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近代革命の社会力学(連載第246回)

2021-06-11 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(3)青年革命運動の形成
 バティスタ独裁時代のキューバは、貧困問題を抱えながらも、ラテンアメリカでは相対的に先進国であり、労働者の賃金も国際的に見て高水準にあった。そのうえ、バティスタはその政治的な出発点においては労働組合と近かったこともあり、労働運動からの革命的反作用は見られなかった。
 つまり、当時のキューバでは、経済的な下部構造の面から革命が生起する可能性は低い状況にあった。反面、長年の対米従属構造に対する民族主義的な反発はマグマのように鬱積していた。
 そうした民族主義的な覚醒は、さしあたり学生を中心とした青年知識層の間で高まりを見せた。その点、当時のキューバは相対的に豊かで高等教育制度も整備されていたことから、中産階級出自の学生を中心とした青年知識層が一つの社会階層として台頭していたのである。
 これは戦前からの傾向であり、バティスタが政界へ登場するきっかけとなった1933年の半革命でも、その成功要因として、バティスタら下士官の決起と連携した学生運動の存在があった。この時の学生運動は、ハバナ大学の学生によって立ち上げられた「大学生幹事会」(以下、幹事会)と名付けられた反体制組織であった。
 「幹事会」は半革命の成功に伴い、1933年に解散したが、キューバではハバナ大学を中心に学生運動が隆盛化し、戦後にかけて急進化する傾向にあった。そうした中、次世代の急進的な青年知識層が形成されてきていた。
 その中には、後に1959年革命の主役となるフェデル・カストロも含まれていた。「幹事会」が結成される一年前1926年生まれのカストロは豊かな砂糖農場主の下に生まれ、中産というよりも当時のキューバにおいては上流に属する階級の出自であったが、やはりハバナ大学の急進的な学生文化の中で成長した人物であった。
 1947年に急進的な民族主義政党として正統党が結党されると、まだ学生だったカストロは党の青年組織のリーダーとして台頭していく。ただ、正統党は反帝国主義と直接民主主主義を標榜したが、一方で市場経済と私有財産の擁護を掲げる点で社会主義とは一線を画していた。
 ちなみにカストロは学生時代にマルクス主義に傾倒していたが、当時のキューバにおける主要な共産主義政党であった1925年創設の人民社会主義者党はいささか古い世代の党であり、カストロは同党とは一線を画していた。
 正統党は着実に支持を伸ばし、1952年の議会選挙には弁護士となっていたカストロも立候補していたが、同時に予定されていた大統領選挙に立候補中のバティスタがクーデターで政権を奪取すると、議会選挙も無効とされ、選挙期間中にバティスタから要職を約束されていたカストロの当選可能性も潰えた。
 カストロは裁判所に提訴するも棄却されたため、合法的な方法での闘争を断念して、新たに「運動」と簡明に名付けられた武装革命運動の組織化を開始した。これは政党ではなく、地下活動を主体とする運動体であり、指導部はカストロら青年知識層であるが、メンバーは貧困者からも徴募したにわか仕立てのゲリラ組織であった。
 1952年中に早くも1000人以上のメンバーを結集することに成功した「運動」は、バティスタ政権の打倒を直接的な目標に、冒険的な武装革命に乗り出していくことになるが、政権発足直後の早まった武装蜂起計画は失敗を予感させるものであった。

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