ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第248回)

2021-06-14 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(5)最初期革命政権の展開
 1959年1月に革命軍の勝利が確定すると、直ちに革命政権が発足するが、初代の首相にはカストロ(以下、特に断りない限り、兄のフィデルを指す)をはじめとする「7月26日運動」のメンバーではないハバナ大学教授ホセ・ミロ・カルドナが任命された。
 ミロは法学者であり、バティスタ独裁時代には独立した立場で反バティスタの論陣を張り、学生らを革命に向けて鼓舞するメンター的な役割を果たしていた。その限りで、「運動」のパトロン的存在でもあったことで、初代の首相に抜擢されたものと見られる。
 一方、大統領にも「運動」外部から、マヌエル・ウルティア・ジェオが任命された。ウルティアはバティスタ時代に政権に対する市民的不服従運動を主導したリベラルな弁護士であり、革命前から大統領職を約束されていた。
 このように最初期革命政権の初動は「運動」外部から招聘した法律家コンビが大統領と首相として主導し、カストロは正規軍化された革命軍の最高司令官として武力部門を担うという集団指導制が採られた。
 しかし、ミロ首相は議会制の支持者であり、自ら制定に寄与しながら、バティスタが差し止めていた進歩的な1940年憲法の回復を主唱していたため、より急進的な政策を構想するカストロらとはすぐに不和となり、2月には辞任、カストロが首相に就任した。これにより、実質的な最高実力者自らが政府のトップに就くことになった。
 実質的な革命政権はここから始まると言ってもよいが、この先、アメリカによるカストロ政権転覆を狙った1961年の軍事侵攻(ピッグス湾事変)までの時期のカストロ政権は、イデオロギー的には曖昧であった。
 カストロは当初、社会主義宣言を回避しつつ、公式には自らを共産主義者ではないと言明し、実際、当時のキューバにおける共産主義政党であった人民社会主義者党とは直接の関わりを持たなかった。
 とはいえ、先述したように、カストロほか「運動」指導部は元来マルクス主義に傾斜していたことからすれば、最初期革命政権の曖昧さは戦略的な曖昧さであり、カストロとしても、「運動」への資金援助やバティスタ政権への経済制裁などアメリカの助力も革命の成功要因であったことに鑑み、革命後の対米関係を考慮し、あえてアメリカが忌避する共産主義を想起させる理念の表示を回避していたと考えられる。
 しかし、政策的な面では、農地所有の上限を設定し、農民に農地を再配分する農地改革を実施したほか、外資による土地保有につながる外国人による土地の所有禁止と接収を進めた。さらには、基幹産業である製糖や石油精製事業の国有化も主導している。特に、バティスタ時代に集中していた米系資本の国有化が断行されたことは、アメリカの反発を買うことになる。
 法制面でも、マルクス主義法学者オスバルド・ドルティコス・トラドを革命法制担当相に任命して、従来の法体系を転換する革命的基本法制の制定を主導させた。これにより1940年憲法は事実上凍結され、最終的には1976年の社会主義憲法に置換されることになる。
 こうした黙示の社会主義的な政策展開に対して、ウルティア大統領は政権内でマルクス主義者の影響が強まっていることに懸念を示していたが、59年7月には辞職に追い込まれた。その後、ウルティアを含む中産階級や富裕層はアメリカへ向け脱出し始め、その後の在米キューバ亡命移民コミュニティーの先駆けとなった。
 一方、旧バティスタ政権残党やカストロと袂を分かった元革命戦士などの雑多な構成から成るより積極的な武装反革命活動も開始された。彼らはCIAの支援を受け、中部のエスカンブレイ山脈を拠点に1965年まで抵抗を続けた。
 しかし、反革命活動は政権を脅かすほど活発とは言い難く、内戦を惹起することはなかった。その結果、この種の武装革命にありがちな旧体制派への報復的処刑も必ずしも大量的でなく、最初期政権時には最初の半年で推計500人ほどが処刑されるも、その大半は市民からも嫌悪されたバティスタ政権当時の治安関係者や内通者といった面々であった。
 最初期革命政権のこうした黙示の社会主義路線は、アメリカがこれを承認していれば、同時代ボリビアにおける革命のように、親ソ体制とは別の方向に進んだ可能性もあるが、アメリカが次第にカストロ政権への猜疑を強め、敵対していく中で、親ソ体制へと変容を余儀なくされていく。

コメント