン・タイム №264

2020-01-23 19:48:31 | 映画観賞・感想

 ご存知の映画黎明期の喜劇王と称されたチャールズ・チャプリンの代表作の一つである。1936(昭和11)年制作ということだが、機械文明が発達する中で人間が翻弄される姿を笑いと共に表現した秀作である。

          

 本日(1月23日)午後、かでる2・7において今年初の「懐かしのフィルム上映会」があり参加した。今回取り上げられたフィルムは、チャールズ・チャプリンが監督・製作・脚本・主演を務めた「モダン・タイム」だった。

 「モダン・タイム」は過去にも見たことがあるが、チャプリンが機械に挟まれるところとか、最後のシーンで恋人と夕陽の中を歩いていくシーンが印象に残る映画だった。

 映画では冒頭に経営者に管理されながら、流れ作業の中、まるで機械に振り回されるように強制されるチャーリーの姿が映し出された。その当時の日本はどうだったのだろうか?紡績工場などで女工さんがやはり機械に振り回されていた時代だったのか?いずれにしても産業革命によって機械化がどんどん進み、人間が阻害されている状況をチャプリンは笑いと共に鋭く風刺している点が印象的である。

      

 あまりの非人間的な工場現場の中、チャーリーは発狂してしまい精神病院送りとなってしまうが、それから数々の変転が描かれている。そうした中で、実生活でもパートナーとなった少女と出合い、同じ境遇の二人は心を通わせることになる。

 チャプリンの演技で印象的だったのは、例のチャプリン歩き(という表現が適切かな?)とともに、まるでマイケルジャクソンが編み出したムーンウォークを彷彿とさせるような歩き方を当時すでにやっていたことに驚いた。また、我が国で一世を風靡したドリフターズのお笑いの原型のようなものも映画の中でふんだんに織り込まれていたのも驚きだった。

 映画を観ていた人たちの反応は、どの場面でも「クスッ」といった反応だったが、それはチャプリンの笑いが今の人にはある種当たり前と受け取られるからであり、1936年当時だと、映画館内は爆笑の渦に包まれたのではないかと思われた。

 解説によると、この「モダン・タイム」や「独裁者」、「殺人狂時代」などは社会風刺が強調され過ぎているだとか、政治的であるなどの理由からパッシングにも悩まされたそうだ。しかし、それはチャプリンが単なる喜劇役者の範疇を超え、社会的な影響力を持つ映画人として大成していたことを表す証拠であるともいえる。

      

 チャプリンの代名詞ともいえる窮屈な上着に、だぶだぶのズボン、大きすぎる靴、山高帽に竹ステッキのいでたち、そしてパーマ頭にちょび髭、アヒルのように足を広げてガニ股で歩く姿は、今なおチャプリンのオリジナルとして通用するところに彼の偉大さを見る思いである。

 


ウィーンフィル ニューイヤーコンサート

2020-01-22 14:25:22 | ステージ & エンターテイメント

 もちろん!私がウィーンにまで出かけてコンサートを聴いたという話ではない。札幌市生涯学習センター(通称:ちえりあ)においてウィーンフィルの2001ニューイヤーコンサートをDVDで視聴したということである。素人なりの新しい発見があった。

          

 怖いもの知らずで、何にでも興味を抱き、どこにでも出没する私である。何にでも興味関心を抱く野次馬根性だけはまだまだ枯れていないようだ。

 以前、「CDコンサート」に参加して、その独特の雰囲気に不思議な感じをしたのだが(https://blog.goo.ne.jp/maruo5278/d/20180326)、DVDの場合はどうなのだろうか?という思いも手伝って参加してみることにした。

 題して「ちえりあDVDコンサート」はちえりあ5階の音楽研修室で開催された。会場前面には大きなスクリーンが設えてあり(400インチくらい?)、スクリーン横にはCDコンサートの時にも備えられていた大きなスピーカーが鎮座していた。(おそらく相当に高価な機器なのだろう)そして会場にはシニア層を中心に30名前後が参加していたようだ。

   

   ※ 会場となったちえりあの音楽研修室です。開演前の会場の様子です。

 何の予備知識もなく参加したのだが、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートは世界で最も有名なクラシック音楽のイベントとして知られており、日本人聴衆も毎年多数駆け付けているという。さて、この日19年も前の2001年のコンサートをなぜ取り上げたのかについて特に説明はなかったが、配布されたパンフによるとヨーゼフ・ランナーの生誕200年ということで彼の曲が3曲披露されたのだが、それが一つの理由なのかもしれない。

 もう一つは、この年の指揮者ニコラウス・アーノンクールということもあるのだろうか?解説によると彼はウィーンの音楽界では異端児で通っていたそうで、ウィーン音楽の「王道」の権化であるウィーンフィルのニューイヤーコンサートの指揮をするということは極めて異例の、いわば歴史あるニューイヤーコンサートとしてはエポックメイキングな出来事だったということも理由の一つなのかもしれない。

      

      ※ 2001年の指揮者のニコラウス・アーノンクールです。

 優れた音響と美しい内装のコンサートホール「ムジークフェライン」でのコンサートはどの曲も耳に心地よく伝わってきた。

    

    ※ ニューイヤーコンサートの会場「ムジークフェライン」内の様子です。

 DVDコンサートを視聴して、素人なるが故の発見がいくつかあったのでそのことに触れてみたい。

 一つは、コンサートで演奏された曲が全て演奏時間の短い曲だったことである。ふつうオーケストラのコンサートでは交響曲などの大きな曲と小品との組み合わせが多いように思っていた。ところがこのニューイヤーコンサートですべてが短い作品だった。長くなるが、演奏された全ての曲を羅列してみる。

 ①ヨハン・シュトラウス 父/ラデッキー行進曲 作品228

 ②ヨーゼフ・ランナー/ワルツ「シェーンプルンの人々」作品200

 ③ヨーゼフ・ランナー/ギャロップ「狩人の喜び」作品82

 ④ヨハン・シュトラウス二世/ワルツ「朝の新聞」作品279

 ⑤ヨハン・シュトラウス二世/電磁気のポルカ 作品110

 ⑥ヨハン・シュトラウス二世/ポルカ・シュネル「超電盤」作品297

 ⑦ヨハン・シュトラウス二世/喜歌劇「ヴェニスの一夜」序曲(ベルリン版)

 ⑧ヨーゼフ・シュトラウス/道化師のポルカ 作品48

 ⑨ヨーゼフ・シュトラウス/ワルツ「オーストリアの村つばめ」作品164

 ⑩ヨーゼフ・ランナー/シュタイヤーの踊り(レントラー)作品165

 ⑪ヨハン・シュトラウス二世/ポルカ・シュネル「観光列車」作品281

 ⑫ヨハン・シュトラウス二世/ワルツ「もろ人手をとり」作品443

 ⑬ヨハン・シュトラウス二世/ポルカ・マズルカ「いたずらな妖精」作品226

 ⑭ヨハン・シュトラウス二世/ポルカ・シュネル「暁の明星」作品266

〈アンコール曲〉

 ①ヨーゼフ・シュトラウス/ポルカ・シュネル「憂いもなく」作品271

 ②ヨハン・シュトラウス二世/ワルツ「美しき青きドナウ」作品314

 ③ヨハン・シュトラウス 父/ラデッキー行進曲 作品228

 2時間の演奏時間で合計17曲を演奏したのだから、一つ一つの曲の短さが想像できると思う。演奏された曲の作曲家名を見て気付かれたと思うが、このニューイヤーコンサートはヨハン・シュトラウス二世を中心とするシュトラウス家の楽曲が主に演奏されるコンサーなのだそうだ。

 さらにクラシックに疎い私でも耳に心地よく伝わってきたと前述したが、ワルツやポルカといったリズミカルな曲が多かったこともその要因のように思われる。

 発見の第二は、演奏陣が全て男性だったことだ。このことが意外だった。最近のオーケストラでは特にヴァイオリンなどは女性が目立つだけに、ウィーンフィルの場合は何か制約のようなものがあるのだろうか?(グランドハープも男性奏者だった)

 ウィーンフィルというと、札幌で開催されるPMFに毎年顔を見せるウィーンフィルの元コンサートマスターのライナー・キュッヘル(ヴァイオリン)氏がどこかにいないかと探したのだが、残念ながら見つけ出せなかった。次の年の2002年に小澤征爾氏が指揮者を務めた際にはコンサートマスターを務めていることが分かっているが、一年前はそうではなかったのだろうか?

 第三の発見は演奏者たちの服装である。新年に行われる特別の演奏会である。指揮者も演奏者も正装なのではと思ったのだが、私の目からは極めて平服のように映った。指揮者のニコラウス・アーノンクールこそ、ネクタイが特徴あるものだったが、演奏陣は一見平服のように極めて普通のスーツ姿で、ネクタイも派手さこそないものの、それぞれマチマチのネクタイを締めていた。このあたりも何か理由があるのだろうか?

 最後に驚いたのは、一部の聴衆の方たちがステージ上の演奏陣の直ぐ横に座って聴いていたことだ。この光景も私には珍しく映った。

 いろいろ発見もあり、2時間があっという間に過ぎた「ちえりあDVDコンサート」だった。