帝が天鼓少年から奪った鼓だが、
宮中の誰が打っても、何故か鳴らない
ここが『天鼓』を創った人、昔は世阿弥と言われていましたが、
現在は不明とされている戯曲家の、実は隠れた主張ではないでしょうか?
「あ~、ここが戯曲家でもあり、芸能者でもある役者の気持ちなんだな~
権力者への抵抗・・」と感じながら、今稽古しています。
『天鼓』のお話は・・・
帝は、どうしても鼓を鳴らしたい、その妙音が聞きたい!
と、まるで、だだっ子のように我が儘言い、エゴぶりを発揮しますが、
そこはワキの言葉で説明されるので、まずその状況をご覧になるお客様方が想像して下さい、
想像で舞台を動かして下さい。
そこで帝は
「天鼓少年の父・王伯(おうはく)ならば、もしかすると鳴らす秘訣を知っているかもしれない、そうに決まっている」
と、父・王伯のところへ勅使を出します、その勅使は親友の森 常好さんが演じてくれます。
さて、いろいろありまして・・・・
いよいよ、お父さんが鼓を打つことになりまして・・・・・
打つと、不思議と鳴るんですね
お父さん、ビックリ仰天なんですが、
問題はここからです。
この後の詞章がお父さんの気持ちは謡われず帝のことばかりで、
最後にお父さん「有り難き」です。
「打てば、不思議やその声の心耳を澄ます声出る、
げにも親子のしるし声、君(帝)も哀れと思しめして、
龍眼に御涙を浮かめ給ふぞ、有り難き」
ここの型付け(シテの動きを書いた伝書)には
撥にて打ち、撥下に置き、台より降り
りょうがん、にと正面を少し開き見、シサリ、シオリ、安座
と書かれています。
替えとして、シオリ、両手にても吉、とあります。
つまり我が子を殺した帝だが、
「鳴らない鼓がなったのは親子の情、恩愛なんだな~」
と感心して泣いて下さった、
「あ~~もったいない」
ともらい泣きする、と解釈されます・・・・・
ここが、今日のポイント
この型には微妙なシテの心意が託されていると思うのです、
そこをどのように想像するかは、能を観る方のご自由、
そこが能の面白さなのです。
その面白さを判って頂きたく、こんな長文となりましたが、
ポイントはここなのです。
ご来場の、いや、いつでも能をご覧になるときは
能役者を、いや、能そのものを、そのまま表面だけ観ていてはつまらないのです。
表面の能役者を信用してはいけませんと、
奥の奥、裏の裏を想像して下さい、それが能を観る本当の面白さなのです。
宮中の誰が打っても、何故か鳴らない
ここが『天鼓』を創った人、昔は世阿弥と言われていましたが、
現在は不明とされている戯曲家の、実は隠れた主張ではないでしょうか?
「あ~、ここが戯曲家でもあり、芸能者でもある役者の気持ちなんだな~
権力者への抵抗・・」と感じながら、今稽古しています。
『天鼓』のお話は・・・
帝は、どうしても鼓を鳴らしたい、その妙音が聞きたい!
と、まるで、だだっ子のように我が儘言い、エゴぶりを発揮しますが、
そこはワキの言葉で説明されるので、まずその状況をご覧になるお客様方が想像して下さい、
想像で舞台を動かして下さい。
そこで帝は
「天鼓少年の父・王伯(おうはく)ならば、もしかすると鳴らす秘訣を知っているかもしれない、そうに決まっている」
と、父・王伯のところへ勅使を出します、その勅使は親友の森 常好さんが演じてくれます。
さて、いろいろありまして・・・・
いよいよ、お父さんが鼓を打つことになりまして・・・・・
打つと、不思議と鳴るんですね
お父さん、ビックリ仰天なんですが、
問題はここからです。
この後の詞章がお父さんの気持ちは謡われず帝のことばかりで、
最後にお父さん「有り難き」です。
「打てば、不思議やその声の心耳を澄ます声出る、
げにも親子のしるし声、君(帝)も哀れと思しめして、
龍眼に御涙を浮かめ給ふぞ、有り難き」
ここの型付け(シテの動きを書いた伝書)には
撥にて打ち、撥下に置き、台より降り
りょうがん、にと正面を少し開き見、シサリ、シオリ、安座
と書かれています。
替えとして、シオリ、両手にても吉、とあります。
つまり我が子を殺した帝だが、
「鳴らない鼓がなったのは親子の情、恩愛なんだな~」
と感心して泣いて下さった、
「あ~~もったいない」
ともらい泣きする、と解釈されます・・・・・
ここが、今日のポイント
この型には微妙なシテの心意が託されていると思うのです、
そこをどのように想像するかは、能を観る方のご自由、
そこが能の面白さなのです。
その面白さを判って頂きたく、こんな長文となりましたが、
ポイントはここなのです。
ご来場の、いや、いつでも能をご覧になるときは
能役者を、いや、能そのものを、そのまま表面だけ観ていてはつまらないのです。
表面の能役者を信用してはいけませんと、
奥の奥、裏の裏を想像して下さい、それが能を観る本当の面白さなのです。