三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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2024年春の海南島「現地調査」報告 9

2024年05月16日 | 海南島近現代史研究会
 4月7日朝7時半文昌市内の旅館をでて清瀾半島の西端に着いた。数個の高層マンションが建てられており、その周辺から海岸までが広い公園になっている。
 海岸で5日に沙土の王徳林さんからもらったバナナを食べた。
 その後、清瀾港に向かった。
 近くに新しい埠頭ができていた。その埠頭入り口に大きな門がつくられていた。名前が示されていない門は閉められており、普通では入られなくなっていた。その門の近くの道路標識には「三沙路」と書かれていた。
 すこし離れた路上から埠頭の中を見ると、「三沙2号」という船名の大型船が停泊していた。【註】「Baidu百科」には、「2014年年底,“三沙1号”将正式投入使用,奔赴浩瀚南海,担负起神圣而光荣的使命。符戆在致辞中说, “三沙一号”入列使用后必将极大地提升三沙市的海上行政管控、交通补给、综合服务保障能力,为维护国家主权和海洋权益,建设“主权三沙、美丽三沙、幸福三沙”提供强有力的装备保障。“三沙1号”自2013年12月25日在渤海船舶重工有限责任公司正式建造以来,船舶建造进展顺利,各重大节点均提前或按期实现」、「2019年8月21日,海南省三沙设市后建造的第二艘交通补给船“三沙2号”抵达三沙市永兴岛,完成首航」と書かれている。1938年に日本軍はベトナムの領土であった海域の諸島に侵入し、「新南群島」と名付けた。1939年2月20に日本陸海軍が海南島に奇襲上陸し軍事占領した後、日本政府は海南島とともに「新南群島」を1945年8月まで領土とした。 
 
 2024年4月7日9時20分に、2010年ころ訪ねた清瀾港の魚市場に行った。10数年前にはカブトガニなど珍しいものも売られていたが、売っているものの数はかなり少なくなっていた。大型漁船が多くなったので魚の量は多くなっていた。
 10時過ぎに清瀾港から東郊鎮に向かった。

 2014年10月31日に、東郊鎮福羅村で符史森さん(1952年生)は、
   「父、符和桂は2003年に85才で亡くなった。日本軍がこの村を襲ったのは、父が8才~10才のころ。父は逃げることができた。田んぼのそばの川に樹がびっしり生えていて、父は川の中でその根につかまって隠れた。ひとりで何時間も。
   祖父(符副昇)、祖母、父の妹は祠堂で殺された。父の妹は、4、5歳だった父の父方のいとこの兄(符気壹)の妻が強姦されて乳房を切り取られて殺された。
   父は酒を飲んではこの話をしていた」と話していた。
 2024年4月7日11時50分ころ福羅村で符史森さんに再会した。符史森さんは9年半前にわたしたちが訪ねたことを覚えていてくれた。祖父母と幼かった伯母が殺された現場に案内してもらった。自宅のすぐ近くのその場には樹が繁っていた。数10メートル離れたヤシの木のそばに祠堂があったことを示す石碑が2基あった。
 符史森さんは、家の近くで鶏、亀、 アヒル、鵞鳥を飼っていた。そのそばで、ヤシの実をごちそうになった。

 その後、1942年秋に日本海軍第15警備隊の部隊が襲撃した東郊鎮田頭村を訪ねた。
 わたしたちが2014年10月31日に証言をきかせていただいた符福通さんは2019年に亡くなられていた。
 出会った村人に、近くの高台に建てられていた日本海軍第15警備隊の望楼跡と周壕跡に案内していただいた。

 文昌市内の旅館に戻る途中、新華書店に1時間近く寄って、地図・字典などを買った。その間、客はわたし一人だった。書籍売り場にいた店員は5人だった。


          佐藤正人
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