Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

分断~「国靖し」とは・・・

2005-08-09 23:33:00 | インポート
ミーSAN今晩は。日頃のご声援感謝です。
今夏、当日記は大東亜戦争こと太平洋戦争の終結60周年に因み、表題の内容にて進めております。
今日は2度目の原爆忌。1945=昭和20年の同日11am頃、歴史上2発目の原子爆弾が投下され、数万もの犠牲者を生じた長崎の都市機能は一瞬死に絶えたのでした。
長崎と言えば我が父の故郷。父は救援活動に参加して原爆投下後僅か数日で現地入りしています。被爆した可能性は捨てきれず、私はひょっとすると被爆二世の可能性が僅かですがあるのかも、と思ったりしています。
話は変わります。この同じ日、当時の大日本帝国が武力進出していた旧満州国にソビエト連邦が武力攻撃して来ます。
当時この地に居住していた日本の民間人は約100万、この侵攻で計10万を超える方々が落命したやに聞いております。又戦後、多くの軍関係者や民間人が捕虜として極寒のシベリアへ送られて1957=昭和32年頃まで抑留され、餓えと寒さで数万人以上が犠牲となりました。
1932=昭和7年の満州国建国後、日本からは「満蒙開拓団」と称して多くの民間人が入植したと言われています。想像以上に厳しい生活条件を耐え忍び、何とか暮らしも軌道に乗った所へ戦争の影が忍び寄ります。
当時満州国の防衛に当っていたのは所謂「関東軍」と呼ばれる旧陸軍の大部隊でした。この関東軍が1939=昭和14年夏、モンゴルに近いソビエト連邦国境のノモンハンと呼ばれる地点にて、同連邦軍と武力衝突を起こします。犠牲約18000と言われる多くの人的被害を出し、大苦戦を強いられた関東軍は同連邦と敵対するのは賢明でないと判断、以後東南アジアへの武力進出に力点を置き、1941=昭和16年春には日ソ中立条約を締結して多くの部隊を南方に移動、民間人男性多数が軍に編入され、満州国の防衛に組み入れられて行きます。この年の暮れ旧海軍は航空戦力によって合衆国の真珠湾を空爆、大東亜戦争こと太平洋戦争の戦端が開かれる事になります。
初め日本優勢だった戦況も次第に不利に傾き、満州の民間人の防衛負担も更に重くなって行った様です。1945=昭和20年初めに交わされた、連合国、特に米ソ間の密約により日ソ中立条約の破棄とソ連邦の対日参戦の方針が確認され、第2次世界大戦のドイツ敗北によるヨーロッパ戦線終結後、同年5月より同連邦軍は順次、満州国周辺に軍事力を集めます。
そして2発目の原爆使用の正に当日、ソ連邦軍は満州と樺太サハリンへ侵攻を開始、居住していた日本人、そして韓国人等の多くが犠牲になり、あるいは家族と生き別れの憂き目となったのです。中国に残された残留孤児は判っているだけで数千名以上。更に遺憾な事に同連邦はサハリンは元より日本固有の領土である筈の千島列島も全て占領の上、今日に至っているのは貴女もご存知の通りです。
実は北海道も終戦処理の連合国分割統治案ではソ連邦の管理下に置かれる構想があった様です。もし実施されておれば、あるいは今日こうして貴女とネット交信する事も叶わなかった可能性があるのですね。
この前の日曜、我が故郷の隣町、豊橋へ出かける機会がありました。帰途、駅のプラット・フォームよりぼんやりと東京の方へ延びる東海道線の線路を眺めていて、ふっとこうした想いが過ぎりました。世が世なら、あるいはこの線路のはるか行く手に、越える事のできない鋼鉄の壁が立ちはだかっていたかも知れません。そうした推移を想う時、貴女とある意味1つ屋根の下の、統一国家に居合わせられた幸運を少しは感じられるのです。*(日本)*
コメント
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