三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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韓国戦争期民間人虐殺遺骸発掘共同調査に参加して

2015年10月13日 | 韓国で
 昨年(2014年)2月24日から3月2日まで、「韓国戦争期民間人虐殺遺骸発掘共同調査団」は、慶尚南道晋州市鳴石面龍山里で、犠牲者の遺骸を「発掘」しました。わたしは、27日と28日に参加しました。27日午前11時前に「現場」に着くと、朴善周さんが中心になって「発掘調査」をしていました。朴善周さんは、1998年7月に韓国KBSが海南島の「朝鮮村」の遺骨埋葬現場を「発掘」したとき指導・鑑定したことがあります。朴善周さんにわたしが会うのは、2005年10月末のアイヌモシリの猿払村の旧日本陸軍浅茅野飛行場跡の近くでの遺骨試掘のとき以来の8年5か月ぶりでした。
 ことし(2015年)2月23日から3月1日まで、「韓国戦争期民間人虐殺遺骸発掘共同調査団」は、「第二次遺骸発掘共同調査」を、「韓国戦争期大田山内民間人虐殺遺骸発掘共同対策委員会(大田地域の19個の市民社会組織で形成)」とともに、忠清南道大田市東区郎月洞(前、忠清南道大徳郡山内面朗月里骨嶺谷)でおこないました。
 わたしは、2月28日と3月1日に参加しました。
 2月28日朝、骨嶺谷に着きました。発掘現場の近くに、2000年7月8日に建立された石碑があり、その前に新しい花束が置かれてありました。その碑には、つぎのように刻まれていました(原文はハングル)。
    「大田刑務所政治犯および民間人集団虐殺地
     ここ面骨嶺谷(大田市東区郎月洞)は、1950年7月初、大田刑務所に収監されて
    いた済州4・3、および麗順事件関連者などの政治犯と、大田と忠南地域近辺の民
    間人が、軍人と警察によって連行、集団処刑され、埋められた悲劇の現場である。
     1999年12月末、解除された米国秘密文書が公開され世間に広く知られることに
    なった。この文書には、50年7月初、大田刑務所に収監されていた1800余名が3日
    間にわたり集団虐殺されたと、記録されている。
     しかし、真相究明委員会の調査過程で、政治犯のほかに民間人が10日間にわたっ
    て連行、銃殺され、犠牲者数は少なくても3000余名に達すると確認されている。
    
          韓国戦争勃発50周年7月8日 大田刑務所山内虐殺真相糾明委員会」。

 骨嶺谷での集団虐殺は、地域住民や犠牲者の遺族は知っていても、広く知られることはありませんでした。 「大田刑務所山内虐殺真相糾明委員会」が結成されたのは、1999年11月でした。その後、まもなく、大田虐殺にかんするUSA国立公文書記録管理局の秘密文書が「解禁」されました。「韓国戦争勃発50周年」は、2000年です。

 韓国で民間人の組織によって「発掘調査」が行われている犠牲者は、韓国軍と韓国警察に虐殺された人たちであり、海南島の「朝鮮村」に埋められている犠牲者は、日本軍に虐殺された人たちであって、加害者も歴史的犯罪の性格・意味も違います。しかし、晋州や大田における大虐殺も「朝鮮村」における大虐殺も、隠され続けてきており、文書記録はほとんど公開されていません。
 犠牲者を「発掘」し、その遺骨の証言を聞くことが、決定的に重要だと思います。

                                         佐藤正人


 このブログの2014年2月27日の「韓国戦争期民間人虐殺遺骸発掘調査」、2015年3月15日、16日の「韓国戦争期民間人虐殺遺骸発掘共同調査」2の1、2の2、6月27日の「韓国戦争当時虐殺された大田骨嶺谷民間人遺骸発掘」、6月30日の「民間人大量虐殺の場所、大田骨嶺谷遺骸発掘現場」、7月1日の「朝鮮戦争で起きた虐殺事件犠牲者の遺骨が発掘できない」などをみてください。
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