はちきんizyのアメリカ丼

料理にすると丼カップル
はちきんイジーとアメリカンいごっそうバッキーの
山あり谷ありの国際結婚ブログです。

父の俳句と精神病院の歴史と

2017-04-28 | 日本の家族



この数週間、イリノイの家に帰る度に

物の処分をしてきたが

先週末は残す物

パッキングする事にした。




はじめは

勿論、、、アルバム、、。




ページを開いてしまうと

それらひとつひとつに想いを寄せ初め

    なかなか先に進まない、、、。


そんな私と裏腹に

バッキーはガレージの中を

猛スピードで 片付けてしまった。

   ご苦労さま! 


      




アルバムとアルバムの間に

その昔父が病院で

編集や印刷を手がけた

俳誌 "千鳥 " があった。





この俳誌には

何度か目を通した事はあったが

今回 初めて

 この俳誌の生みの親である

   町田昌直(まさなお)氏の事や

 父が入院していた”精華園”を設立した 

 昌直氏の父親である 

  町田旦龍(たんりゅう)氏の事などを

  ネットで検索中 知り

 感慨深い思いになった。



高知の人なら知っているだろうが

精神科もあった町田病院は

アーケード商店街 ”帯屋町” のど真ん中に

  昭和40年代後半まで開業されていた。


父はその商店街の病院に移りたく

  よく祖母を困らせていた事だ。






私の手にある ”千鳥”には

  父の俳句も載せられている。

 
それらを読み返し

  昔のその日に想いがかえった。





    

" 海近き 療舎の窓の 芽木の雨 "



父が15年間入院していた精神病院は

山と海に囲まれた

静かな場所に位置し

歩いて訪問に行くのは

年老いた祖母には きつかったが

自然に囲まれたその地で

精神が病んだ患者さんたちが

心癒されるのでは、、と

そんな想いで建てられたのだろう、、


 昭和の初めに開設された

    歴史古い精神病院だ。







" 無口なる 母なき吾娘に 桜散る "



病院の敷地に立った

 桜の木々の前には

  海が広がっていたように記憶する。


 父と3人でお弁当を広げ

  花見をしたその日が

   ぼんやりと 思い出され


 父の目に残ったその日の情景が

   心に広がる、、、。


  
  
青年期に発病した父は

 治療を受けはしたが

私が生まれた35歳の時も

 心が病んでいた、、、。


そんな父しか 知らない私は

父と どう接していいのか

  分からなかった、、、と言うより


どう接していいか、、、など

 考えた事もなかった、、。

接したくなかった、、からではなく

接する  という事を 

  欲する事を知らなかった、、と言うのが


 一番 近い表現、、、だ。




父の俳句に 

 ”母なき吾娘” と言う表現は

  良く使われる。


母を想い続けた 父でもあった。


    (写真はネットより拝借)




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12 Comments

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Unknown (タカコ)
2017-04-28 08:43:27
父と別れた後、母は祖母に私たちを預けて仕事に出ました。
たまに帰省する母に弟は近寄りませんでした。母もしいて近づこうとする人ではなかったし、
少し大きくなって、私と一緒に駅まで迎えに行くのは嬉しそうでしたが
さて、母だと理解してたでしょうが、、今、あの時の弟の気持ちを考えてみた私です。
幼少期からの母との空白は、やはり埋めがたいものです。ずっと一緒の親子でも同じかしらと考えたり、、
つまらない独白でした。^^;
今日は一日中 日本のドラマを観てしまいました (タカコさんへ)
2017-04-28 10:11:43
お話ありがとうございました。

あの頃の日本、、、うーーん
今もそうでしょうが
シングルマザーが子を育てるのは大変だったことと想像します。

私の母も家を出てから 一人でさぞ 苦労をした事でしょう


私が苦手なのは 上手く愛情というエネルギーを他者と交わせる事と思います。
受け取るのも また 返すのも、、。

主人から 私は冷たい人間だ  とよく言われるのも
それ故と思う事ですが
それゆえに強い部分もあり、、、。
私という人間が出来てるんですよね  ^0^

娘たち、、、特に上の娘に 上手く愛情を注げなかった、、ことから タカコさんが言われる弟さんとお母さまとの間の空白、、のようなものを持ちながらの親子関係が続いている、、、でしょうか、、。
Unknown (小父さん)
2017-04-28 18:08:21
こんにちは

アルバムが後になって一番嵩張ると聞きますね。

>猛スピードで 片付けてしまった。

はっはっは、バッキーさんは何でもてきぱきとやられますね。
やっぱり、私と家内(=バッキーさん)の関係とよく似ています。

>俳誌 "千鳥 " があった。

これは貴重な宝物的存在ですね。

町田病院の歩み、拝見しました。
二代目院長の町田昌直氏、私の父と同年です!
初代院長町田旦龍氏も偉い方なんですね。

ほんと、ネットの力って大きいです。

あら、お父上はその病院には入れなかったんですか。

>" 海近き 療舎の窓の 芽木の雨 "

芽吹いた木、芽木とは季語なんですね。
いやー、そんな情景が思い浮かびます。

私は才能が全くないに等しいですが、オー・ヘンリーの短編小説「The Last Leaf」も病院の窓からのお話でしたね。
療養する人にとっての世の中との関わりに窓が欠かせないことを再認識します。

" 無口なる 母なき吾娘に 桜散る "

胸が熱くなります。
お父上は、ちゃんとメッセージ残されていたんですね。
結果的であったとしても・・・。

>接するという事を欲する事を知らなかった、、と言うのが

そういうことになるんですね。

>母を想い続けた 父でもあった。

家の売却によって、イジーさんはタイムカプセルの機会を得ることができましたね。

"千鳥 "との再会は素敵な瞬間だったと思います。
吾娘 (chichi)
2017-04-28 19:12:13
吾娘に桜散る
Izyさんの上に単純に桜が散ったのか
それとも大学の不合格通知??(失礼m(__)m)なんて考えちゃいました

おうちのお引っ越し準備も順調に進んでいるようですね
けいちゃんカメ君も健やかに成長しているようでうれしいです
もうすぐ、夏休みですね
今年の夏休みは何かプランはありますか?

シミ
Iherbで、650円くらいの評判のいいシミ取りクリームを買いました
薄くなりましたが、なくなりはしませんでした
まあ。。。半世紀も生きていると顔もにぎやかになりますね
今週はアイオワで過ごします午後 バッキーが来るので 部屋を片付けなくては、、、 (コメントありがとうございました)
2017-04-28 22:33:56
*小父さんへ

猛スピードで片づけながらも

”捨てる”事を選択するのに
心がひけることもあったようです

笑いながら話していました。

>二代目院長の町田昌直氏、私の父と同年です!

そうなんですか

初代の町田先生は曾祖父と似た年齢かと 想像した事です
家に曾祖父が医師をしていた頃の高知の医師会の写真があるので
町田先生がいないか 見てみたいです。


>あら、お父上はその病院には入れなかったんですか。

、、、と言うか

自然に囲まれた精華園 のほうが子供の私も心に良いように感じられました

町田病院は商店街のど真ん中にあるんです


療養する人にとっての世の中との関わりに窓が欠かせないことを再認識します。


ほんとですね

しみじみ します。

>"千鳥 "との再会は素敵な瞬間だったと思います。


今まで 隅々まで読んでいなかったので
今回 ここにかかわった人達を知ることもでき
想いが深まることでした
この時の院長先生の随筆もありました。

心を持った精神科医とかんじましたね


*chichiさんへ

>それとも大学の不合格通知??(

そういえば 桜散る  は不合格の意味がありましたね

中学落ちました  苦笑

>今年の夏休みは何かプランはありますか?

6月にコロラド家族が来ます

あと7月に去年いったキャンプング場にあるキャビンを予約し 今回はけいちゃんたちも連れ行く予定です

また 陽にあたります   笑

シミ、、、私の濃いシミは顔のサイドに並んでおり
薄目のシミは老眼で見えず、、、
さほど気に
ならないんですが
専門の方は気になるんでしょうね

サンダメージがありますね  と言った時の彼女の言葉が深いため息と一緒に出ていました

私が気にするのは たるみ  でしょうか

人に嫌な思いをさせている 反応を見ると
 気になりますが、、

Unknown (小父さん)
2017-04-28 23:34:31
町田病院の歩み
    ↓
http://www.machida-hp.com/history.html

このページはご覧になりましたか?
Unknown (Leah)
2017-04-29 00:35:15
御病気であったお父様も大変だったと思いますが、あの時代の日本で、そういう状況におられたいじーさんやご家族の方も大変だったのだろうと思うと心が痛みます。

うちの旦那もそうですが、親に甘える、と言うごく普通の子供心を持たないで育った人もいるのだなと、私の知らない現実の世界を知ると共に、私はなんて幸せな子供時代を過ごしてきたのだろうとより一層感謝の念も覚えます。

でも今、いじーさんがケイちゃんやカメ君と一緒に過ごされる姿を見て、微笑ましく思います。
スパ日和の今日です、、行きませんが ^0^ (コメントありがとうございました)
2017-04-29 00:55:41
*小父さんへ

ありがとうございます

これを見ても 2代目と2歳違いの祖母の父親と初代の町田先生が似た年代である事は確かですよね

医師会の写真は額に入れ 飾ってるんですが
バッキーに言って もってきてもらおおうかな
急に 気になってきました  笑


*Leahさんへ

甘え方が分からない  って 理解できます
私は愛情を与えるのも下手で
付き合ってきた人たちはそんな事から満たされなかった部分はあったと感じることです

バッキーはそれを感じていますしね

>大変だったのだろうと思うと心が痛みます。

うーーん  

子供時代の私はそんなに大変ではなかったと思うんです

持っていなかったものを知らなかった、、からか

でも祖母は 
裕福な暮らしから 突然貧しい暮らしにはいったり
長男を戦争でなくしたり
3男はその頃まだよく理解されていなかった精神病になったり、、、

それは大変だったでしょうね

その上 電車にはねられ 亡くなりました。
今度生まれてくるときは
全く違った人生を送って欲しいです。

Unknown (鏡川)
2017-04-29 05:51:41
こんにちは。
私の世代では町田病院と言えば旭町の眼科ですが、むかし帯屋町で開業していたというのは聞いたことがあります。

女医の照代先生も一世を風靡していましたよ。眼科といえば家族でお世話になっていました。照代先生の妹さんも女医さんで、これまた医師のご主人と大きな病院組織を経営されています。そのご夫婦が実家のご近所さんです。

またまた、数奇なご縁ですね!
そうなんですか (鏡川さんへ)
2017-04-29 07:46:50
町田病院は眼科で始まり
今は眼科のみになっているようですが
私の父が町田病院に移りたいと願っていた事から
帯屋町2丁目にあるこの病院が記憶に残っています

調べると ダイエーになったようですが
そのダイエーももうここにはないそうです。

帯屋町、、、昔に比べ 静かになりましたよね、、、と言っても 最後に帰国したのは15年ほど前ですが、、。

それでも 昔からあった 前田と言う名の靴やさんを見つけた時は感動、、でした。


町田照代先生が4代目になられるんですね

私の祖母は目が悪く眼科医にお世話になりましたが
確か 大橋通を鏡川のほうにいったさきにあった眼科医でした、、たで 始まったような、、??

近くに教会もありクリスチャンだった
その院長先生の奥様に高校時代にお世話になった事です

追手から丸の内のほう?に徒歩で10分先にある矯風会の寮に1年ほどお世話になった事があります。

年とる度に
昔住んでいた町が懐かしく 思われることです。

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