電脳筆写『 心超臨界 』

人間にとって世の中で最もたやすいことは自らを騙すこと
( ベンジャミン・フランクリン )

ハワーリジュ派は聖戦への参加の賛否を公共善の判断基準とする――山内昌之さん

2008-02-14 | 04-歴史・文化・社会
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[21世紀と文明――公共善と国際秩序]東京大学教授・山内昌之
  [1] 第二の百年戦争
  [2] 成長と暴力の世紀
  [3] 公共秩序と「徳」
  [4] 道理と「アドル」
  [5] 公共善への挑戦
  [6] 世論との対話
  [7] 密入国と年金問題
  [8] 「文明の連合」へ


「公共善と国際秩序」[5] 公共善への挑戦
【「やさしい経済学」08.02.13日経新聞(朝刊)】

「テロと暴力以外に、人類を向上させる手段はないようですね」とはコンラッドの小説『密告者』に登場するヨーロッパ人の言葉である。イスラムをテロの宗教ととらえる言説は、「文明の衝突」の単純な読みこみにすぎない。とはいえ、21世紀の秩序形成に際して、ムスリム市民に神の啓示をまるごと公共善の指標として実践させようとするイスラム原理主義の挑戦は無視できない。

2001年の9・11テロのように、無差別・自爆テロを公と私をつなぐ行為として正当化する現代イスラムの亜種が絶えないのも事実なのである。

7世紀の初期イスラムの時代に、信仰の純化を求めて最高指導者さえ殺害したハワーリジュ派の主張は、イスラムとテロとの関係を考える手がかりとなる。

かれらは自分なりに公共善として確信したアドル(公正)や正義を共同体内部で実現し、それを拡大発展させる使命に熱狂した。一つでも汚点があれば全体を誤りと見る潔癖さに加え、不公正や不正義と見れば殺害(テロ)で糾す独善的な論理は、ある事象を真理として理解するなら、すぐ実践すべきだという純粋動機主義なのだ。政教一致で公私を重ねがちのイスラムの内部でさえ、ハワーリジュ派の議論は一般信徒に実行可能な救済方法や調和的解釈を斥(しりぞ)ける急進的なものだった。信仰と行為を厳格に同一視する立場は、現世の利害関心や個別善に執着する多数の信者に背を向けていた。

これは「知行合一」という純粋動機主義を重視した日本陽明学にも似ている。極端さはイスラムだけに限られないのだ。江戸後期の大塩平八郎は、自ら善と確信した反幕挙兵の焼き打ちで住民の家や財産を奪う悲劇を生んだ点に矛盾を感じなかった。貧民層の窮状を見た大塩にとって、「義を見てせざるは勇無きなり」(孔子)と世直しのテロ決行に突き進んだ点と、放火の犠牲者増大との間にギャップを感じないのは陽明学で公と私を一体化させていたからだ(小島毅『近代日本の陽明学』)。

ハワーリジュ派は聖戦への参加の賛否を公共善の判断基準として重視していた。しかし罪を犯した者の信仰は、最後の審判で神が裁定する以上、人びとは健全な営みを日常続ければよいというムルジア派の立場がハワーリジュ派にとって代わる。イスラムに限らずどの地域でも、公から私を切り離す現状追認の力が強いのは、人間の本性として当然なのかもしれない。

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