田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

2000年1月1日の記憶

2009-01-03 17:14:18 | その他
 正月らしい話題第3弾として、私にとって忘れられない正月を過ごした2000年の思い出を振り返ってみることにします。(この話題は2年前にも一度取り上げたのですが…)
 2000年1月1日、私は息子と二人でギリシアのアテネにいました。
 それは週刊「ポスト」誌が「あなたはミレニアムの2000年1月1日、誰と、どこで、何を目撃したいですか?」という「2000年の目撃者」特派記者募集という懸賞論文に入選し、ギリシアに派遣されたのでした。
 その時の応募文は次のような短い一文でした。

 息子とアクロポリスの丘で新年を迎えたい 
 1969年1月1日、私はアテネのアクロポリスの丘に聳え立つパルテノン神殿の前に立っていた。その姿は圧倒的な存在感をもって私に迫ってきた。
 前年の6月1日、横浜を発った私は、ヨーロッパ各地を彷徨し、ギリシアに入っていたのであった。
 当時、私は北海道の教育大学に在学する教師の卵であった。テレビに映るフレームの外の世界をこの眼で見てみたいと、大学を休学し、ヨーロッパに旅立ったのである。
 あれから30年、私は北海道の片田舎の教師として子どもたちに私の体験を語り継いでいる。そして今、私の息子が同じ教育大学に在学し、当時の私と同じ年齢になっている。 
 2000年の1月1日という記念すべき日に、悠久の時を刻み続けるアクロポリスの丘に息子と二人腰掛け、人類の来し方を思い、未来を語ってみたい衝動に駆られたのである。 

 この応募文は400字以内にまとめるという制限があったのですが、私としては案外うまくまとめることができたかな、と思いながら応募したものでした。
 応募したことも忘れかけていた半年後くらいに「応募文が選ばれ、派遣が決定しました」との連絡を受けました。
 そして週刊「ポスト」誌の記者とともにギリシアで正月を挟んで一週間を過ごし、そこでの体験をレポートしたのです。そのレポート記事が週刊「ポスト」誌の2月17日号に掲載されました。
 その時の文章が下に紹介する記事です。(文章はほとんど直されませんでしたが、題名は編集部が付けました)

        
        ※ アクロポリスの丘に聳えるパルテノン神殿        

 30年前と同じ姿で私を迎えてくれた 
         パルテノン神殿が戦火に遭わぬことを祈る
 その瞬間、アクロポリスの丘は、鮮やかな光と音が交錯する中、激しく華やかに花火が打ち上げられ、それを見上げる数十万の群衆の歓声に包まれていた。
 アクロポリスの丘を取り囲むようにして走る広いディオニシウ・アレオパギトゥ通りはアテネっ子で身動きできぬほどの混雑であった。私と息子はその群衆の真っ只中で2000年1月1日を迎えたのだった。
 翻ること31年前。1969年1月1日、私はギリシアのアテネにいた。
 当時、北海道の教育大学の学生だった私は、前年の6月、大学を休学し、ヨーロッパ彷徨の旅に出て、ギリシアに辿り着いていたのだった。
 そこで私はアテネの象徴であるパルテノン神殿に出会い、その圧倒的な存在感にいたく衝撃を受けたのだ。
 そのパルテノン神殿が建つアクロポリスの丘に再び立ってみたい。しかも、当時の私と同年齢になり、同じ教育大学に学ぶ息子と二人で…。

 願いは叶い、私と息子はアテネの地に立った。
 しかし、30年という月日は、私の中に微かに残るアテネの残像を消し去るのに十分の月日だったようだ。
 あの素朴さはどこに行ったのか・・・。
 あの猥雑さはどこに行ったのか・・・。
 どこかに田舎の匂いは残るものの、アテネは見事に変身を遂げ、近代都市の装いをほどこしていた。
 無理もない話だ。この30年は、歴史上でも人類が最も文明的に進化・発展した時代だったのだから・・・。
 そうした中で、パルテノン神殿だけは、30年前の私の記憶と変わらぬ姿でそこに建っていた。
 私と息子は、入場解禁となった1月4日、パルテノン神殿の前に立った。
 ドリア式の円柱が林立する様に接した時、改めて先人の偉大さに感嘆する思いだった。
 一方、円柱の側にころがる大理石のかけらが目に付いた。
 1687年、トルコ支配時代に戦争によって破壊された痕跡であるという。
 思えば世界的な歴史遺産に限らず、人間の造営物が戦争という愚かな行為によって、どれだけ破壊され、傷つけられたことか・・・。
 願わくば、2000年代は戦争などという言葉がこの世から消え、パルテノン神殿をはじめとする世界の歴史遺産が永久に存在し続けることを祈りたい。

 今回の旅はまた、私にほろ苦い思いも提供してくれた。
 30年前の私は、いささかの気概と気負いを抱きながらヨーロッパに旅立ち、少ない金を工面しながら彷徨を重ね、ギリシアに辿り着いた。私の中には、旅に対する格別の思いがあった。
 それに対して、息子のそれは観光旅行的な範疇から外れるものではなかった。父親の気負いと、彼の気持ちはすれ違うばかりであった。
 無理のないことかもしれない。育った時代も違えば、状況も違う。父親の思いを受け止めろ、という方が無理な注文だったのかもしれない・・・。
 30年という時間はまた、日本における世代間の価値の相違を映す旅でもあった・・・。


 ミレニアムということだったからでしょうか、アテネ市内はすごい人ごみで混雑し、特に花火が打ち上げられたアクロポリスの丘付近は身動きできぬほどの混雑ぶりでした。
 ホテルに戻ってテレビを見ると、世界各地でミレニアムの新年を祝う光景がリレーで映し出されていました。古くから西洋歴だった国々にとっては私たちが考える以上に重要な年だったようです。

 文中にもありますが、私たちがアクロポリスの丘に入ることができたのは1月4日でした。それは、私にとって30年ぶりに再訪できた喜びに浸ることができた瞬間でもありました。
 私が2000年の正月に抱いた願いは、あれから9年の月日を経てどうなっただろうか? 私にはその時よりもっと危うい淵を彷徨っているように思えてなりません。
 私たち人類の安全という最高・最大の価値を追い求めることに人類の叡智を結集してほしいと願った2009年のお正月でした。