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近代革命の社会力学(連載第448回)

2022-06-24 | 〆近代革命の社会力学

六十四 ネパール共和革命

(2)内戦から復刻専制君主制へ
 ネパールにおける共和革命の契機となった復刻専制君主制が出現した背景として、1990年代後半から共産党毛沢東派(毛派)と政府軍の間の内戦があったわけであるが、毛派は1990年民主化革命後の政治的自由化に乗じて、従来の地下活動を脱し、公然たる武装革命組織に転向していた。
 これを率いていたのは学校教師出身のプラチャンダ(本名プシュパ・カマル・ダハル)であったが、彼の強力な指導の下、毛派は中国共産党にならったネパール人民解放軍を組織して、農村部に「人民政府」を設立するとともに、都市部でも警察や軍施設の襲撃などのテロ戦術を展開した。
 これに対して政府は掃討作戦にも和平交渉にも難渋し、毛派による武装革命も視野に入りつつあった時、中央権力を激変させる事件として、王室一家惨殺事件が発生する。これは2001年6月1日の王室晩餐会の席上、当時のディペンドラ王太子が両親のビレンドラ国王夫妻を含む9人もの王族を射殺するという宮中殺人事件であった。
 この事件について、公式捜査では結婚問題をめぐって国王夫妻と対立していた王太子が酒に酔って激高し、単独で銃乱射事件を起こした直後に自殺を図ったものとされたが、当時現場にいなかった叔父で王弟のギャネンドラが王位簒奪のため背後で仕組んだ暗殺事件とみなす陰謀説も存在する。
 しかし、この事件の被害者の中には当時のビレンドラ国王の姉や従妹、王太子の妹といった女性王族も含まれており、王位簒奪を狙った暗殺としては過剰な多重殺人であることからしても、ギャネンドラ黒幕説には根拠が乏しい。
 とはいえ、このようないささか無理筋の陰謀説が浮上したのも、王太子の死亡後に王位を継承したギャネンドラ新国王が従来から民主化に批判的な持論を隠さず、兄のビレンドラ国王の政策に反対していたからであった。
 実際、ギャネンドラ国王は2002年10月にネパール会議派のデウバ内閣の全閣僚を罷免して独裁を開始した。このような露骨な政治反動には、非共産系を含む主要政党が一斉に反発し、議会再開を要求する抗議デモを展開する一方、毛派も攻勢を強め、かえって内戦が激化することとなった。
 そうした中、2003年5月には主要政党の前議員らが議会再開を宣言し、君主制存続の是非を論じるとして圧力をかけたため、国王側もいったん譲歩し、2004年6月にデウバ首相の再任を余儀なくされる。しかし、政府との関係は修復できず、2005年2月、ギャネンドラ国王は再びデウバ内閣を罷免し、全権を掌握した。

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