楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

加藤清正の生誕地「妙行寺」

2015年12月03日 07時25分20秒 | ひとり歩き旅
秀吉の産湯の井戸がある常泉寺の南に加藤清正公の生誕地がある。
「正悦山 妙行寺」と言う。

(加藤清正生誕の地)

(生誕地がある妙行寺)


正悦山 妙行寺は、
「天文年間(1535)中興日勢上人、正悦山妙行寺と改称再建。
慶長十五年(1535)清正公名古屋城築城のみぎり、
普請小屋をもらい受けてご先祖・ご両親の菩提を弔うために、
堂宇をここ生誕の地に建立す。
境内には、清正公銅像、宝物殿、
鐘楼がある。(後略)」とある。

名古屋市教育委員会によると、
(清正は幼名を虎之助と言い、
永禄五年(1562)この地に生まれたと言われる。
天正(1573~)の初め秀吉に仕え、数々の武功を立てた。
特に賤ヶ岳七本槍は有名である。
のちに肥後国(熊本県)五十四万石の領主になった。)

門前には、「南無妙法蓮華経 清正公誕生地」の石碑がある。
門をくぐって左手に、清正公大霊縁の扁額があるお堂があり、
その奥に「正悦山」の扁額がある本堂がある。

(「南無妙法蓮華経 清正公誕生地」の石碑)

(お堂)

(清正公大霊縁の扁額)

(脇から見たお堂)

(お堂の脇の庭園にある「清正公誕生の地」の石碑)

(お堂の扉にある清正の家紋)


「清正公誕生の地」の石碑が建っている場所は小山になっていて、
ボクが子供の頃は、かくれんぼなどに欠かせない場所であった。
このお堂の右隣が本堂である。

(本堂の「正悦山」の扁額)

(本堂)


子供の頃、悪ガキであったボクは日曜日の度に、
少しは悪さが減るものとこの日曜学級に入れられた。
この本堂でお坊さんの説教をきかされ、
訳も解らず法華経を大声で読まされた。

御経などはもう忘れてしまったが、最初の出だしの一行だけは、
今でも覚えている。
これでボクの悪行は収まるどころか、
寺内の宝物殿に入って清正がかぶったと言われる、
長い兜をかぶって見たり、鎌が付いた槍など振り回して、
さんざん叱られた記憶である。

一方で、この寺には沢山の蔵書があり、ギリシャ神話のホメロスや、オデッセイなど、
やさしく表現された小泉八雲の「耳なし法一」、ローマ神話など、
童話風に書かれた芥川龍之介の「蜘蛛の糸」など、
夏休みに何日も何日も、読書に明け暮れた一時期もある。
ボクの小学校の知識は意外にもこのお寺から得たものが多いと思える。
小学校2年生の頃であった。

こんなことが出来たのも、
この妙行寺の家族にボクと同年代の悪童が居たからで、
その悪童のお兄ちゃんは、東京の大学に通っていて、
今から思えば、戦時中の栄養事情から結核に侵されて、
東京から帰りそのまま離れに隔離され寝ついていた。

トイレにも起きることも出来ず、ボクの友人にゴムホースを持って来いと、
怒鳴っているのが聞こえたことがあった。
お兄ちゃんの大学の角帽をかぶってふざけて叱られたこともあった。

(清正公の銅像)


話が脱線してしまった。
宝物殿に清正の兜や槍があったのを今でも思い出せる。
門を入って正面には清正公の銅像があり、
山門の右手には鐘楼がある。
子供の頃は鐘を突かせて貰ったことがある。
戦後は除夜の鐘を突いたこともある。

(鐘楼)

(石の灯篭)


その鐘楼の手前には、大きな石灯篭が二基ある。
どんな時に火を入れたのか知らないが、
雨上がりの地面がまだぬかるんでいる時に、
鬼ごっこをして足を滑らし、この石灯篭の台座に頭をぶつけ、
血を流しながら家に帰り、したたる血に驚いた母に、
外科医まで連れられて行った記憶が残る。
今でも頭には傷跡の3センチほどの三日月の禿げが残っている。

その時の傷だ。





コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Potora!  NTTグループ運営!