ひょうきちの疑問

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『法の不遡及』の大原則が壊れかけている 3

2009-07-22 17:34:25 | 理念

「『法の不遡及』の大原則が壊れかけている 2」
に対して、間違い箇所の指摘をいただいた。
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私の間違いは、「公訴時効」の規定は「刑事訴訟法」に定められているが、
そのことを「刑の時効」の規定である「刑法」の規定に求めていたことである。

そのことはお詫びし訂正する。
したがって前回の『『法の不遡及』の大原則が壊れかけている 2』
は次のように書き換えられるべきである。



【書き換え開始】

批判をいただいた方の趣旨は、
『重要なのは、犯罪が行われた時点で、その行為が「犯罪」と規定されていたかという点にある。』
『予め「殺人禁止」という規範が提示されている以上は、「人を殺せば処罰され、人を殺さなければ(殺人罪では)処罰されない」ことは明らかなので、その規範に反して人を殺した者が処罰されても、何ら不当なことはないだろう。』

『人を殺せば処罰される』
そんな当たり前のことはを私は問題にしているのではないのだが。

殺人罪とその刑罰は、以下の2つの条項によって定められている。
1 刑法199条
 『人を殺した者は、死刑、または無期もしくは5年以上の有期懲役に処する。』
(殺人罪の法定刑は、これは5年前に3年から5年に強化されている)
2 刑事訴訟法第250条(公訴時効の期間)
 『時効は、次に掲げる期間を経過することによつて完成する。』
 ① 死刑にあたる罪については25年
 ② 無期の懲役又は禁錮にあたる罪については15年
 ③ 長期15年以上の懲役又は禁錮にあたる罪については10年
 ④ 長期15年未満の懲役又は禁錮にあたる罪については7年
 ⑤ 長期10年未満の懲役若しくは禁錮又は罰金にあたる罪については5年
 ⑥ 拘留又は科料にあたる罪については1年

法の不遡及は罪刑法定主義から導かれるものである。
罪刑法定主義というのは
『法律がなければ、犯罪もなく、刑罰もあり得ない』
ということである。言いかえれば、

『どういうことをすれば犯罪となり、また、どの程度の罰を科せられるのかということを法令であらかじめ定めておかなければ、人を罰することは許されない』
ということである。
(法律用語事典 自由国民社 罪刑法定主義の項より)

つまり、犯罪の規定だけでは罪刑法定主義とは言えないのである。
犯罪とそれに対する刑罰の規定があってはじめて罪刑法定主義となる。

『重要なのは、犯罪が行われた時点で、その行為が「犯罪」と規定されていたかという点にある』
と、この方は言われているが、それだけでは不十分なのである。
犯罪に対してどのような刑罰が規定されていたかが重要なのである。
だから罪刑法定主義なのである。

従って、『法の不遡及』はその犯罪に対してだけではなく、その刑罰に対しても及ばなければならない。

そしてその刑罰の重要な要件の一つに『時効』の規定がある。
これは正式な刑法上の規定である。
一つの犯罪は刑法体系全体の規定に照らし合わせて、そのどことも矛盾しないように刑罰を科さねばならない。
殺人罪は、刑法199条『人を殺した者は、死刑、または無期もしくは5年以上の有期懲役に処する。』という条文だけによって刑罰が確定されるのではない。
もう一つの条文、
刑事訴訟法第250条(公訴時効の期間)
 『時効は、次に掲げる期間を経過することによつて完成する。』
 ① 死刑にあたる罪については25年。
   以下5条。
これらすべてとの関係の中で、その整合性をはかったうえで、刑罰は確定されねばならない。

しかもこれは憲法上(39条)も保障されていることである。

前回も言ったとおり、『時効廃止』そのものの当否については、私はコメントしない。
現行法ではこうなっているということを言いたいのである。
現行法下で行われた犯罪は、現行法下で裁かれなければならない。

これが『法の不遡及』の原則である。
その憲法上の大原則が崩れれば大変なことになるということを言いたいのである。

【書き換え終了】





訂正のポイントは『公訴時効』の規定が刑法ではなく、刑事訴訟法上の規定であったということである。

読んでおわかりのように、『控訴時効』の規定が、刑法上の規定であろうと、刑事訴訟法上の規定であろうと、どちらも現行法上にはっきりと明文化されている以上、前回の私の文の趣旨はいささかも変わらない。

『公訴時効』の規定が法律上の規定がないあやふやなものであるならば別だが、それは、ちゃんと刑事訴訟法に明記されている。
刑法と同様、刑事訴訟法もちゃんとした現行法である。
現行法下で行われた犯罪は、現行法下で裁かれなければならない。
そのことは罪刑法定主義の根幹をなす、法律の運用に関する根本的な考え方であると思う。

ところが先方さんの論点は、私の最大の事実誤認は、
『「刑罰」に「時効」まで含める点である』という。

『刑罰』に『時効』は入らない、私にはこのことは信じがたい。
私は『時効』は『刑罰』に入るのが当然だと思っていたのだが、先方さんはそうではないとおっしゃる。
そうおっしゃるのならその根拠は何なのか。それが分からない。

次のような記事があった。




【引用開始】

YAHOO 知恵袋 より
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1221929502

【質問】
刑事訴訟法第250条について質問です。  unbalanced_birdさん

刑事訴訟法第250条によると、公訴時効は、その罪の重さによって
●死刑の罪→25年
●無期懲役→15年
などに分類されていますが、犯人を逮捕もしていないし裁判で量刑も決まっていないのに、どうやって上記の罪の重さを決めるのですか?
それと、よく殺人事件で時効が15年なのはどうしてですか?
同法にもとづくなら25年もそれなりにあるはずですが、私は1度も25年の時効を聞いたことがありません。よろしくお願いします。

【回答】
刑法第9条では、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし没収を付加刑とする。
刑法第10条では主刑の軽重は、前条に規定する順序による。としています。
そして、今の所、公訴時効を迎える殺人事件は、改正後の刑事訴訟法が、施行される前に起きていますので、
改正後の刑事訴訟法が、施行される前に起きた殺人事件の公訴時効は、改正前の刑事訴訟法の規定が適用されて、現在も「15年」のままです。
回答日時:2009/1/4 16:11:42

【引用終り】




この記事によれば、前回の改正(2005年1月1日施行)では『公訴時効』の遡及はなされていない。
なのに、先方さんがおっしゃるような『公訴時効』の遡及が、いつから当然のこととされたのだろうか。

このことに触れずに先方さんはなぜ、私の最大の事実誤認は、
『「刑罰」に「時効」まで含める点である。』などと、今までの慣例と違ったことを当然のように言うのだろうか。

英米法では時効の概念そのものがない。それはキリスト教的一神教の世界では一度犯した罪は未来永劫に消えないという意識が働いているからではなかろうか。
(ただし米英以外のヨーロッパ諸国では時効規定は存在する。)

ところが日本では鎌倉時代から時効の概念は見られる。鎌倉時代末期の永仁の徳政令では、売り渡した土地の取り戻し権を20年以内に限って武士(御家人)たちに認めている。
この『20年以内』ということが日本の時効の概念のルーツである。
土地を買った者に土地を返却させることを刑罰ととらえれば、その年限が10年以内になるか、20年以内になるか、30年以内になるかは死活に関わる大問題である。
刑罰と時効は分かちがたく結びついている。

『時効』(公訴時効)は刑罰の免除規定である。
その免除規定が変更されるということは、実質的に刑罰そのものの軽重が変更されるということである。
しかもその免除規定である『公訴時効』は明文化された法律条文である。
刑事訴訟法第250条に『公訴時効の期間』としてはっきりと明記されている。
その免除規定である『公訴時効』が変更されそして遡及されれば、実質的には刑罰の軽重自体が法の遡及を受けるとことになる。
それは罪刑法定主義がなし崩しに壊されていくことを意味する。

繰り返すが、
殺人罪は、刑法199条
『人を殺した者は、死刑、または無期もしくは5年以上の有期懲役に処する。』
という条文だけによって刑罰が確定されるのではない。
もう一つの条文、刑事訴訟法第250条(公訴時効の期間)
『時効は、次に掲げる期間を経過することによつて完成する。』
 ① 死刑にあたる罪については25年
   以下5条。

これらすべてとの関係の中で、その整合性をはかったうえで、刑罰は確定されねばならない。

実際に今まではそうであった。
『公訴時効』の遡及が行われようとしているのは今回の改訂作業が初めてである。

再三言っているように、私は『時効廃止』そのものの当否について、コメントしているのではない。

法律の運用が従来と違った方法で運用され、
法の不遡及の原則が崩れ、
罪刑法定主義がないがしろにされようとしていることの危険性を言いたいのである。

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