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近代革命の社会力学(連載第445回)

2022-06-20 | 〆近代革命の社会力学

六十三 レバノン自立化革命

(3)民衆革命への力学
 内戦終結をシリアに依存したことはレバノンにとって屈辱だったとはいえ、当時人口300万人に満たなかった国で最大推計15万人の死者を出し、社会経済を崩壊させた内戦をひとまず終わらせ、復興していくには、シリアの支配を甘受するほかなかった。
 その結果、シリアは駐留軍や潜入諜報員を通じてレバノン内政に対する統制を強めていくことになるが、この体制は2000年にシリアの独裁者ハーフィズ・アサドが死去し、子息のバッシャールが世襲した後も不変であった。こうした「シリアによる平和」は90年代を通じてレバノンを安定化させ、戦後復興を経て再び経済成長を促進したこともたしかである。
 平和と引き換えの属国状態に対しては1990年代からキリスト教徒勢力の反対運動はあったが、散発的でマージナルなものにとどまっていた。その流れを変えた出来事は、2005年2月のラフィーク・ハリーリー前首相暗殺事件であった。
 ハリーリーはイスラーム教スンナ派の実業家出身で、1990年代から2000年代初頭にかけて二度、通算では12年間にわたり首相を務め、戦後復興の指揮を執った人物として定評があった。
 出自的にハリーリーはレバノン伝統のブルジョワ民主主義を象徴する人物であり、内戦中にビジネスを展開していたサウジアラビアとのパイプを持ち、復興事業では自身の建設会社への利益誘導が批判を受けたこともあるが、シリアとの関係ではシリア軍の撤退を勧告した2004年の国連安保理決議の支持者と見られていた。
 2005年2月14日(以下、日付は断りない限り2005年)のハリーリー暗殺は同時にハリーリーを含む23人が死亡する爆破テロ事件でもあったため、レバノン国民の広範な怒りを招くこととなった。
 この事件は当初未解明であったが、シリアの関与が強く疑われたことで、反シリア感情が一気に高まった。元首相を標的としたこのテロ事件を契機に、長く鬱積していたシリアへの怨嗟が封印を解かれ、表出されたとも言える。
 そのため、テロの直後から、シリアのレバノン支配と親シリア派政府に対する抗議デモが発生した。これを組織したのは、主としてキリスト教徒勢力とハリーリー支持派の世俗主義のイスラーム教徒勢力であった。空前規模のデモの拡大に直面して、2月28日には親シリア派のウマル・カラーミー首相が辞職した。
 他方、親シリア派はイスラーム教シーア派武装組織として内戦中に結成されたヒズボラを中心とするシーア派が主流を占め、3月以降、シリア支持の対抗デモを組織した。同時に、反シリア派の知識人や有力者が相次いで暗殺され、レバノンに再び内戦の予兆が表れた。
 しかし、今回は国際社会が比較的適切に介入したことで、内戦の危機は回避された。国連はハリーリー暗殺テロ事件の国際調査団の派遣を決定し、欧米やロシア、アラブ世界も互いに温度差はありながらも、こぞってシリア軍の撤退を要求した。
 その結果、シリアは4月以降、軍の撤退を開始し、同月26日までに全兵員の撤退を完了した。これによって、およそ30年に及んだシリア軍の駐留が終了することとなり、親シリア派政府の退陣とともに、民衆革命の最大目標はひとまず達成されたかに見えた。

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