電脳筆写『 心超臨界 』

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( ゲーテ )

日本史 鎌倉編 《 日本的中華思想に敗れた鎌倉幕府――渡部昇一 》

2024-05-19 | 04-歴史・文化・社会
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シナには中華思想というものがある。自分たちの国こそ世界の中心、つまり中国であって、その高い文化が周囲の蛮族を教化するという考え方だ。歴史的に見ると、シナ人の中華思想には相当根拠があり、シナ本部を武力征服した近隣の民族も、いつの間にかシナ文化に同化されてしまうのであった。もっと小規模ではあるが、日本では京都がそれと似た同化力があったようである。武家であった平家がたちまち公家化したこと、つまり京都化したことがその滅亡を早めたと考えた頼朝(よりとも)は、鎌倉に政治の中心を置いて京都化に抵抗しようとしたのである。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p82 )
2章 南北朝――正統とは何か
=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(2) 後醍醐(ごだいご)天皇――正統絶対主義者の功罪

◆日本的中華思想に敗(やぶ)れた鎌倉幕府

シナには中華思想というものがある。自分たちの国こそ世界の中心、つまり中国であって、その高い文化が周囲の蛮族を教化するという考え方だ。東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)・南蛮(なんばん)と周囲の国のことを呼んでいるが、いずれもケモノかムシを意味する字であり、ひどく見下げた呼び方である。現代風に言えば、甚(はなは)だしい差別語ということになろう。しかし歴史的に見ると、シナ人の中華思想には相当根拠があり、シナ本部を武力征服した近隣の民族も、いつの間にかシナ文化に同化されてしまうのであった。

もっと小規模ではあるが、日本では京都がそれと似た同化力があったようである。武家であった平家がたちまち公家化したこと、つまり京都化したことがその滅亡を早めたと考えた頼朝(よりとも)は、鎌倉に政治の中心を置いて京都化に抵抗しようとしたのであるが、実朝(さねとも)以降の鎌倉将軍はすっかり京都化した。これは実朝以後の将軍が、公卿や親王であったから当然であったとも言える。

しかし兵馬(へいば)の実権を持っていた北条氏は、もっとストイック(禁欲的)に京都化に抵抗していたようである。京都育ちの将軍が鎌倉にやってきても、その文化生活は将軍の身辺だけに限り、北条の執権たちは武断に徹し、素朴に、また剛健に生きていた。

執権時頼(ときより)の母である松下禅尼(まつしたぜんに)が、障子(しょうじ)の切り貼りをして倹約の大切なことを示していたということは、戦前までの子どもたちなら誰でも知っていた有名な話であるが、執権は文字どおり天下のデクタツウラ(独裁者)でありながら、官位は従四位下より上には進まないようにしていた。これは源氏が早く亡(ほろ)びたのは、急に官位が上がったからだと見ていたからであろう。

事実、頼朝に執権を取られた京都の公家たちは「官打(かんうち)」と称して、急に位を上げてやることによって成上(なりあが)り者を倒しうるということを信じていて、源氏の将軍の官位をどんどん上げてやったのであった。そして実際に源氏の血統は、この官打によって簡単に潰(つぶ)されたのである。

北条氏が従四位下より進まなかったのは、いかに質実ということに心を遣(つか)っていたかを示すものである。現代だって勲四等という位階はそんなに高いものでない。

このようなストイシズムにも拘(かか)わらず、いつの間にか京都化していくというのが日本の歴史の型である。

たとえば、武力で日本を支配していた徳川幕府が、どうして幕末ごろになると、あれほど朝廷に遠慮しなければならなくなったのか、その理由を外人に説明することは、かなりむずかしい。幕末になっても京都の宮廷に武力は少しもなかったのだから。

その説明としては、幕府そのものが、いつのまにか文化的に京都化していたということが挙げられよう。

北条氏も、高時(たかとき)のころになると京都風の娯楽がはやり、食物も変わり、礼儀作法もその影響を受けた。鎌倉幕府を建てた頼朝には妾(めかけ)がひとりもいなかったのに反し、北条末期になると執権に妾が37人いて、しかもその各々に領地を与えるに至った。

領地こそは武士にとっては一所懸命の地であるべきものなのに、いまや美人の一笑を以(もっ)て手に入れることができるようになったのである。また鎌倉あたりに集まった田楽(でんがく)の俳優の数は、全部の流派を合わせると2000人を超えたという。多少誇張はあったにせよ、ともかく大変な数であるにちがいない。また北条高時の闘犬好きは特に有名で、数千匹の闘犬が鎌倉にいて、三日に一度くらいの割合で闘犬大会をやっていたと伝えられる。
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