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近代革命の社会力学(連載第447回)

2022-06-23 | 〆近代革命の社会力学

六十四 ネパール共和革命

(1)概観
 ネパールでは、1990年の民主化革命により議院内閣制型の立憲君主制が導入されていたが、これを契機に、共産党毛沢東主義派(以下、毛派)が大きく台頭し、1996年以降、政府軍との内戦に突入していた。
 内戦は革命後も温存された半封建的な社会構造の下、多数の貧農人口を抱える農村部に支持基盤を拡大した毛派優位に進み、世紀の変わり目頃には同派が農村部を中心に全土の半分以上を支配下に置き、政府の実効支配の及ばない「解放区」を設定するに至っていた。
 こうした中、21世紀初頭のネパールが向かう方向として、毛派が首都にも進撃して全土革命に成功するか、もしくは再び王権が強化され専制君主制が復活するかの瀬戸際にあった。結果は後者となったが、それは2001年6月に発生したディペンドラ王太子による王室一家惨殺という前代未聞の宮廷内殺人事件を契機とするいささか変則的な経過によった。
 この事件の犯人とされたディペンドラ王太子は父のビレンドラ国王を殺害した後、自殺を図り、重体となったが、間もなく自らも死亡したため、王位は重体のまま形式上王位を継いでいたディペンドラを介して、叔父のギャネンドラが継承することとなった。
 元来、1990年革命以降の民主化に批判的だったギャネンドラは即位するや、内戦対処の失敗を理由に、2002年以降、二度にわたる自己クーデターの手法で自身の内閣を排除し、全権を掌握して専制君主制を復活させた。
 この政治反動に対しては、毛派のみならず、非共産系を含む主要政党がこぞって反対する中、2005年に再び首都を中心に大規模な民衆の抗議活動が隆起した。これに同情した国際社会の圧力もあり、ギャネンドラは2006年に民主政府の復活に同意した。
 しかし、これをもって収束することなく、2007年以降、君主制そのものへの否定的な世論を背景に、毛派も参加した挙国一致政権の下、新憲法の制定プロセスが進行し、08年には君主制廃止・共和制移行が決定された。こうして、18世紀以来のシャハ王朝が終焉し、ネパールは共和制国家となった。
 このネパール共和革命は1951年立憲革命、1990年民主化革命に続く近代ネパールにおける三度目の革命であり、1990年民主化革命からしばらく時間をおいた二次革命の性格を持つものである。
 また、そもそも世界の君主制国家が減少してきた中、ネパール共和革命は1979年のイラン革命以来、現時点において全世界でも最後の共和革命となっており、ヒマラヤ山麓の王国に遅れて到来した共和革命であった。

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