三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「光州民主化運動調査委、「内乱目的殺人」で当時の軍幹部らを改めて告発推進」

2024年05月20日 | 韓国で
「The Hankyoreh」 2024-05-20 11:08
■[独自]光州民主化運動調査委、「内乱目的殺人」で当時の軍幹部らを改めて告発推進
 1997年の有罪判決とは別に 
 7人殺害の事実が追加で明らかになり 
 チョン・ホヨン元特殊戦司令官、チェ・セチャン元第3空輸旅団長を告発推進 
 チェ・ウン氏ら9人を民間人虐殺の疑いで告発も

【写真】1980年5月27日、戒厳軍の全南道庁鎮圧作戦直後、ノーマン・ソープ記者が撮ったアン・ジョンピルさん(手前)とムン・ジェハクさんの遺体。ムンさんはハン・ガンの小説『少年が来る』の実際の主人公だ=旧全南道庁復元推進団の映像より

 光州(クァンジュ)5・18民主化運動真相究明調査委員会(調査委)は、1980年5月当時の特殊戦司令官だったチョン・ホヨン氏と第3空輸旅団長だったチェ・セチャン氏を、内乱目的殺人罪で追加告発する案を全員委員会に提出する。全員委員会では、チェ・ウン元第11空輸旅団長ら鎮圧軍9人を民間人殺害の疑いで告発する問題も話し合われる。
 調査委の関係者らの話を総合すると、20日に開かれる全員委員会では、チョン・ホヨン、チェ・セチャン両氏に対する内乱目的殺人疑惑の告発案件と共に、チェ・ウン氏など9人の民間人殺害疑惑の告発案件が上程される。全員委員会は合意制が原則だが、合意に至らなければ表決を通じてでも告発問題の結論を出すというのが多数の委員たちの考えだ。
 調査委がチョン・ホヨン氏、チェ・セチャン氏を内乱目的殺人罪で告発しようとしているのは、1997年12月、最高裁が全斗煥(チョン・ドゥファン/元大統領)、ファン・ヨンシ、チョン・ホヨンなど5人に内乱目的殺人疑惑で有罪判決を下した当時には明らかになっていなかった犯罪が新たに確認されたという判断からだ。
 当時、全斗煥氏らに適用された内乱目的殺人容疑は、1980年5月27日未明、戒厳軍の光州再進入作戦の過程で、ユン・サンウォンさんら抵抗市民18人を殺害した行為と関連したものだが、今回の調査過程で市民7人が戒厳軍によって同日殺害された事実が明らかになり、「別途の犯罪」(別罪)で処罰することが可能になったということだ。ただし、すでに死亡した全斗煥氏ら4人は公訴権消滅で起訴が不可能であり、1997年に有罪が確定したチョン・ホヨン氏と、当時は疑惑が適用されなかったが1979年12月12日の軍事クーデターと光州鎮圧過程で重要な役割をしたチェ・セチャン氏を追加告発の対象に含めた、というのが調査委の説明だ。
 調査委は、内乱目的殺人罪の場合、すでに処罰を受けた被告人でも新たな犯罪が明らかになれば追加起訴と処罰が可能だという考えだ。ある関係者は「2020年11月に建国大学法学専門大学院のキム・ジェユン教授に研究を依頼した『5・18民主化運動当時の重大な人権侵害事件の国内法的争点研究』でも『内乱目的殺人罪は殺人罪に対する加重的構成要件として被害者の数により決定されるため、別罪が可能だ』という結論を得た」と明らかにした。公訴時効の問題も障害にはならないとみている。1995年12月21日に制定された「憲政秩序破壊犯罪の公訴時効等に関する特例法」(憲政犯罪時効法)は、内乱罪および反乱罪、集団殺害に該当する犯罪に対しては公訴時効を適用しない。

【写真】1980年5月23日、チェ・スギル、ヤン・ミンソクら市民2人が即決処分された光州東区池元洞の周南村=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 当事者たちは強く反発した。チョン・ホヨン氏は19日、ハンギョレの電話取材で「調査委が内乱目的殺人罪で検察告発を推進する」ということに関して「下らないことを言うな。話にならん」と言って電話を切った。5・18当時、特殊戦司令官として光州に来たチョン氏は、1997年に最高裁で内乱謀議参加罪、内乱目的殺人罪などで懲役10年の刑が確定したが、翌年、金大中政権発足後に赦免された。チョン氏は2020年、調査委に出した陳情書で「(内乱目的殺人罪などで)処罰を受けたが、全斗煥将軍と共謀した事実はなく、特殊戦司令部隷下の旅団を他部隊に配属させたため私には作戦指揮権が全くなかったのに、特殊戦司令官という理由で処罰を受けたことが悔しい」と訴えている。チョン・ホヨン氏は全斗煥政権下で陸軍参謀総長と内務部長官、国防部長官を務めた。
 チェ・セチャン氏もハンギョレとの電話で「特に(釈明する)考えはないし、意見することもない」と言って電話を切った。チェ氏は5・18当時、第3空輸旅団に実弾配布と実弾使用を指示した疑いなどにより、1997年に最高裁で開かれた12・12軍事クーデターおよび5・18民主化運動関連の裁判で反乱謀議参加主要任務従事、上官殺害未遂などの疑いで懲役5年の刑を宣告されたが、翌年8月に赦免された。調査委側は「チェ・セチャン氏は内乱目的殺人罪では起訴されなかったが、5月27日の鎮圧作戦で中心的役割をしたため、内乱目的殺人容疑が可能だ」と明らかにした。チェ氏は5・18以後、首都警備司令官、陸軍参謀総長、合同参謀議長を務め、1989年に除隊。盧泰愚(ノ・テウ)政権では国防部長官を務めた。

【写真】光州南区松岩洞にある松岩工業団地内の煉炭工場の管理部長を務めていたリュ・シヨルさん(76)が3日、松岩洞のOK自動車教習所の隣の空き地を指して、民間人虐殺疑惑について話している=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 調査委がチョン・ホヨン、チェ・セチャン両氏の告発の件と共に、全員委員会に上程することにしたチェ・ウン元第11空輸旅団長など軍関係者9人の告発案件は、1980年5月23日と24日に周南(チュナム)村(池元洞/チウォンドン)と松岩洞(ソンアムドン)で起きた民間人虐殺と関連している。チェ・ウン元旅団長は5月23日、周南村のマイクロバス銃撃事件の生存市民2人を即決処刑した疑いで、地域隊長、兵士など5人とともに告発が進められており、1日後に松岩洞で起きた民間人3人を即決射殺した疑いに関しても他の兵士4人とともに告発推進の対象者に上がった。
 調査委は20日に開かれる全員委員会にこれらの案件を審議案件として上程する方針だ。調査委の全員委員会は、常任委員3人に野党「共に民主党」推薦の非常任委員3人、与党「国民の力」推薦の非常任委員3人を加え、計9人で構成されている。しかし、国民の力推薦の非常任委員3人は、これまでの活動性向から見て、この案件処理に反対する可能性が高いというのが調査委内部の観測だ。調査委の主要関係者は「全員委員会で合意に至らなければ、案件採択のため表決の同意を得て表決で処理しうる。議決の定足数は在籍人数の過半数である5人」と明らかにした。
 調査委に参加している全南大学のミン・ビョンノ教授(5・18研究所長)は、今回の告発推進について、「5・18民主化運動真相究明特別法(第44条)には、『調査委の調査の結果、犯罪事実があったり、犯罪の疑いがあると認めた事実については、検察総長に告発しなければならない』と規定されている」と述べた。
チョン・デハ、キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-05-19 23:42


「The Hankyoreh」 2024-05-18 13:46
■「アイゴー、光州アイゴー…」日本の合唱団、5・18民主化運動の追悼曲を歌う
 19日、光州で五月韓日交流音楽会開催

【写真】日本の音楽グループ「山上茂典とその一座」が昨年光州で「アイゴー光州」を合唱している=プルンソル合唱団提供//ハンギョレ新聞社

 「若者が死んでいった/子どもたちも死んでいった/人々が死んでいった/光州という都市で/1980年5月18日」。
 日本人歌手の山上茂典さんが5・18光州民主化運動の犠牲者を追悼して作った曲「アイゴー光州」の出だしだ。繰り返しの部分は「アイゴー、アイゴー、光州アイゴー/アイゴー、アイゴー、光州アイゴー」。この歌は「民主主義を愛した光州の人たち…平和自由民主主義万歳」で締めくくられる。
 グループ「山上茂典とその一座」は19日午後4時30分、光州錦南路(クムナムロ)の5・18民主広場で開かれる「五月韓日交流音楽会」の舞台で、この歌を韓国語で歌う。山上茂典さんは元JR西日本の社員であり、シンガーソングライターとしてグループを率いている。
 今年は韓日合唱団5チームが舞台に上がる。韓日市民合唱団は2~3曲ずつ歌った後、「朝露」、「光州出征歌」、「一緒に行こうこの道を」など3曲を一緒に歌う。プルンソル合唱団の指揮者のチョン・ユハさんは「日本の市民合唱団の方が私たちよりも民衆歌謡を好んでたくさん歌う。歌で交流し、お互いの市民運動のやり方を学ぶことができて心強い」と話した。
 プルンソル合唱団は2015年の結成以降、地道に活動を続けており、創作ミュージカル「光の結婚式」(「あなたのための行進曲」)を韓国と日本の舞台で公演し好評を得た。プルンソル合唱団は今年11月15日、東京で「いろそら!合唱団」と共演する。1987合唱団は、5・18を継承した6月抗争の精神をつなぐために作った市民合唱団だ。光州興士団合唱団は、平和と統一を願う歌を聴かせてくれる。
 日本の合唱チームは「いろそら!合唱団」が舞台に上がる。11年前、5・18ミュージカル「華麗なる休暇」の東京公演が実現できるように支援した日本の人たちが作った合唱団だ。合唱団の名前も「華麗なる休暇」のミュージカル公演で叫んだ「イロソラ」(韓国語で「立ち上がれ」という意味)と名付けた。「いろそら!合唱団」は民衆歌謡「その日が来れば」を歌う。
 韓国と日本の市民合唱団は1999年から音楽交流を始めた。音楽で反戦・平和運動を行う合唱団「うたごえ」が、1999年の5・18記念週間に光州を訪れたことがきっかけとなった。プルンソル合唱団のイム・ヒチョル団長は「韓国と日本を行き来しながら、知らなかった歴史を振り返って反省し、互いに良い影響を与え合っている」と語った。
チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-05-17 16:27


「The Hankyoreh」 2024-05-18 10:41
■「刺され、撃たれ、運ばれていった」…光州刑務所の行方の分からない遺体の謎

【写真】1980年の5・18民主化運動当時、戒厳軍が市民を捕らえて軍用トラックで連行している=資料写真//ハンギョレ新聞社

 5・18光州(クァンジュ)民衆抗争で死亡したことが公式に認められているものの、遺体が見つかっていない犠牲者の数は73人。彼らは全員「行方不明者」として処理された。5・18行方不明者は、政府が5・18関連の死者数を公式発表した当初から大きな問題となっていた。人々は政府発表を信用せず、公式の死者数よりはるかに多くの市民が戒厳軍の犠牲になり、消し去られたと信じた。
 このような考えは、1980年代初めから歌われてきた「5月の歌2」という民衆歌謡に「なぜ撃ったのか、なぜ刺したのか、トラックに乗せてどこに行ったのか」という歌詞として登場する。この歌詞は、1980年5月21日に行われた全南大学から光州刑務所までの空輸部隊による抑留者移送作戦も重要な背景となっている。
 「荷物を積み込むように整然と人を重ねていました。車の中は人と人の間に隙間がないほどでした」。

【写真】1980年5月21日、全南大学で抑留され、光州刑務所まで軍用車で移送されたキム・ビョンジュンさん=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 キム・ビョンジュンさん(65、光州市西区良洞)は14日のハンギョレの電話取材に対し、「後ろ手に縛られて動けなかった。ぐにゃぐにゃと踏んでいたが、寝かされている人を起こす方法はなかった」と話した。第3空輸旅団の兵士たちは1980年5月21日朝、全南大学の講義室と講堂に抑留していた200人あまり(軍の記録では120人あまり)の市民を放送用トラックと軍用輸送トラック2台に乗せ込み、4キロほど離れた角化洞(カクファドン)の光州刑務所に移動した。徒歩監視する兵士たちがトラックを幾重にも囲んで移動したため、時間がかなりかかった。

【写真】旧光州刑務所の航空写真=資料写真//ハンギョレ新聞社

 兵士たちはトラックに乗せた市民を無抵抗にするために、トラックに催涙剤「CS」の粉末を散布した。キムさんは「腕が催涙剤の粉末だらけになって、火傷を負って粘液が出た」と話した。呼吸困難を感じたある市民が車の小さな窓を割った。キムさんは「すぐに窓から剣先が刺し込まれた」と語った。5月19日に車両デモをしている途中に捕らえられたキムさんは、抑留から49日後に解放された。キムさんは「その時、刑務所から生きて出てきた108人は『108会』という講を組織したりもした」と言う。
 遺体の目撃者は多い。第3空輸旅団は午後4時ごろに光州刑務所に到着した。同旅団の下士(軍の階級名)だったキム・スンシクさん(69)は今月7日に全羅南道海南(ヘナム)でハンギョレの取材に応じ、「5月21日午後、光州刑務所に到着した軍用トラックで13体の遺体を下ろした」と語った。翌日にはトラックの中から、銃で撃たれた遺体も1体回拾した。キムさんは「連隊の情報将校が13人の遺体の顔をすべて撮影した」と証言した。
 第3空輸旅団の下士だったYさんは5・18民主化運動真相究明調査委員会(5・18調査委)に、「5月21日夜、ある上官の指示で、月が昇った時間に2台の手押し車で遺体を運んだ。1つの穴に2体ずつ3カ所、1つの穴には3体を埋めたと聞いた」と供述している。
チョン・デハ、キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/area_general/1140924.html
韓国語原文入力:2024-05-17 05:02


「The Hankyoreh」 2024-05-18 09:06
■[独自]光州民衆抗争「火葬」メモを初めて発見…行方不明者を探す手がかりになるか
 調査委「民間人3人、家族の同意で火葬」 
 死亡事実は認められたが「行方不明」
 
【写真】1980年5月の「光州市土葬関係記録」には、行方不明の疑惑が最も多い池元洞と刑務所(光州刑務所)という文字の横に「火葬」と書かれたメモがある//ハンギョレ新聞社

 1980年の光州5・18民主化運動の頃に作成されたとみられる光州市(クァンジュシ)の遺体処理関連の記録から「火葬」と書かれたメモが発見された。行方不明者の行方に関する新たな手がかりになりうるだけに、当時の光州市の機関などを対象に、行方不明者の遺体を火葬した可能性などについて綿密な再調査が必要だと指摘されている。
 「火葬」メモは、検察などに提出された光州民主化運動当時の光州市記録を元5・18遺族会長のチョン・スマン氏がスキャンしたファイルの形で保管していたことを、最近ハンギョレが確認したものだ。16枚の更紙に水性ペンで作成されたこのメモには、「池元洞、刑務所、火葬-葬儀士協会連絡」という文字と共に「自主的に引き渡し」「公園墓地」など、遺体の処理に関すると思われる内容がある。「5体」「6体」「28体」など遺体の数を表すような表現、時間と推定される「12:15」、「11:00」という数字も登場する。
 5・18団体がメモに注目するのは、当時死亡した事実は認められたが、遺体が見つからず「行方不明」扱いだった犠牲者73人の「行方」を探す手がかりになるかもしれないというかすかな希望のためだ。このメモに「火葬」とともに書かれた「池元洞(チウォンドン)」と「刑務所」(角化洞の旧光州刑務所)が、民主化運動当時に犠牲者の遺体を目撃したという供述が多く出た場所である点も注目される。特に光州刑務所は遺体を見たという供述は多いが、その遺体がその後どこに行ったのかは依然として霧に包まれている。
 光州刑務所で遺体を目撃した人は多い。第3空輸旅団の下士だったキム・スンシクさん(69)は7日、全羅南道海南(ヘナム)でハンギョレの取材に応じ、「5月21日午後、光州刑務所に到着した軍用トラックで13体の遺体を下ろした」と証言した。第3空輸旅団の下士だったYさんは5・18民主化運動真相究明調査委員会(5・18調査委)に「5月21日夜、ある上官の指示で、夜に土を掘って(遺体)9体を埋めた」と証言した。
 当時光州刑務所に勤務していた小説家のホン・インピョさん(78)は、2020年にハンギョレの取材で「5月21日午後、日暮れ頃に第3空輸旅団の部隊員が3人の市民を土に埋めるのを見た」とし、「2~3日後、遺体3~4体をヘリコプターで運んだのを見た」と語った。

【写真】1980年5月、第3空輸旅団の下士だったキム・スンシクさん=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 光州刑務所から消えた遺体は少なくとも17体。1980年5月31日、戒厳司令部は「光州事件真相調査」の結果で、光州刑務所周辺で28人が死亡したと発表したが、光州刑務所構内(8体)と光州刑務所前の野山(3体)で11体だけが発見された。単純計算でも、キム・スンシク元下士が見た死亡者13人のうち10人の遺体が見つかっていないわけだ。

【写真】1980年5月、光州刑務所の刑務官だった作家のホン・インピョさん=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 光州から和順(ファスン)に向かうところに位置した池元洞も、民主化運動の期間に戒厳軍による銃撃で死傷者が多く発生したところだ。5・18調査委は1980年5月23日午前11時に発生した周南(チュナム)村マイクロバス事件と関連し、ヤン・ミンソク、チェ・スギル、キム・ジェヒョン、キム・ヒョンギュ、ソン・オクレ、コ・ヨンジャ、キム・ナムソク、キム・ユンス、キム・チュンレ、パク・ヒョンスク、ペク・テファン、ファン・ホゴルの13人が死亡し、ホン・クムスクだけが生存したと明らかにした。5・18調査委のホ・ヨンシク調査4課長は「軍人の証言と軍資料などを通じてマイクロバスには17人が乗っていたという事実を確認したが、発見されら遺体は13体のみ」と明らかにした。
 しかし、別のマイクロバス銃撃事件があったという主張も絶えない。当時、池元洞で花屋を営んでいたキム・ジョンファさん(77)は2021年5月のハンギョレのインタビューで、「5月23日午前8時30分から9時15分頃、軍人たちがマイクロバスを銃撃し、10体の遺体を目撃した」と証言した。当時キムさんが目撃したマイクロバスは銃撃を受けて道に横転した状態だったが、ホン・クムスクさんなどが乗っていたマイクロバスは横転しなかったという供述から、別の事件である可能性が高い。

【写真】光州市東区役所の状況日誌のメモ//ハンギョレ新聞社

 5・18民主化運動以後、政府から5・18犠牲者として認められたにもかかわらず遺体が見つからなかった人は、73人に達する。5・18記念財団は2020年、犠牲者たちが光州刑務所で秘密裏に埋められたという疑惑を解くために発掘調査を行ったが、遺体は見つけられなかった。当時、ホ・ヨンシク調査委課長は「海に遺体を投棄したという『水葬説』が一部で持ち上がったが、事実ではないことが確認された」と述べた。

【写真】2020年に光州刑務所で行われた遺体探しの現場=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 残っているのは火葬疑惑だ。これと関連して5・18調査委は「全羅北道全州市(チョンジュシ)の昇華園で戒厳軍2人を火葬し、光州の日谷火葬場では5月28日に家族の同意で犠牲者3人を火葬した事実はあるが、多くの遺体を密かに火葬したという疑惑は明らかになっていない」と明らかにした。ところが、日谷火葬場で火葬した民間人犠牲者のキム・ミョンスク、オ・セヒョン、ハム・グァンスの3人の死亡場所は、池元洞や光州刑務所とは何の関係もない。2カ所で目撃された多くの遺体は、一体どこに行ったのだろうか。
 チョン・スマン元5・18遺族会長は「1980年の光州市の埋葬関係の記録で『火葬』という言葉が出たことは、『遺体火葬説』を暴く手がかりになりうる。当時の市立墓地の委託管理業者である無等墓園と葬儀社協会の関係者などを対象に綿密に調査する必要がある」と語った。

チョン・デハ、キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-05-17 23:54
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