Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

被爆~「国靖し」とは・・・

2005-08-06 23:48:00 | インポート
らむSAN今晩は。昨年は当特集日記へのご理解ご協力有難うございました。ご無理を申しますが、今年も宜しくお願い致します。
今日は我々にとり忘れてはならない日ですよね。まずは下記の文言をご一読下さる様。
「おお、恐ろしい。恐ろしい事だ!」
「何と言う野蛮な、残酷な振る舞い。この爆弾を、罪もない大勢の人々の頭上に落下させるとは!」ヨーロッパから米合衆国へ移った世界的な原子物理学の権威、A・アインシュタイン博士の言葉です。
1939=昭和14年にヨーロッパにて勃発した第2次世界大戦。A・ヒトラー率いるナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党)は性急な対外拡張政策を取り、軍備拡大へと突っ走ります。その様な中、同国の原子爆弾開発の情報は後を絶たず、アインシュタイン博士も合衆国上部に対し、当初は「原子爆弾開発を急ぐべき」との進言をしていた様です。
ただ、同博士の構想でも、新型爆弾は敵軍事施設の破壊だけを目的に開発され、無差別攻撃は想定していなかったと思われます。
1945=昭和20年、既に旧ソビエト連邦との覇権争いから来る東西冷戦に入っていた合衆国は、同大戦、そして日本の旧帝国との大東亜戦争こと太平洋戦争の終結を急いでいました。その様な中で日本の主要都市を標的に、原子爆弾を使った作戦が浮上して来たのです。同博士と一部の当局者は反対しましたが、作戦阻止には至りませんでした。
当初は新潟、北九州小倉なども候補に挙がりましたが当日の天候調査の結果、広島が標的にされた模様。合衆国空軍の1爆撃機が8/6の朝広島上空に飛来、大きな反撃に遭遇する事もなく8:15am、広島上空に爆弾を投下、43秒後に上空約600mで炸裂、約10秒で広島中心部は焦土と化し、この瞬間だけで10万を優に超える人命が失われたのでした。
熱線と放射能から来る犠牲も大きく、地獄絵図そのものであったろう事は貴女もご存知だと思います。
井伏鱒二さんの小説「黒い雨」の文中に被爆直後の模様が記されています。
原爆のキノコ雲を当時の方々は「ムクリコクリの雲」と呼び「もういなくなってくれ!」と叫ぶ悲痛な様を今も覚えています。又水を求めて彷徨い続ける方も多かった様です。
当時半世紀は再生不能と言われた広島の街。しかしながら僅か数日で復興への動きは始まっていたのですね。本当に、これだけの試練に打ちのめされても直ちに立ち上がろうとする人間の強い生命力には深い感銘を覚えます。だからこそ今の広島の素晴らしい街並みはあるんですね。
所で最近、被爆体験が風化して来ているのは事実ですね。遺族他関係各位の高齢化が主因。先頃起きた、原爆慰霊碑損傷事件もその絡みからでしょう。
又我国は歴史の内、現代史の教育を等閑にして来たツケがここへ来て回っているのかも知れません。
原爆忌も後少し、日付が変わるまで心静かに手を合わせる事と致します。*(日本)*

コメント
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