田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も10年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

古文書から見る「屯田兵制度」とは

2013-10-31 16:52:54 | 札幌学 & ほっかいどう学
 明治6年(1873)黒田清隆が屯田兵創設の建議を行った翌明治7年には「屯田兵条例」が制定され、屯田兵の募集が開始され、さらにその翌年には第1回の屯田兵が入植している。凄いスピード感である。その「屯田兵条例」とはどのようなものだったのか、そしてその屯田兵が西南戦争に駆り出された際の「戦闘日記」を古文書で追ってみる。
 (※ 本日の投稿は昨日の続編ですので、昨日の投稿も参照ください。) 

 「屯田兵条例」は明治7年10月30日付で制定されている。
 その条例では「緒言」に続く「編制」の第1条に次のように記されている。

 「一、屯田兵ハ徒歩憲兵ニ編成シ有事ニ際シテ速ニ戦列兵ニ轉スルヲ要ス」

 
 ここに屯田兵の性格が端的に示されている。(通常は開拓に励み)有事の際に兵に転ずるとある。
 そして「編制」の中で屯田兵の総員を1,672名と想定している。その項は次のように記されている。

 「一、屯田兵ノ一伍ヨリ組テ終ニ聯隊ニ至ル即チ左ノ如シ (中略)
  一聯隊  三大隊、準中佐聯隊長一名、準少佐三名、準大尉六名、準中尉十二名、準少尉四十八名、会計方準少尉三名、医官三名、下副官準曹長三名、準曹長六名、準軍曹九十六名、準伍長二百八十八名、喇叭準伍長三名、兵卒千百五十二名、喇叭卒四十八名、合計千六百七十二名」

 この記述で面白いのは、全ての肩書に「準」が付いていることである。講師の合田氏はこの点については触れなかったが、私の想像では正式の軍隊に準ずる意味から一歩引いて全ての肩書に「準」を付けたのではないと思われるのだが…。
 また編制としては聯隊まで想定しているが、私が調べたかぎりでは当初は大隊(第一大隊)までの編成で、年を追うごとに隊員は増えていき第五大隊まで編成されたが、聯隊の編成にまでは至らなかったのではないかと思われる。

 「屯田兵条例」で興味深かったのは「供与品」である。そこには次のようにあった。

 「農具 鍬大小二挺、砥荒中二個、山刀一挺、鐇一挺、鋸一挺、鎌芝刈草刈二柄、莚一枚
  家具 鍋大小二個、釜一個、椀三ツ組三人前、手桶一荷、小桶一具、担桶一荷、夜具十五歳以上四布一枚三布一枚、十四歳ヨリ七歳マデ四布一枚、六歳以下給セズ
  銭糧米 七合五勺一日分
  塩菜料 金五拾銭一日分
   但シ十四歳以下ハ一日米五合金三十七銭五厘、六歳以下ハ一日米三合二十銭(後略)」

 いやいや、実に細かい。この他にも、移住のための支度金とか旅費、病気をした場合の郷里への旅費とか、埋葬料に至るまで記されている。こうしたことは、施行規則とか、実施要項などで定めればとも思われるのだが、それは現代の考え方なのかもしれない。

 さてロシアの脅威に備えて編制された「屯田兵」だったが、出役したのは皮肉にも西南戦争だった。西南戦争が没発した明治20年、屯田兵第一大隊に出征の命が下ったが、それは当時の屯田兵全部隊に対する出征命令だった。
 資料にはないのだが、講師の合田氏はここで豊富な知識を披歴してくれる。出征命令の下った屯田兵の中で、戊辰戦争の際に逆賊とされ屈辱と貧窮の中にいた旧会津藩士は「名誉回復の機会を与えられた」と涙を流して喜び、獅子奮迅の戦いをしたという。
 合田氏の講義の面白さは、この例のように取り上げた事象の背景とか、裏面史を数多く語ってくれるところにある。

          
          ※ 屯田兵第一大隊の九州における進軍経路を説明する講師の合田一道氏です。          

 その屯田兵の戦闘日誌であるが、明治20年4月28日から屯田兵の終戦となる8月3日からほぼ毎日詳しく綴られている。
 その中から、最後の激戦となった8月2日の日記を書き出してみる。

 「屯田兵第一大隊先鋒を受持ち、第二中隊の家村大尉、安田中尉、前島、栃内両少尉等、左翼より一瀬川上流を渡渉せんとし中流に到るを、対岸に待期の敵一斉射撃し来る。止むなく前衛を引上げ、川を挟で交戦す。ついに永山少佐渡河の命を下す。兵先を争つて渡河、接戦敵を末永村に圧縮す。
 右翼は砲隊をともなう第一中隊は、本道の左側にあって、黎明を待ち一斎に砲撃を開始す。
 左翼の上流渡河せんとし時、堀大佐より第一中隊に対し渡河の命令あり、歩兵の前面の敵塁を見るや、砲兵に対しても渡渉の命令あり、一中隊と共に川を渡る。千早中尉、篠崎、久木田、建部の三少尉等先陣を争って渡河、末永村に踏入り第二中隊と合して、大いに奮戦して敵を壊滅せしむ、敵は死体を収拾し得ず退却、直ちに高鍋に突入、残敵を追撃して、銃器弾薬、兵糧等の戦利品をあぐ。この激戦に第一中隊兵卒櫻井清春戦死。伍長大関雄孟、兵卒工藤彦三郎、真柳六蔵負傷、第二中隊兵卒石川滝吉も負傷す。」

 さすがに記録するのが専門(?)の書記官が綴った戦闘の様子は描写が細やかで、激戦の様子が良く描かれている。また、この日記は現代仮名遣いにかなり近い表記のため、古文書とはいえかなり読み易くなっている。
 さらに気付くのは、兵隊の肩書から「準」が消えていることだ。条例で記されていることとは異なるが、このことは単に書記官が省略しただけなのか、それとも本格的戦いに参戦したことで「準」を取る措置がなされたのか?(前者のような気もするのだが、現時点では分からない)

 屯田兵が参戦したのは、後にも先にもこの「西南戦争」が唯一の戦いである。
 屯田兵はその後も続々と北海道各地に入植し、北海道開拓に重要な役割を果たしたことは私が言うまでもない。
 今回は紹介できなかったが、「屯田兵条例」の中では、「屯田兵勤務の日課」という欄があり、夏期間の就業時間は昼食時間の一時間を挟み、午前6時就業開始、午後6時終業と、実に11時間労働という過酷なものだったようだ。こうした屯田兵の過酷な労働の上に現在の北海道があることに我々子孫は思いをいたさねばならないということだろう。
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「屯田兵制度」誕生秘話を古文書に読む

2013-10-30 15:15:03 | 札幌学 & ほっかいどう学
 北海道の開拓は未開に地を拓くことと共に、ロシアからの脅威に備えるという目的があった。そうした背景もあり、北海道開拓を担った「屯田兵」制度の設置が非常に速いスピードで進められたことが分かった。
 

 札幌学院大コミュニティカレッジ「古文書に見る歴史の転換点」の第三講座(最終講座)は10月24日(木)午後「古文書に見る『屯田兵制度』の誕生」と題されて行われた。

 講師の合田一道氏から提供された古文書(写し)は、屯田兵制度の設置を訴えた建白書、「屯田兵条例」、そして屯田兵が西南戦争に従軍した際の開拓小書記官の「戦闘日誌」である。

 明治2年(1869)に開拓使の設置が決まったが、内実が伴い始めたのは明治4年)だという。それからわずか2年後の明治6年、黒田次官のもとで実質的に北海道開拓の指揮を取っていた4名の官吏が屯田兵の設置について、明治6年(1873)11月に次のような書き出しで右大臣 岩倉具視に建白書を提出している。

 「兵備ノ設ケハ国家ノ扞衛シ、人民ノ保護スル所以ニシテ、一日モ廃ス可ラザルモノナリ。(中略)然ルニ樺太ハ中外離居ノ地ニシテ封彊ノ守リ、国家ノ一大患、殊ニ近日ノ情状極メテ切迫セルハ、人々皆能ク知ル所、復此ニ贅言スルヲ須ヒズ。(後略)」
                                              開拓八等出仕 永山武四郎
                                              右同大主典  永山 盛弘
                                              右七等出仕  時任 為基
                                              右 同    安田 定則

 建白書からは樺太(ロシア)からの脅威が切迫していて、その守りに備えることが急務であるとの訴えを読み取ることができる。なお、建白書を提出した4名の官吏のうち、後年北海道開拓において最も重責を担った永山武四郎が一番下の位に位置している。
 なお、この4名が全て薩摩出身であるというのも面白い事実である。

               
               ※ 後に北海道丁官に就任する永山武四郎の肖像です。

 この建白書が政府中枢において容認の方向へ向かったためだろうか、それから僅か一ヶ月後に当時の北海道開発のトップにいた黒田次官(長官は不在)が右大臣 岩倉具視に建白書を提出している。そこでは屯田兵制度についてより具体的な建議を行っている。

 「北海道及ビ樺太ノ地ハ、当使創置以来専ラ力ヲ開拓ニ用イ、未ダ兵衛ノ事ニ及バズ。今ヤ開拓ノ業漸ク緒ニ就キ人民ノ移住スル者モ亦随テ増加ス。之ヲ鎮撫保護スル所以ノ者無ナカルベカラズ。況ンヤ樺太ノ国家ノ深憂タルハ固ヨリ論ヲ待タズ。(中略)函館県及青森、酒田、宮城県等士族ノ貧窮ナル者ニ就イテ、強壮ニシテ兵役ニ堪ユベキ者精撰シ、挙家移住スルヲ許シ、(後略)」

こ こでも黒田は北海道の兵備が急務のことを訴え、兵の募集については生活に困窮している東北の士族を当てよと建議している。

 そして、その2年後の明治8年(1875)には早くも当時の琴似村に第1回の屯田兵198戸が入植しているのである。
 このスピード感は驚くほどだ。それだけまだ行政の組織が簡素であり、政府の主たる官吏が薩摩、長州など〈特に北海道は薩摩出身者がそのほとんどを占めていた)のいわゆる「雄藩」によって占められていたことによると思われる。

 「屯田兵条例」や屯田兵の「戦闘日誌」について触れるには字数が長くなりすぎてしまう。そこで明日別のタイトルで後編を投稿することにします。
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北海道の活火山を語る

2013-10-29 21:17:25 | 札幌学 & ほっかいどう学
 今のところ…、北海道の活火山は概ね落ち着いた状況にある、と道総研地質研究所の研究主任の高橋氏は解説する。だからといって安心できる状況でもないという。北海道の活火山について話を聞いた。 

 北海道総合研究機構(略称:道総研)が定期的に開催している「ランチタイムセミナー お昼の科学」が10月23日(水)お昼に道庁一階ロビーで行われた。
 今回のテーマは「個性豊かな北海道の活火山 ~身近な火山の素顔~」と題して、地質研究所の高橋良研究主任がお話された。

               

 日本に活火山が多いことは多くの人の知るところである。その原因は日本が四つの大きなプレートの上に乗っかっているということについては、今回の東日本大地震を学ぶ中で多くの人が認識したことでもある。研究者によるとこうした国は世界中を探しても他には例がないという。
 ちなみに日本の活火山であるが、世界的に見て現在1,547の活火山があるそうだが、そのうちの7%、110の活火山がこの狭い日本にひしめいているという。そしてその中の31の活火山が北海道にあるそうだ。

 20世紀以降に噴火(マグマ噴火)した北海道の活火山は、北海道駒ケ岳、有珠山、樽前山、十勝岳の四つである。その中で1929年に噴火した駒ケ岳が20世紀では道内最大規模の噴火で、噴煙は高度13,900mにまで達したという。最悪の被害者を出したのは、1926年に噴火した十勝岳で、積雪期(2月)の噴火だったこともあって噴火の熱で雪が融けだして、144名の死者・行方不明者を出したという。
 これら四つの火山は17世紀にまで遡ってみても噴火を繰り返している活火山なので注視していく必要がある火山だという。

 私の記憶に残る噴火といえば、1962年の十勝岳噴火である。当時私は北見地方に住む高校生だった。朝起きると空が暗くどんよりとしていた。私は通学生だったのだが、乗っている気動車が外気を取り込む方式のものだったため、列車内に火山灰がもうもうと立ち込め息をするのも苦しかったことを憶えている。十勝岳から北見まで直線距離にして約100㎞もあるのだが、そこまで噴煙が届いたという大規模な噴火だったのだ。

 さらに今夏、私は十勝岳を含む十勝岳連峰を縦走した。その際、やはり1962年の噴火の際に噴火口となった「中央火口」を見ることができたが、大きくぽっかりと窪んだ噴火口を見て、そのエネルギーの凄まじさを実感した。

 さて講義の方に戻るが、講義では火山がもたらす恵みについても触れられたが、温泉や景観、地熱などの恵みがあるが詳しくは割愛する。
 現在の火山活動の状況について、21世紀に入って北海道の活火山は水蒸気噴火を3回ほど記録したが、マグマ噴火の例は今のところなく、概ね落ち着いている状況だという。しかし、油断はできないのが火山噴火の特徴でもある。

 予防については、火山ごとに噴火のタイプや規模、噴火発生間隔などが異なるので、各火山の特徴を捉えた対策が必要であるということだった。
 また、火山は大きな噴火の前には様々な予兆を示すことがあるので、観測体制を整備し、観察を注意深く行うことが的確な噴火予測に繋がるとした。
 
 日本の場合は、諸外国と違い活火山が比較的人が住む近くに存在している場合が多いので、被害を最小限に止めるためにも関係機関の方々には噴火予測の精度を上げるためにご努力いただきたいと思った。
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知事公館の庭の秋‘13

2013-10-28 15:42:22 | 環境 & 自然
 台風の影響もあり、雨や曇りの日が続いていたが、今日(28日)の午後、陽が差してきたのを見て、カメラをもって知事公館の庭に急いだ。やや盛りは過ぎたのかな?と思われたが、それでも十分に錦秋の秋を楽しめた。 

 以前、知人から「お前さんのブログは文字が多すぎる」と云われたことがあった。彼は娘さんのブログが写真中心のブログであることからそうした発言をしたようだ。
 一口にブログといってもさまざまである。私のように自ら体験したこと、感じたことを綴るブログはどうしても文章中心となる。写真だけでそうしたことを綴れるわけがないと思っている。
 それでも彼のように思っている人に、たまあには応えてもいいかな?という思いから、本日は知事公館の庭の紅葉の様子を投稿することにする。といいながらも、これだけ講釈をたれているのだから、しょせん私は私である。

 それではお待たせ、知事公館の庭の秋2013を!!

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     
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映画 あの日-福島は生きている

2013-10-27 23:24:21 | 映画鑑賞
 この映画を観て,結局自分は東日本大震災のことを他人事としてしかとらえていなかったことを痛感させられ、いたく反省した。何かを声高に叫ぶでもないこの映画は一人ひとりの心の中にじ-っと浸みこんでくる力があった。 

               

 10月25日(金)夜、道新ホールにおいて北海道新聞社などが主催する「あの日〜福島は生きている〜」映画上映&トークショー&ミニライブ in 札幌 というイベントが開催された。

 冒頭、この映画の関係者三人が舞台に登場した。この映画を企画したクリエーターの箭内道彦氏、映画監督の今中康平氏、映画の中で猪苗代湖ズの一員として歌うシンガーの渡辺俊美氏の三人である。
 箭内道彦氏の恰好を見て度肝を抜かれた。真っ黄々の金髪を立てて、着ている上着は真っ赤々である。年代はどう見ても40歳をはるかに超えている感じである。「いったいこの人何?」いうのがオヤジ(私のこと)の正直な気持ちだった。他の二人はオヤジから見てもまあまともな服装だったが…。

          
          ※ 写真左が箭内道彦氏、右が映画監督の今中康平氏です。

 映画は震災で被災した福島の若い人たちの日常を淡々と描くドキュメンタリー映画である。まずは彼らのある日の朝食を摂る情景を淡々と撮っていく。そして「あの日の朝食は?」と問いかけるが、誰もがその後のショックの大きさに朝食のことなど憶えてはいない。
 彼らはあまり震災のことを口にしなった。また、置かれた境遇を嘆くこともあまりせずに淡々と現実を受け入れているようだった。
               
 実は、後で分かるのだが描かれている5組の人たち(実家で暮らす若い女性、母とその娘、小さな娘のいる家庭、一人暮らしの若者、若いカップル)にはある共通項があった。
 それは、この映画の企画者でもある箭内道彦の呼びかけで震災から6ヶ月しか経っていない9月に福島県内5ヵ所で開催した「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」というロックコンサートに参加した人たちだった。

          

 コンサートの企画が持ち上がったとき、「あまりにも時期が早いのではないか」との懸念の声が多く聞かれたという。しかし箭内たちは「みんなが沈んでいるからこそ、今こそみんなを元気づけたい」と企画を実行に移した。
 9月14日の奥会津 季の郷 湯ら里を皮切りに、会津若松~猪苗代~郡山~相馬~いわき、と5日間連続で福島県を縦断するようにして開催したという。このコンサートから福島出身の4人のミュージシャンで組んだ「猪苗代湖ズ」が伝説の曲(?)「I love you & I need you ふくしま」が生まれた。

               
           ※ ミュージシャンの渡辺俊美氏です。彼は当日透き通った声で3曲披露してくれました。
             もちろん伝説の曲「I love you & I need you ふくしま」も

 映画の後半は描かれている5組の人たちがそれぞれのコンサートに参加している様子を追っている。その中で彼らは日常では見せなかった生き生きとした姿がとても印象的だった。抑えていた感情を解き放つように…。

 作り込んだものではない。むしろ淡々と彼らの表情を追い続けるドキュメントを凝視続けるうちに、私は彼らの中の深い悲しみを見たような気がした。そして映画の後半には流れ出る涙を止めることができなかった。(年嵩が増して涙もろくなったせいもあるのだが…)

 残念ながら私の筆力ではあの日の私の感動を的確に伝えることはできない。しかし、テレビのドキュメントなどでナレーターが被災地がいかに悲惨な状況であるかを強調されると、どこか鼻白む思いがあったのは事実である。それとは違い、被災者の表情を淡々と追い続けたこの映画の方が私の心の奥深くに届いた何かがあったのは事実である。
 福島をはじめとする東北地方の一日も早い復興をこれまで以上に願った一日だった。
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「聖地」とは? ~宗教的「聖地」からアニメ「聖地」まで~

2013-10-26 23:04:01 | 講演・講義・フォーラム等
 北大の公開講座「現代の『聖地巡礼』考」が始まった。8回にわたる長丁場であるが、第1回目の講座を聴くかぎりかなり興味がもてる内容である。「聖地」とは何か?そして「聖地」はどのようにして誕生するのか、興味深く話を聴いた。 

 北大の観光学高等研究センターが主催する「現代の『聖地巡礼』考」~人はなぜ聖地を目指すのか~が始まった。10月21日から毎週月曜夜に開講される講座である。夜の開催というのが若干辛いが受講料(4,000円)を収めたこともあり、なんとか8回の講座を皆勤したいと思っている。

 第1回目の講座は「聖地再考-聖地は意図的に作られたものなのか?宗教的「聖地」からアニメ「聖地」まで」と題して、観光学高等研究センター教授の山村高淑氏が講義した。

 「聖地」というと思い浮かぶのが「エルサレム」である。エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「聖地」として知られている。その他、「聖地」として思い浮かぶのはチベット仏教の「ポタラ宮」とか、日本の仏教における長野の「善光寺」参りとか、日本の神道の「伊勢神宮」などが思い浮かぶ。つまり「聖地」とは宗教的色彩をもって語られるのが一般的であった。
 しかし、現代になると高校野球の聖地「甲子園」とか、高校サッカーの聖地「国立競技場」などと称されることも多くなってきた。さらに、講師の山村氏は東京ビックサイトで開催される「コミックマーケット(通称:コミケ)」には、マスコミはあまり報道しないけれど夏・冬会わせると約59万人ものコミックファンが集合し、それはまさにコミックファンにとっての「聖地」と言って良いのではないかと山村氏は云う。

          
          ※ 東京ビックサイトに集まったコミックファンの様子です。

 人々が「聖地」を目ざすことを「巡礼」と称されるが、それは信者の居住地からは遠く離れたところにあるため「巡礼」は旅を伴う。このことが旅行の起源とされている。したがって、旅を意味する「travel」とは「苦難、苦痛」を表すラテン語に由来するという話は興味深い。
 そういえば、チベット仏教徒が五体投地という様式で聖地ラサを目ざす姿は、見ている者からすると苦難の何物でもない気がしてくる。チベット仏教ほどではないにしても、交通機関が発達していなかった頃の巡礼は苦難の連続であったろう。
 近世以降になると、この「旅行」が「旅行商品」となり、大衆化して「観光」が登場したという。(ここらあたりは観光を学術的に研究している氏らしい展開である)

          
          ※ 「五体投地」をしながら聖地ポタラ宮を目ざすチベット仏教信者です。

 旅行が大衆化したことによって、聖地への巡礼も一層盛んとなったが、日本においては巡礼という意味を宗教的な意味から、より世俗的な意味でも用いられるようになったそうだ。つまり、日本においては鉄道ファン、アニメファン、ある歌手のファンなどにとって、特別な意味を持つ場所がしばしば「聖地」と称されるようになったと山村氏は云う。

 そして山村氏は次の言葉を紹介した。「人間が集まることによって特殊な磁場が形成され、そこが聖地となる」
 このことはギリシアのアクロポリス、カンボジアのアンコールワット、チベットのポタラ宮などは意図的に「神」を演出した空間として創出されたという。
 同じように、現代においては神に代わる「鉄道」や「アニメ」や「歌手」を媒介として意図的に聖地が創り出されているという。
 例えば、埼玉県では県が旗振り役となってアニメファンを集める「アニ玉祭」を開催し、盛況だということである。

          
          ※ アテナイの守護神アテーナーを祀るアクロポリスの丘です。

 今回の山村氏の講義は、今回の講座「現代の『聖地巡礼』考」~人はなぜ聖地を目指すのか~全体のイントロデュース的性格を帯びていた。
 つまり、「聖地」というものを宗教的な意味からだけ捉えるだけでなく、もう少し広い意味で考え、聖地を観光学的に再考してみようとする講座のようである。

※ 今回のレポート(これからも)においては、講義を受けて私なりの解釈が加えられているためにあるいは講師の意図と違っている場合もあるということをお断りしておきます。
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金木屋日記がもたらした幕末の蝦夷地情報

2013-10-25 16:35:38 | 札幌学 & ほっかいどう学
 津軽の商人(酒造業)金木屋又三郎は膨大な日記を残していた。その内容は風聞や伝え聞きによるものが多いのだが、幕末の東北、蝦夷地の情報を民間人の側から見聞きした貴重な情報であったようだ…。

 
 10月20日(日)午後、北海道開拓記念館の歴史講座が開催され、受講した。講座は「ある津軽人が記した幕末の松前・蝦夷地情報」と題して、記念館学芸員の三浦泰之氏が担当した。
 この種の講座は大人気のようで、150名近く入る講座室がいっぱいになるような状態だった。交通の不便なところに立地する開拓記念館だが、それにもかかわらず大勢が集まるということは歴史好きの中高年が相当に多いという証しだろう。(いや、それだけ私も含めて暇人だということですか…)

          
          ※ 講義をする三浦泰之氏です。掲載する写真のいずれもが光量不足の中での撮影のため不鮮明です。

 金木屋又三郎は津軽藩領賀田村で酒造業を営み、それなりに繁盛していたようだ。親戚・縁者にも商売を営む者が多く、彼らとの交流から地元津軽藩の動きだけではなく、江戸の情勢も伝聞で伝わることが多かった。それを又三郎は詳細に書き綴った。彼の残した日記が21冊現存しているという。時代的には、天保8年(1837)2冊、嘉永6年(1853)~文久2年(1862)が各2冊、安政2年(1855)が3冊、安政7年(1860)~文久2年(1862)が各1冊、文久4年(1864)~慶応元年(1866)は2年分で1冊となっている。
 年号が飛んでいるが、おそらく又三郎自身は空白となっている期間も日記は書き続けていたのだろうが、それが散逸してしまっているということだろう。

          
          ※ 「金木屋日記」の原本を写したスライドです。安政3年の正月から六月までの日記と読み取れます。

 講師の三浦氏は、その又三郎の日記をA4版28頁にもわたって提供してくれたが、講座の中で触れることができたのはそのごく一部にしかすぎない。
 その中から、蝦夷地に関する興味深い二つの事象を書き残した日記文を紹介したい。

 まず、安政2年(1855)に松前藩領だった蝦夷地を幕府が直轄地としたことに伴って、松前藩に代替地を東北の梁川・尾花沢・東根を領地とすることを決定した。そして翌年その領地引き渡しのために松前藩の奉行以下が現地に赴いた状況を伝え聞いた形で日記に残している。
 〔安政3年(1856)2月14日条 [黒石よりの情報]松前侯も御替地として梁川・尾花沢・羽州東根拝領之よし、右奉行先頃松前より青森渡海ニ相成、尾花沢行、東根行役人爰元通行ニ相成候(後略)〕
 ※ 黒石とは、黒石にて酒造業を営む柳屋九兵衛家からもたらされた情報という意味である。また、よりを斜字にしたのは、合字のために表現できない字のためである。

          
          ※ 「金木屋日記」の実際の記述です。右頁は暦を貼り付けたもの、左頁から記述が始まっています。

 もう一つ、興味深い事実も知った。(いや、知らなかったのは私だけかも)
 蝦夷地が幕府直轄になった安政4年(1857)に箱館奉行所が鉄銭「箱館通宝」を鋳造し、松前・蝦夷地に限って通用が始まったという事実である。そのことを又三郎は伝聞によって次のように記している。

 〔安政4年閏5月29日条 箱館通宝鉄銭鋳被仰付候、尤、松前城下・箱館・江指、其外夷蝦在々一円通用被仰付、外ヵ国者通用不相成候と、公儀より被仰付候由、但、穴ハ丸く有之候よし〕

 というように、金木屋又三郎は主として伝聞ではあるが、地元弘前藩のことをはじめとして松前・蝦夷地情報についても詳しく綴っている。
 講師より与えられた資料はそうした意味でとても興味深いものである。北海道立開拓記念館は間もなく一時閉館となり、およそ1年半の改装期間を経て「北海道博物館」に生まれ変わるそうである。つまりこの歴史講座も今回が最後という意味も込めてたくさんの資料を提供してくれたものと思われる。
 できればゆっくりと資料を味わいたいと思うのだが、果たして???
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そらちフットパスウォーク 16 新十津川町 後編

2013-10-24 16:21:12 | フットパスウォーク
 新十津川縦断ルート

 夕暮れが近づいていた。しかし先は長い。ルートは来た道を折り返し、新十津川町市街地を縦断するようにして「ふるさと公園」とは正反対の方向にある新十津川唯一の酒造会社「金滴酒造」を目ざした。 

 「ふるさと公園」を後にし、来た道をそっくり折り返すコースである。これが辛い。同じ景色をもう一度見ながら歩かねばならないのだ。初めて訪れた者としては、できるだけ
たくさんのその街の表情を見てみたいのだ。新十津川のルートは残念ながら後半にも折り返しのルートが用意されていた。マチの構造上いたしかたないとはいえ少々残念である。

 私は近づく夕暮れに背中を押されるように少し急ぎ足になりながらも淡々と歩いた。そんな中で唯一レポートするとすれば、行きの道で目にした大豆を収穫するコンバインのところで、コンバインを操作する方の奥さんに出会ったことだ。
 コンバインで刈り取り、脱穀した大豆を運搬用にトラックに移し替えるために、奥さんがトラックを畑のところに用意していたのだ。私は奥さんに声をかけた。
「今の収穫作業は一人で出来ちゃうんですね」と…。すると奥さんは「今収穫している大豆は小さい粒なのでいいんですが、大きな黒大豆の場合などはそうはいきません」という、豆が割れてしまうことがあるそうだ。詳しくは聞けなかったが、大粒の大豆の場合はコンバインにもう一人乗って、細かな操作をしなければならないということのようだった。
「今年の出来はいかがですか?」と問うたところ「まだ分からない」という。それは、これから大豆を乾燥させ、集荷施設に運び込んで審査(検査)を受けて、等級が判定されて初めて今年の収穫の良し悪しがきまるということだった。

          
          ※ 前編で掲載した写真を再び登場させました。

 それ以外は市街地中心部まで約4㎞を黙々と歩いた。市街地近くになって「新十津川中学校」があった。こちらの方面をウォークしていて感ずるのは、敷地が豊富に取れるためか、どこの町の中学校もグランドが広々としていることだった。

          
          ※ 広々とした新十津川中学校のグランドは高校のグランドを思わせます。

 市街地に入って気付いたことが一つあった。街路灯をよく見ると、その一つ一つに「新十津川物語」という表示がされていたのだ。新十津川の人たちが川村たかし著の「新十津川物語」に対して強い思いを抱いていることをうかがい知れた。

          
          ※ ご覧のように街路灯には「新十津川物語」の文字と、主人公「さき」の像が描かれています。

 ルートはその昔よく通った国道275号線に導かれ、これもよく渡った「新十津川橋」を初めて歩いて渡った。橋が架かる「徳富川(とっぷがわ)」は石狩川の支流だが思い他流れの豊かな川だった。

          
          ※ 車では何度も渡った橋ですが、今回初めて歩いて渡りました。

          
          ※ 「徳富川」の意外に豊かな流れです。

 徳富川を渡り、しばらく行くと石狩川の近くに歴史のありそうな(明治39年創業)レンガ造りの「金滴酒造」があった。時計はすでに午後4時近くになっていたので、中は見られないだろうと思っていたのだが、商品が陳列してある売店は開いていた。
 売店に入ったからには何か購入せねばなるまい。アルコールが嫌いな方ではない私だが、日本酒は普段からまったく嗜まないので分からない。展示してある小さなおしゃれそうな瓶に目を付けた。青色の瓶も、「新十津川」というネーミングもいいではないか。すると、それは「蔵元限定販売」で他では販売していない酒だという。ラベルには「蔵元限定販売 特別本醸造 生詰原酒 新十津川」と印刷されていた。500mlで1,000円は安いのか?高いのか?
 帰宅してから味わってみたが、正直言って私の口にはあまり合わなかった。(どの日本酒も同じなのだが…)

          
          ※ 歴史を感じさせてくれる「金滴酒造」株式会社の建物正面です。

               
               ※ 売店で購入した「蔵元限定販売 特別本醸造 生詰原酒 新十津川」です。

 「金滴酒造」の直ぐ前にある石狩川堤防をよじ登り、対岸の滝川市を望む風景を写真に一枚撮り、ゴールへ向けて再び来た道を折り返した。
 ルートは「新十津川橋」を渡り、徳富川河畔の遊歩道に導かれる。時計を見ると午後4時を回っていた。遊歩道には私の影が長く伸び、秋も深まり落日の早さを実感させてくれた。

          
          ※ 川向うはもう滝川市の住宅街です。

          
          ※ 堤防上に長~く伸びた私の影です。

 ルート上にあった「出雲神社」、「開拓記念館」、「新十津川農業高校」、「新十津川役場」をカメラに収めながら日没前になんとか「新十津川駅」に着いた。ゴールをしたとき、私の時計は午後4時25分を指していた。

          
          ※ 新十津川の鎮守(?)の「出雲神社」です。

          
          ※ 時間が遅く入館がかなわなかった「開拓記念館」です。

          
      ※ 小中学校が比較的郊外にあるのに、「新十津川農業高校」は中心街に位置していました。歴史の違いかな?

          
          ※ 街の中心に位置していた「新十津川町役場」です。

 「新十津川駅」に着き、「JR札沼線(学園都市線)」の終着駅ということで、列車止めの設備があるだろうと思い、線路に出たところなんと駅舎から200m近くも離れていた。疲れきった私にはこの距離さえも長く感じられたがしっかりとカメラに収めてきた。

          
          ※ JR札沼線(学園都市線)の線路の列車止めです。

 コース上に二か所も往復するルートがあり、そこは若干不満であったが、見どころが多い新十津川のフットパルートだった。と同時に、奈良県十津川村から集団で移住し、ここまで豊かな農村に育て上げた先人の素晴らしさとご苦労を偲ぶフットパスでもあった。

《フットバスウォーク実施日 ‘13/10/19 距離 約12.8㎞》
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そらちフットパスウォーク 16 新十津川町 前編

2013-10-23 16:22:36 | フットパスウォーク
空知支庁10市14町では空知総合振興局の勧め(?)で各市町それぞれ1コースずつのフットパスコースを設定し、それをまとめたルートガイドを発刊した。いずれもが各市町の見どころを満載したルートとなっている。私はこの24のコースを時間をかけて、ゆっくりと完歩したいと思い立った。 

新十津川縦断ルート 

   

 ご存じのように新十津川町は奈良県十津川村から移住した人たちが拓いた町として有名である。豊かな田園地帯が広がるフットパスルートであるが、ルート名が示すとおり街を縦断する長いルートだった。しかし、その先に待っていたものは…。 

 雨竜町のフットバスを終えたとき、時計の針は13時を指そうとしていた。時間がない。私は急いで隣町の新十津川町に車を走らせた。ゆっくり昼食を摂る時間などない。車を走らせながら軽食を口にするのが精一杯だった。
 そして13時25分、新十津川町のスタート地点である「JR新十津川駅」の駅舎の前に立った。新十津川駅はJR札沼線(学園都市線)の終着駅ということだが、駅舎そのものはとっても小さく、駅員も駐在していない無人駅だった。

          
          ※ かわいい、かわいい「新十津川駅」である。愛車と一緒にパチリと…。

 新十津川駅からやや迂回しながら踏切を渡り線路を越えた。
 街外れにあった新十津川小学校の前の白樺の並木が見事(!)に斜めに立っている。強風のためと思われるが、方向的には南風になる。南風が強いのは何時の季節なのだろうか?

          
          ※ 見事(?)に傾いて立つ白樺並木です。

          
          ※ シャングルジムなどの体育遊具があるところがいかにも小学校らしいですね。

 
 小学校を通り抜けると田園風景が広がる。ここでも稲を刈り取り、稲の茎の部分だけ残った田んぼが広がっている。そうした田んぼの中に、刈り取った稲の貯蔵施設「RICE BOX21」の建物が目に入ってくる。ここで「オヤッ?」と思ったことがあった。施設名「「RICE BOX21」の上に「JAピンネ」の文字があった。隣の雨竜町では「JA北空知」だった。どうやら雨竜町と新十津川町では農協の組織が違うようだ。なお、「ピンネ」とは新十津川町と当別町の町境にある山「ピンネシリ」からとったように思われる。

          
          ※ 稲刈りを終えた田んぼの向こうには新十津川のマチが望まれます。

          
          ※ JAピンネのコメ貯蔵施設「RICE BOX21」の建物です。

 ここからが大変だった。延々と田んぼや畑が続く、ある意味単調な景色の中を郊外の「ふるさと公園」を目ざしてのウォーキングである。中心街からはざっと見ても4㎞以上あるのではないだろうか?
 「ふるさと公園」に至るまでに気づいた光景としては、早々と庭の木々の冬囲いを終えた光景と、コンバインで大豆を収穫する光景くらいだった。

          
          ※ 早々と冬囲いを終えた農家の庭先です。

          
          ※ 一台のコンバインが大豆の収穫作業をしていました。現代の農業は収穫作業も一人なんですね。

 長い道を辿り(ここを折り返さなくてはならないところが辛い)ようやく「ふるさと公園」に着いた。着いてみて、ルート設定者がなぜここまでルートを伸ばしたのか、その理由が分かったような気がした。そこには小さな町としては過ぎるくらいの素晴らしい施設群が揃っていた。その施設を羅列してみると…。
 ①グリーンパークしんとつかわ(温泉宿泊施設)、②サンヒルズ・サライ(研修宿泊施設&レストラン)、③ケビン村VILLA徳富(宿泊用キャビン)、④青少年交流キャンプ村、⑤室内パークゴルフ場、⑥登り窯「屯田陶房」、⑦新十津川物語記念館、⑧文化伝習館、⑨ピンネスタジアム(ナイター設備も整えた野球場)、少年野球用のふるさと球場、⑩温水プール、⑪スポーツセンター、⑫野外ステージ、⑬サンウッドパークゴルフ場、⑭テニスコート(9面)、⑮サッカーコート(全面芝)、というように町民のためのスポーツ・レジャー施設が一ヵ所に集中して建設されていたのだ。
 私もいろいろな市町村を巡っているが、これほどの施設群が一所に集中して存在している例は記憶にないくらいだ。

          
          ※ きれいな芝生が全面に敷かれたサッカーコートです。

          
          ※ スポーツ合宿などに利用できる宿泊施設「サンヒルズ・サライ」の建物です。

          
          ※ 広い芝生が広がる野外ステージ、右側がスポーツセンター、その奥に温水プールがあります。

 全てを見て回ることは時間的にも困難だった。
 私はそのマチの歴史を知る上でもできるだけ資料館や博物館の類を訪れることにしているが、ここでも「新十津川物語記念館」を訪れてみることにした。「新十津川物語記念館なんてしゃれたネーミングだなあ」と思いながら訪れた(入館料140円)のだが、そこはなんと、NHKのテレビドラマにもなった「新十津川物語」を記念する記念館だったのだ。内部は原作者の川村たかし氏に関する資料と、NHKドラマの放映資料だけの展示施設だった…。
 「新十津川物語」について私は寡聞にして知らないが、奈良県十津川村が大水害に襲われたのを機に、村民が北海道に移住し苦難の末に現在の新十津川町の礎を築いた歴史を辿るという実話をもとにした小説を映像化したもののようだ。そのため新十津川町民にとってはことのほか思い入れが深いようである。

          
          ※ 「新十津川物語記念館」です。完全な逆光のため苦労しました。

          
          ※ 内部は原作者の川村たかし氏の功績をたたえる展示が主でした。

 もう一つ、公園内で「11月22日オープン」という赤い文字が目立ったので、何かな?思って近づいてみると、これが冬季用の「室内パークゴルフ場」のオープンを伝えていたのだ。長さが100メートル近くあるのではと思われるビニールハウス棟が3棟建っていた。中を覗いていると全面芝のコースには凹凸まで造られており、資料を調べると18ホールでPar66、全長541mと本格的である。

          
          ※ 屋内パークゴルフ場のオープンを伝える表示と、その後ろには3棟のビニールハウスが建てられています。

 これほどの恵まれ施設を享受できる新十津川町民を羨ましく思いながら「ふるさと公園」を後にした私だった。

(新十津川町ルートの後半は後編で)
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そらちフットパスウォーク 15 雨竜町 後編

2013-10-22 22:50:56 | フットパスウォーク
田園の里散策ルート

 田園の里散策ルートは雨竜町のもう一つの呼びもの(?)である「史跡公園」に向かった。その途中での出会いが楽しかった。そしてちょっと不思議に思ったことにも出会った。 

 雨竜町が設定したフットパスルートは、国道275号線沿いに発達した雨竜町市街を取り囲むように水田地帯が広がっている中にルートが設定されていた。
 後半のルートはその国道275号線の反対側を往くルートだった。

 市街地の外れに「雨竜神社」があった。小ぶりながらも参道も整備され、さすがに米どころの神社だわいと思わせてくれた。

          

          ※ 「雨竜神社」の参道(上の写真)と本殿(下の写真)です。小ぶりながらも…という感じです。

          

 そこを過ぎ、さらに市街地に近づくと街の施設が次々と目立ってきた。「メモリアルパーク」とは開基記念事業として造成された公園だろうか?

          
          ※ 開基○○年を記念して建てられた記念塔(?)だと思われます。

 その向かいには「いきいき元気村」という施設が建っていた。そのネーミングから、お年寄りたちの健康施設だろうか?と思っていたのだが、近くにいた方に聞くと「町民の温泉施設」だということだった。
 
          
          ※ 「いきいき元気村」の温泉施設が入る立派な建物です。
               
 この方との会話が楽しかった。私と同年代の話好きの男性だった。
 その方に「何の施設か?」と聞いたところ「温泉だよ。入っていくかい?」という。「その他の施設が併設していることはないのか」と聞いたが、「ないはずだ」と言って、「私は毎日ここの温泉に来ているよ」、「何せ入浴料が100円だからねぇ」という。その訳は3ヶ月利用券が9,000円だとのことだった。
 その男性は絶好の話し相手を得たかのように、私のプライベートに関することをどんどん聞いてくる。もちろん自分のことも紹介しながら…。そして、私が雨竜町をはじめ空知管内のマチを巡っていることを知ると「へぇ~、そんな楽しみ方もあるんだねぇ~」と妙に感心していた。
 男性が教えてくれたことは少し違っていたようだ。帰宅してから調べたところ「生きがいの追求と定住の喜びをテーマに異世代間の交流拠点として建設されました。8.3haの敷地に高齢者健康福祉センター「いきいき館」、パークゴルフ場、こども交流プラザ「なかよし館」、日本庭園があります。」とあるように、単なる温泉施設とは違う高齢者をはじめとした地域住民の交流施設のようであった。

 彼と別れ、私は雨竜町の見どころの一つ(?)中心街からちょっと離れた「史跡公園」を目ざした。
 「史跡公園」は雨竜開拓の拠点となった蜂須賀農場の跡地を利用して公園化したものらしい。公園内には立派なイチイの木がたくさん植えられていて、その奥には場長住宅兼事務所として使われていた建物を「開拓記念館」としていた。残念ながら土・日・祝日は閉館日ということで門は固く閉ざされていた。

          
          ※ 立派なイチイの木が林立する「史跡公園」の入口です。

          
          ※ 「雨竜開拓の拠点 蜂須賀農場跡」という標識が立てられていました。

          
          ※ 公園内にあった「開拓記念館」の門は固く閉じられていました。

          
          ※ 秋らしい一枚です。今回のフットパスで最もお気に入りの一枚です。

 同じ道を通り再び中心街に帰って往く。中心街に入ると歩道の舗装が気になった。三色に塗り分けられていて、それが蛇行しているように見える。これは私の想像なのだが、町のシンボル(?)雨竜川を模しているものと思ったのだが…。

          
          ※ これはどう見ても川の流れを模したものでしょう?

 街中にいかにも古~い感じの旅館が建っていた。まだまだ現役のようだ。こうした旅館に郷愁を感ずる向きもあると思われる。ぜひとも長く現役を続けてほしいものだ。

          
          ※ 歴史を感じさせる建物です。屋根の雪止めもいいですねぇ~。

 街の中心からは国道275号線沿いにゴールの「道の駅 田園の里うりゅう」へ向かう。国道沿いのウォークはどちらかというと単調なのであまり楽しいウォークではない。
 ちょっと首を傾げたくなる光景に出会った。それは道の駅に近づいてからだった。道の駅は街の中心街から2キロほど離れたところにある。その近くに雨竜の小学校、中学校が国道を挟んで建てられていた。
 率直な感想で「なぜこんなに中心街から離れたところに建てたのだろう?」と思った。もっと中心街近くに土地がないわけではないだろうと思う。町の為政者は子どもたちは少し遠いところまで歩かせ、足腰を強くさせようとでも考えたのだろうか? 冬、小学校低学年の児童にとっては厳しいなぁ…。

          
          ※ こちらは雨竜小学校です。土曜日のため校舎敷地は閑散としています。

          
          ※ こちらは雨竜中学校です。校舎の改築? or 改装中でしょうか?

 そんなことを考えていたら、ゴールの「道の駅 田園の里うりゅう」に着いた。

          
          ※ 道の駅の入口に立つ案内塔です。

 雨竜町は私が北見に住んでいたころ札幌へ出るとき、国道12線を走らずに裏道の国道275号線を走ることがあった。そのときに通過していたマチだったが、ほとんど意識することがないマチだった。
 今回、マチを巡り、さまざまな光景に出会い、さらに雨竜沼高層湿原や暑寒別岳のあるマチ(いつか行ってみたい!)と知って一気に親しみのあるマチの一つになったように思えた。

《フットパスウォーク実施日 ’13/10/19 距離約11.7㎞》

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