三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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2024年春の海南島「現地調査」報告 8

2024年05月17日 | 海南島近現代史研究会
  4月6日朝、4時50分ころから鶏鳴。
 7時半に旅館をでて南方の常樹村に向かった。
 
 澄邁県政協文史資料委員会編『澄邁文史』第十輯(日軍侵澄暴行実録 1995年発行か)に掲載されている王明恩「国恨家仇怎能忘 記侵瓊日軍占領加楽峒的罪行」に、
   「一九四一年六月一一日、日軍飛機炸常樹村、炸毀民房一五間、炸死農民六人、受傷一人、炸死家畜四隻
  只。……」(三〇頁)
   「従一九四〇年四月至一九四五年八月的五年、加楽峒共殺死無辜農民八八九人、平均毎村被殺死一〇・二人。
  “重災区”是常樹村殺死二五六人、北柳村被殺死四一人、加塘村遭殺二四人、加応村殺死二一人、加志村殺死二〇
  人……」(三三頁)、
   「日軍占据加楽期間、任意下村搶掄劫農民財産、随便抓人作押、勒索銭財。擄掠最突出的有:北柳村搶劫家畜
  二二三頭、勒索光洋一三七〇〇元:常樹村遭劫耕牛一五七一頭、勒索光洋一二五四三元……」(三四頁)。
と書かれている。

 1940年4月から1945年8月までの5年間に村人256人が殺されたと書かれている加楽鎮常樹を、わたしたちが、はじめて訪ねたのは2012年11月7日だった。
 この日、常樹村の自宅で王汀邦さん(91歳)は、つぎのように話した。
   「はじめ、村が爆撃された。そのあと、日本軍が何度も村を襲った。この村が 国民党と共産党の拠点だったからだ。
   日本兵のなかには台湾人もいた。
   日本軍の占領中は、生活が苦しかった」。若い女性が日本兵に暴行された。
 自宅で王川法さん(1933年生)は、つぎのように話した。
   「日本軍が2回目に村を襲ってきたとき、父が殺された。1942年12月28日だった。わたしは9歳だった。
   わたしは、父が殺されるところを見た。
   日本兵2人が、父の腕を両側からひっぱり、からだの両側から銃剣を突き刺した。父の名は、王澄禄。40歳だった。
   石で殴られて殺された村人もたくさんいた。日本兵がいまいたら、殺してやりたい。ミサイルで日本を攻撃したい気持ちだ。
   わたしの家は、父母、兄、わたしの4人家族だった。姉がいたが、嫁にいっていた。兄は15歳だった」。
 わたしたちが、王川法さんから話を聞いているあいだ、そばでずうっと黙って座っている女性がいた。

 村人の1人が、
   「日本軍が村を襲ってきた1942年12月28日は、その女性の結婚式の日だった。その日の朝、日本兵に強姦され、
  そのあと精神を病んでしまった」
 と静かに話した。
  村人たちみんなから、その女性がいたわれていることが、わたしたちに強く伝わってきた。
  別れ際に、王川法さんは、「この村で殺された人たちの名は、記録されていない。これから記録していきたい」と話した。
  その四か月半後、2013年3月31日に、わたしたちは、常樹村を再訪した。
  王川法さんは、日本兵に殺された常樹村の村人の名簿をみせてくれた。
 そのあと、王川法さんは、父が殺された場所に案内してくれた。そこは、王川法さんの家の近くの四つ角だった。大きな石があった。その石を王川法さんは黙って指さした。
 その後、海南島近現代史研究会は3度、常樹村を訪ねた。
 さらにその7年後、2014年4月6日に訪ねたとき常樹村の風景は大きく変わっていた。
 常樹村を10時半にでて、定安県雷鳴鎮南曲村に向かった。わたしがはじめて南曲村を訪ねたのは2012年3月18日だった。この日に南曲村を訪ねたのは、2011年の秋に海南大学図書館の海南地方文献室で見た海南省定安県地方志編纂委员会編『定安県志』(2007年)で、「為国犠牲」と正面に刻まれ背面に王毅瓊崖守備隊司が書いた800字の碑文が刻まれている「雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵紀念碑」が、南曲村にあることを知ったからだった。同書には、この碑は、1946年春に瓊崖国民党軍政当局が雷鳴郷公所の門前に建てたものであり、1950年代のはじめに南曲村の村民が村に運んで保存していると書かれていた。
 2012年3月に、わたしがこの碑の前に立っていると、村人が、この碑のことをよく知っている人がいると言って、王昭成さんの電話番号を教えてくれた。すぐに電話すると、海口に住んでいる王昭成さんは、たまたま雷鳴に向かっている途中であり半時間ほどで碑のところに到着するとのことであった。
 王昭成さんが来るまでの間、わたしは、その場をくわしくみて歩いた。
 そこは、村道の一角に開かれた200平方メートルほどの草原で、村道から向かって右側に、「為国犠牲」と刻まれた高さ2メートルあまりの石碑が建てられており、そこから7~8メートルほど離れた左側に「馮白駒将軍抗日駐地遺址 雷鳴鎮南曲村居禄山 公元二〇〇〇年四月立」と書かれた同じくらいの大きさの石碑が建てられていた。その左奥には、太く大きな榕樹(ガジュマル)がたっていた。
 まもなく着いた王昭成さんに、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会のこれまでの運動の内容を話した。
 王昭成さんは南曲村の出身で、退職後、南曲村の“名誉の村長”と呼ばれている人だった。
 ふたつの碑の前で、王昭成さんはつぎのように話してくれた。
   「この“雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵記念碑”の正面の「為国犠牲」という文字は、国民党広東省第9区行政監督
  専門員兼保安司令官(陸軍中将)だった丘岳宋が書いたものだ。
   背面の碑文には国民党の瓊崖守備司令官の王毅の署名がある。
   これは、抗日戦争に勝利した後、定安県の雷鳴と富文での抗日戦争の犠牲者を追悼し、日本軍に抵抗した
  軍民の事績を伝えるために、1946年に国民党政府が雷鳴郷の郷公所があった雷鳴村に立てたものだ。
   雷鳴と富文での2度の戦闘中に、国民党の将兵17人と抗日志士8人が犠牲になった。そのなかの1人は、定安県
  遊撃予備第一大隊の隊長王志発だった。かれは南曲村の人だった。王志発は、農暦1942年1月に、雷鳴鎮の隣の
  富文鎮の戦闘のときに戦死した。29歳だった。
   1951年の台風の時に、石碑が傾いた。しかし、その後、管理する人がいなかったので、南曲村の村民4人が、こ
  の高さ2メートル、厚さ10センチの重い石碑を南曲村の王氏の祖廟まで担いで運んだ。わたしの父の王広亨もそ
  の4人のひとりだった。
   文化大革命のとき、村民は、ひそかにこの石碑を井のそばに置いて踏み石のようにして隠した。村人は国
  民党軍の指揮官の題字が刻まれている記念碑が破壊されることのないように守った。
   「馮白駒将軍抗日駐地遺址」という石碑は、2000年4月に南曲村の村民が建てたものだ。その10年後、2010年
  に、「雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵記念碑」が、「馮白駒将軍抗日駐地遺址」のそばに建てられた。
   1941年の前半に、馮白駒将軍が指揮する瓊崖抗日独立総隊の10数名の戦士が南曲村の居禄山に来て、日本軍
  への抵抗をよびかけ、5件の家に分かれて14日間滞在した。「馮白駒将軍抗日駐地遺址」という石碑はそのこと
  を記念する碑だ。
   宿泊した李家の人に感謝するため、馮白駒将軍は、出発が迫ったときに1枚の自分の肖像画を贈った。馮白
  駒将軍が当時泊まった家はすでに崩れ落ちているが、基礎だけは残っている。この肖像画は抗日戦争と解放戦
  争と文化大革命を経て秘蔵されてきた。
   2011年1月7日に、馮白駒の娘の馮尔超と馮尔曾が父のとどまったことがある南曲村を訪ねて李氏の息子の王
  世春さんに会った。このとき82歳になっていた王世春さんは、馮白駒将軍の肖像画を寄贈した」。
 
 日本海軍の『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図(1943年3月1日現在)」には、雷鳴守備隊の日本兵は42人、定安守備隊の日本兵は72人、金鶏嶺守備隊の日本兵は18人と書かれている。
 海南島で日本海軍海南特務部政務局第3課は、特務部海南師範学校を設置・運営していた。海南師範学校の関係者が2004年9月に出版した『天涯に陽は昇る 海南島への架け橋』(発行人山本良一)には、雷鳴の日本語教師には、海南師範学校第3期生の中という人がいたと書かれている(163頁)。  

  4月6日11時半ころ、南曲村のふたつの碑の前で出会った村人に聞くと、 王昭成さんは数年前に亡くなった、と言った。すぐ近くの王昭成さん家を訪ねると鍵がかけられていて誰もいなかった。わたしが最後に王昭成さんに会ったのは2018年10月だった。それまでの間に、南曲村や海口で10回ほど会っていた朋友を失った。
 12時ころ南曲村を離れ、同じ雷鳴鎮の梅種村に行った。
 わたしが梅種村をはじめて訪問したのは、2010年5月23日だった。
 この日、わたしは、許如梅さん(1918年~1943年)と周春雷さんの墓がある雷鳴鎮梅種村を訪ねた。許如梅さんの娘さんの符如来さんといっしょでした(海南島近現代史研究会会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号の表紙に、許如梅さんの墓の写真が掲載されている)。
 2010年4月6日に海南省図書館ではじめて読むことができた王俊才・王広虎「堅貞不屈 浩気長存――憶周春雷、許如梅同志壮烈犠牲」(定安县委党史研究室編『烽火』1987年7月)には、
   「敵は許如梅の頭を切りとり、続いて周春雷の頭を切って、梁安利に担がせて、雷鳴墟まで運ばせ大勢の
  人にみせた。しかし、梁安利同志は屈服することなく、平然と死に対決雷鳴墟で英雄的に義のために死んだ」
と書かれてあった。

 2010年5月23日の13年あまりのちの2024年4月6日には許如梅さんの墓には、墓石が無くなっていた。

 梅種村を離れ、午後2時半に定安県黄竹鎮大河村に建てられている “黄竹三村公墓”の場に立った。「中華民国三十四年」(1945年)に建てられた墓碑には「大河 後田 周公 三村抗戦同日殉難義士林俊南等一百零九名之公墓」と刻まれている。
 1941年8月25日(農歴7月3日)早朝、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊所属の日本軍部隊が三村(現在、大河村・后田村・牛耕坡村・周公村の四村)を包囲し、明るくなってから村人を集め、家に押し込め、火をつけ、逃げ出した村人を刺殺した。母親に背負われた幼児も殺した。さらに逃げようとする村人に日本兵は銃を乱射した。
 わたしがはじめてこの場を訪ねたのは、2002年10月だった。その後わたしは、遺族や目撃者の証言をきかせてもらうために数度この村を訪ねた。

 大河村を離れ、文昌市南陽に向かった。「南陽人民英雄紀念碑」のそばに新しく「南陽英雄紀念園区」がつくられていた。
 5時過ぎに文昌市内に着いた。 
 
                   佐藤正人
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