私にとってはまたまた新たな魔界に足を踏み入れた思いである。細谷源二と齋藤玄は戦後の北海道の俳句界を牽引した二人だという。彼らを特集した「細谷源二と齋藤玄 北方詩としての俳句」展を覗いてみた。
雑食性を自称する私であるが、そのことが思わぬ幸運を呼ぶこともある。何にでも興味関心を抱く私に、知人の方から時折り「チケットがあるので行ってみませんか?」とお誘いを受けることがある。今回もある方から「道立文学館で俳人を特集した特別展を開催しているので行きませんか?」とお誘いを受けた。俳句など私にとっては関心外の世界だが、未知の世界を覗いてみるのも悪くはないとの思いから、喜んでお誘いを受けることにした。
※ 道立文学館に掲げられた特別展の案内看板です。
そしてスケジュールの空いた3月16日(木)午後、道立文学館に足を運んだ。当日は雨模様ということもあって特別展には誰も観賞している人はいなかった。
私は前述したように俳句そのものについては、作品の良さなどについてまったく分からない。したがって、特別展では細谷源二氏と齋藤玄氏の人そのものを理解することに努めた。それをもとにお二人について簡略にまとめてみると…、
細谷源二氏は東京生まれで、旋盤の町工場を経営しながら俳句の世界に入るも、戦時中の俳句弾圧に遭い拘留も体験した。その後東京空襲に遭ったこともあり、北海道豊頃村(現豊頃町)に入植するも失敗し、旋盤の腕を活かして砂川市にあった東洋高圧に職を得た。旋盤工をしながら作句も続け、仲間を募り同人誌「氷原帯」を発行するなど北海道の戦後俳句界を力強く牽引したそうだ。細谷氏は自らが旋盤工として働きながらの俳人ということもあり、「働く者の俳句」を志向し、リアリズムと冒険的な前衛性が特徴だそうだ。
氏の代表的な作品は「地の涯に倖せありと来しが雪」
一方、齋藤玄氏は函館生まれで、早大商学部を出て旧北海道銀行に職を得た。大学時代に俳句の世界に魅かれ、俳人石田波郷に私淑する。銀行員としての多忙な生活のため一時作句を中断するが、銀行を退職し道央信用金庫の専務理事に就いてから再び作句を始めた。
齋藤の俳句は、「幽玄の世界」に深く分け入り伝統詩型の中に新局面を切り開いたとされている。
代表的な作品としては「蘇る水の稲妻枯尾花」
二人の俳句は上述のように目ざした俳句は異なるが、ともに新興俳句の精神を戦後北海道に根付かせ「北方詩としての俳句」という世界を創り出したという共通点を持つ俳人として後世に伝わる二人である。なお、二人が交流をもったのかどうかについて展示の中からは見つけることができなかった。
特別展において、私は二人の俳人としての背景を知ることはできたが、彼らの俳句を味わうということは私の素養の無さゆえ叶わなかった。それでも北海道において戦後にこうした有能な俳人を有したことを知ったことだけでも有意義なひと時だった。
リアリズムの巨匠として名高い野田弘志展(「野田弘志-真理のリアリズム」)が芸術の森美術館で早くから開催されていたが、ギャラリーツアーがある本日まで待って待望の観覧をした。素人でもその素晴らしさが理解できる超写実的な絵画は息を呑むほどであった。
本日(7日)午後2時から、学芸員による「野田弘志展」のギャラリーツアーがあると知って「札幌芸術の森美術館」に駆け付けた。会期末(1月15日)が近づいているからだろうか?次から次へと観覧客が押し寄せてくる状況だった。
※ 札幌芸術の森美術館のエントランスです。入口横には野田作品の「カワセミ」が展示されています。
私は午後1時過ぎに美術館についたので、ギャラリーツアーの前に展示をざっと一回りして見た。その際に、野田作品を解説する動画も映写されていたのでそれを視聴してギャラリーツアーに備えた。
午後2時、芸術の森美術館の学芸員・橋本柚香氏によるギャラ―リーツアーが始まった。橋本氏は野田氏がおおよそ10年毎にその作風に変化してきた順に6章に分けて展示されているのに従って解説を進めてくれた。
※ ギャラリーツアーのスタートの様子です。参加者は意外に少なかったですね。
第1章は、「黎明」と題され、野田氏の高校~大学~イラストレーターとして活動していた時代の作品である。しかし、この時代は「白い風景」に代表されるように抽象画の作品も目立っていたが、さまざまな画法を試した時代でもあったようだ。したがって、彼の絵が信号のように変わることから “シグナルアート” とも呼ばれていたという。大学を卒業しイラストレーターとして依頼される仕事をこなす中で、写実的な画法も試みていて「パーゴルフ」という雑誌の表紙の絵などは当時のプロゴルファーがかなり写実的な描かれている。
第2章は、「写実の起点と静物画」と題され、学芸員の橋本氏によると「黒の時代」とも称されたという。この時期にはすでに野田氏の代表的な作品が数多く顔を出している。「ヤマセミ」、「石榴」、「黒い風景 其の参」など背景を黒く塗りつぶしているのが特徴である。
※ 黒い背景の「黒い背景 其の参」です。
第3章は、「挿絵芸術」と題して、朝日新聞に連載された小説「湿原」の挿絵が実に154点も展示されていた。それらは縦横10cm内外の小さな鉛筆画の作品だったが、実に繊細に描かれていた。ちなみに小説「湿原」は加賀乙彦によって1983~1985年まで1年半にわたって朝日新聞に連載された小説であるということだ。
※ 挿絵の一つ、眼を描いた鉛筆画です。
第4章は、「風景を描く」と題して、「摩周湖・霧」とか野付半島の「トドワラ」など北海道に題材をとった風景画を描きながら、そこに彼の後年のテーマとなる「生と死」を絵の中に表現している。
※ 風景画「トドワラ」です。緑が生、枯れた松が死を意味しているとのこと。
第5章は、「生と死を描く」と題して、とくに「TOKIJIKU(非時)」と題する動物などの骨を題材として描く作品が多くなっている。動物の骨を題材としたのは、生き物が生きた証として骨に着目したそうだ。
※ この章ではこうした動物の骨がたくさん展示されていました。
最後の第6章は、「存在の崇高を描く」と題して、「裸婦」や「抽象画」を数多く手がけている。「まるで写真のような絵」と称される野田弘志の絵であるが、彼は対象をただ写実的に描くだけではなく、「内面をも描きたい」との思いをもっていつも制作してきたという。
※ イスラエルのヴァイオリニストの肖像画を描いた「崇高なるもの」op.7です。
ギャラリートークの前に観た動画でも、「野田の絵は写真のように素晴らしい」という評に対して内心忸怩たる思いがあったようである。ヨーロッパにおいてはミケランジェロをはじめとして写実主義は美術の王道と評されるのに対して、日本では必ずしもそう評価されず抽象的な絵画が尊ばれる風潮に対して野田氏なりの思いがあるように私は受け取った。
ギャラリートークは野田弘志が時代と共に変容する姿を作品と共に辿るものだった。
最後に学芸員氏は野田の言葉として「生あるものは死すべき運命にある」という言葉を紹介して終わった。
※ 美術館のエントランスを入ったところに写真のようなポスターが掲示されていました。
冒頭にも触れたが、野田弘志の作品が非常に繊細な写実的な絵であることが、多くのファンを呼び込む要素となっていることは間違いではないと思われる。しかし、今回ギャラリートークで学芸員氏の話を伺い、動画で彼の思いを拝聴し、野田氏の作品の背景には深い思索とそこから発する精神性が潜んでいることを少なからず理解できたような気がした「野田弘志-真理のリアリズム」展だった。
※ 掲載した野田氏の作品は全てウェブ上から拝借したものであることをお断りしておきます。
やはり今年の北海道の話題の第一はKAZU 1(カズワン)に占められるのだろうなぁ…。そういえば北京冬季五輪の北海道勢の活躍もあったけど遠い思い出になるなぁ…。などと思いながら報道写真展に見入っていた私だった。
※ グランプリを獲得した「暗闇の中、船体引き揚げ」という作品です。
12月18日(日)、「吉本隆明展」を観覧した帰路、札幌駅前地下歩行空間(チ・カ・ホ)に立ち寄って、開催中の北海道写真記者協会主催の「北海道報道写真展」を覗いた。
新聞記事によると昨年11月から今年10月までに新聞等に掲載された写真のうちから357点の応募があり、その中から70点が展示されているとのことだった。報道写真という親しみやすさも手伝い、チカホを往く人たちが数多く立ち寄って観賞していた。
展示されていた70点の写真の中で目立ったのが、やはり知床観光船KAZU 1の沈没事故に関する写真だった。今年の北海道内での最大の暗い事故といえば、やはりこのことだろう。人の命を預かる事業者としての杜撰さ、多くの命が一瞬にして奪われてしまったという衝撃の大きさからいっても、記憶に残る大きな出来事だった。
※ こちらは海上に姿を現したKAZU 1を撮ったものです。この他にも関連写真が数点ありました。
そして次に目立ったのが北京冬季五輪における北海道勢の活躍を伝える写真だった。私も連日連夜TVの前で声援を送っていたが、それが遠い昔のように思えた。そうした思いがあるからだろうか?私にとっては、もう過去のことという思いもあり、写真に見入る気持ちは薄れていた。
私の目に留まったのは、入賞した写真ではなかったがプロ野球のプレーの一瞬の瞬間を切り取った「マトリックス伊藤」と題する写真だった。マトリックスとは映画「マトリックス」から着想を得たと思えるのだが、現実とは思えない日ハム・伊藤投手のグラブさばきを指しているものと思われる。
また、「網絡まったエゾシカ」という写真も目に留まった。増えすぎたエゾシカ、そして人間が捨てたゴミが野山や海浜に散乱する現実を象徴する写真の一枚のように思えた。
そして最後に報道写真というよりは、一枚の写真として素晴らしい一枚と思えたのが「ぽっかりと中秋の名月」という写真だった。私にはファンタジックな一枚の絵のように思えた写真だった。
私がカメラに収めたのは70点のうちわずか6枚である。まだまだ素晴らしい写真がたくさんあった。報道写真は芸術的な写真と違って分かりやすさが一つの特徴だと思われる。さて、来年の写真展ではどのような写真が展示されるであろうか?願わくば、明るい道民の話題がたくさん展示されてほしいと思うのだが…。
※ 「神秘的に輝くレナード彗星」と題する写真も報道というよりは芸術的写真です。