ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

「授業でいえない世界史」 40話 現代 第一次世界大戦前の世界

2019-05-16 16:00:00 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。



【義和団事件】 ではまたアジアに行きます。中国です。中国は日本と戦って負けた。これが日清戦争です。1894年です。このあと中国は虫食い状態になって、イギリスから取られる、フランスから取られる、ドイツから取らえる。アメリカはちょっと出遅れて、みんなで分けましょうと門戸開放を求める。結局ねらっているわけです。
 こういう状態に中国人は腹を立てて、義和団というグループが反乱を起こす。これを義和団事件といいます。1900年ちょうどです。
 時代はここから20世紀です。義和団とは外国人出て行けという団体です。日本の幕末の尊皇攘夷運動みたいなものです。外国が中国に土足で乗り込んできて、そこに駐在員を置くと・・・これが大使館、公使館です・・・そこを襲撃する。合い言葉は「扶清滅洋」。清を支えて、土足で踏み込んでくる洋を滅ぼそう。洋は西洋です。扶清滅洋という。外国人は出て行けといって、大使館を襲撃する。清朝政府も、そうだそうだと、一緒になって義和団側に立つ。しかしこうなると相手の思うつぼです。おまえが先に手を出した。もう思うつぼです。イギリス、フランスなど・・・そういう強い国を列強といいます・・・これが8ヶ国連合軍を組んで、中国に一気に攻めていく。やはり中国は勝てない。

 実はこの時、飛行機はまだない。遠いヨーロッパから軍隊を派遣するには時間がかかります。一番活躍したのは近い国です。どこか。それが日本です。あっという間に清は降参する。降参して約束したのが、首都北京で結ばれた約束、これを北京議定書という。賠償金払え。オレたちの軍隊を中国に居座らせることを認めろ。これで独立国とは言えなくなる。
 いつか言ったけど、独立国というのは、Aという国はAという軍隊が守る。Bという国はBという軍隊が守って、他の国の軍を入らせない。これが独立国です。そのことを我々日本人がピンとこないのは、戦後70年間、日本にはAという別の国の軍隊がいつもいる。常時駐留している。そういう状態をずっと続けて、その不思議さを感じなくなっているから軍隊に関する国際感覚が麻痺している。これは戦後のことです。
 イギリスは、日本も中国に乗り込んでよくやった、と甘いささやきをする。大英帝国イギリス、当時のナンバーワン国家は・・・イギリスは同盟を組まないことで有名だったんですよ・・・このイギリスがチョンマゲ国家日本と初めて同盟を組むんです。これが1902年日英同盟です。同盟というのは対等です。でもこの同盟が対等であるわけないです。今の日米同盟のようなものです。日米同盟のことはあまり言えないけど、同盟は対等な同盟を同盟というけど、日米同盟はどうですか。対等だと思いますか。対等だと思うなら、おめでたいです。
 そういう日英同盟を組んだ。なぜ組んだか。イギリスは、ロシアが中国に乗り込もうとしている。中国とロシアは国境を接っしている。中国に一番近い国は実は地続きのロシアです。このロシアが中国に乗り込んで行こうとしている。これを防がないといけない。しかし自分で手を出すと大ごとになるから、日本にさせよう。でも日本が勝つとは思ってない。でもそこそこ戦うだろう。日本は負けるだろうけど、その時にはロシアも息があがっているだろう。そこを叩こう。
 その証拠には、イギリスは、日本とロシアが戦ったら日本を応援すると約束していない。この同盟が不思議なのは、日本とロシアが戦った場合、イギリスは日本を応援するとは書いていません。ただ中立を守る、と書いてあるだけです。日本とロシアが戦うのを黙って見守るという約束です。これを同盟と言っている。不思議な同盟です。こうやって日本は英露対立の一つのコマとして一枚噛むんです。


【日露戦争】 次に起こるのは、第一次世界大戦です。いま目指しているところは、1914年です。我々は結果を知っていますが、時代の中に生きている人間は分からない。我々が来年何が起こるか分からないのと一緒です。
 日本は10年前、1894年に中国と戦って番狂わせで勝った。これが日清戦争です。そこで日本は、中国の一部の朝鮮北方の遼東半島を奪ったんですけれども、そこでロシアが日本に内政干渉するんです。日本と中国の取り決めに対して、なぜ関係ないロシアが文句言うのか・・・理屈があわないけど・・・こういうのを内政干渉といいます。本当はこんなことを許したらいけない。三国というのは、ロシア、フランス、ドイツです。1人では不安だから、フランスもいっしょにしてくれ、ドイツもいっしょにしてくれと頼むんです。だから三国干渉という。日本はこの遼東半島を、中国に返せと言われて、ハイと言って返すんです。でも内心では、この野郎、とロシアへの敵愾心は高まっていく。

 そこにイギリスが同盟組んでやろうかという、ロシアと戦わないか、とか何とか言う。そこに、お金を貸そう、と言ったのがアメリカです。
  その後は思うつぼです。1904年に日本はそのロシアと戦う。これが日露戦争です。日本海の海戦で待ち伏せして、ロシアのバルチック艦隊を一気に沈めた。やったやったというんですけど、これは裏でイギリスが軍事指導している。東郷平八郎の手柄じゃない。イギリスの海軍将校が裏で指導してる。ここに来るぞ、ということで。これも番狂わせです。日清戦争も日本が勝つはずじゃなかったのに勝った。日露戦争でも勝つはずじゃなかった。
 イギリスはロンドンで賭けをする。日本とロシア、どっちが勝つか。1対9です。1が日本です。それで楽しんでいる。でも番狂わせで日本が勝った。


▼日露戦争の構図


 こう見るとロシアは日本に負けたようにみえるけど、ロシアの本当の敵はイギリスだったんです。その手を組むことなんかありえないと思われたロシアとイギリスが、1907年に手を組むんです。これが英露協商です。日露戦争でイギリスとロシアの対立はほぼケリがついた。ロシアはイギリスと対立する力を無くすどころか、イギリスがドイツと戦うために協力することになります。
 イギリスにとって、日本の役割は実はここにあるんです。取り残されたのはドイツです。このあと1914年に起こる第一次世界大戦は一言でいうと、イギリスとドイツの戦いです。ロシアがイギリス側に付いた。日本もイギリス側です。
 しかし、イギリスは本当にロシアを信用しているかというと、そうではありません。ホンネではロシアを潰したいと思っています。実際、ロシア帝国は第一次世界大戦の途中で革命が起こって潰れていきます。日本についても同じようなことが言えます。
 
※ ロスチャイルド家はロシアを不安定にするために日本の力を必要としていた。(コールマン)

※ 横浜正金銀行の副頭取であった高橋是清は、宴席で、ロンドンに出張していたジェイコブ・シフに会う。(宋鴻兵)

※ ジェイコブ・シフがクーン・ローブ商会を通じて、日本に1904年と1905年、3回にわたって巨額の公債発行を行った。(コールマン)

※ 世界は、日露戦争はロシア帝国から迫害されていたユダヤ人たちが、ロシア皇帝を倒して共産主義革命を起こすための戦いの一環だったと考えている。(馬渕 グローバル)

※ ジェイコブ・シフが日本に手を貸した理由は、ユダヤ人を迫害した人類の敵ロシアを武装革命で転覆させるためである。(宋鴻兵)
※ 国際銀行クーン・ローブ商会の共同経営者シフたち国際銀行家には大きな目的がありました。それは、ユダヤ人迫害を続ける帝政ロシアで革命を起こしてロマノフ王朝を打倒するということです。そのための駒に日本は利用されたのです。敵と敵を戦わせて漁夫の利を得るという古典的な戦略です。第1次世界大戦は、ロシアの共産主義革命実現に向けて最後の一押しをするために戦われたのです。(馬渕睦夫 「国難の正体」)


  1910年、日本は朝鮮を併合します。日韓併合です。韓国と日本の関係を仲が良いと勘違いしている人いませんか。仲は悪いです。こういった過去がある。併合された韓国では反日運動が起こる。兵隊崩れ、またはちょっとガラの悪い人たちが、武器をもって反日運動をする。日本に抵抗していく。これを義兵闘争といいます。ガラの悪いお兄さんたちが、日本の要人を付け狙っていく。有名なのは安重根という人です。朝鮮支配のため日本が置いた朝鮮総督府。その長官に、総理大臣を四回つとめた伊藤博文が乗り込んでいった。しかし安重根に暗殺される。伊藤博文暗殺です。日本では安重根は殺人犯です。しかし韓国では英雄です。日本では伊藤博文は偉人ですが、韓国では悪人です。歴史というのは、国によってこんなに違う。韓国の小学生、中学生、高校生はこう教えられています。


【辛亥革命】 次に、日清戦争で日本に負けた中国です。中国でも清朝が細々と生きながらえているんですけれども、そこに革命の動きが起こり始める。そういう動きは日清戦争の頃から始まっています。その中心人物が孫文です。この人はもともとお医者さんですが、お金持ちではない。しかし政治運動するときには、お金がいるんです。嫁さんが財閥のお嬢様です。浙江財閥という。バックにこれがついている。
 浙江財閥とは、19世紀末から20世紀前半にかけて、イギリスなどの海外の帝国主義諸国の大資本と結び、上海を本拠に中国経済界を支配した浙江・江蘇出身の資本家の一団で、買弁資本として発足し、金融資本に発展したものです。買弁資本とは、植民地・半植民地で、外国の資本と結びいて、利害をともにする現地の資本のことです。つまり租界で成長した外国資本の手先となった商人のことです。

  彼は1894年に中国政府を倒すための革命結社をつくる。これが興中会です。日本がロシアに勝った。この興中会、中国を興す会、この名前では何する組織かわからないから、名前を変えて1905年には中国同盟会になる。ものものしい名前になっていく。これがどこでできたか。東京でできる。だから孫文には日本人の友達がいっぱいいる。
  そこで中国をどう変えていくか。わかりやすく三つの理念を掲げる。これを三民主義という。民族民権民生とぜんぶ民がつくからこう言います。
 民族というのは、清の支配層は最大民族の漢民族ではなくて、朝鮮北方の満州族が支配していたから、そうじゃなくて漢民族の中心の国をつくろう。
 民権というのは、民権運動の民です。民衆の権利を大事にしよう。
 民生というのは、民衆の生活を守ろうという経済的な要求です。
 これが三民主義です。
 これでだんだんと勢力を拡大して、中国でも孫文に協力する人が増えて、日露戦争から6年目の1911年に中国で革命が起こる。これが辛亥革命です。辛亥の意味は中国流の年の数え方で、日本でいう干支みたいなものです。辛亥の年が1911年だったということです。
  きっかけは、中国政府が私有鉄道を全部国のものにしようとした鉄道国有化問題です。これに一気に不満が爆発して、まず四川省というところで暴動が起こり、それが全国的に広まって、14省が・・・省は日本の県より広い地方組織です・・・独立宣言していく。次の年、1912年には独立を宣言した省がまとまって、清とは別に新たな国を作っていく。これが中華民国です。これが今の中国では、ないですよ。今の大陸中国は正式には、中華人民共和国という別の国です。
 この時の中華民国をいま現在でも名乗っているのはどこですか。この国は消滅してはいないんです。日本が認めていないだけです。これが今の台湾です。なぜそうなっているかというのは、日本に原爆が落ちたあとのことを言わないといけないから、あとで言います。
 この中華民国政府の臨時大総統に孫文がなる。


【中華民国の成立】 ただこの孫文は頭キレるけれども、軍隊を持たないんです。軍隊がないと国を治められないですよね。軍隊を持ってる人にはかなわないんです。軍隊を持ってる人・・・これを軍閥というのですが・・・この軍閥の中から袁世凱がだんだん力を持ってきて、軍事力にものを言わせて、オレと交代しろという。孫文はイヤと言えない。孫文に代わって、袁世凱が大総統につく。この袁世凱政府がこのあと約5年続きます。1912年から1916年まで中国を支配することになる。
 第一次世界大戦は・・・1914年だから・・・この間に起こる。袁世凱政府の時です。袁世凱政府は、国民党を弾圧していく。国民党とは何かというと、さっき言った孫文が革命結社として作った中国同盟会、これが名前を変えたものです。つまり袁世凱は孫文を弾圧していく。
 中国はこのようにごたごた続きで、国らしい国の形を成していません。看板倒れです。そこに1914年に第一次世界大戦が起こって、日本はこのごたごた続きの中国に21の要求をしていく。これを21ヵ条要求という。日本からこれを突きつけられて、中国は飲まざるを得ない。日本と中国は今も仲が悪い。こういう過去がある。そして1916年に袁世凱は死んでしまいます。
 ごたごた続きの中国で革命の中心の孫文は弾圧され、弾圧していた袁世凱も死んでしまう。ますます国の体をなさない。中国はバラバラです。政府の看板だけはあるけど、日本の戦国時代のようなものです。地方地方で軍隊を持つ親分さんが各地を牛耳っている。こういう状態を軍閥割拠という。中国はこういう混乱の中に入っていくのです。


【モンゴル】 それでは中国の北にある国、なにかと相撲界で今お騒がせな、日馬富士とか、白鳳とか、昔は朝青龍といった、モンゴルという国です。昔はモンゴル帝国チンギスハーンが世界帝国を築いた。世界最強の国をつくった。ここはどういう形をとるか。チンギスハーンは今から800年ぐらい前のことです。
 その後1600年代の終わり、清が侵略して外モンゴルを支配する。外モンゴルというのは今のモンゴル共和国のある地域です。そうやって清朝の支配下に入ったのが1600年代の末です。
 その後1700年代から、そこに西から東へ東へとずっと領土を伸ばして、今や世界最大の領土を持っているロシアが入ってくる。
 1900年代になると清も、ここをロシアに取られてはなるものかと思って、モンゴルの支配を強化していく。これでモンゴルは、ロシアと清から両方から引っ張られるような状態になる。清が支配を強めると・・・基本的にモンゴルは中国が嫌いです・・・反清感情が高まっていく。
  その中国で1911年に清朝が滅んだ。そのあと袁世凱も死んで軍閥割拠になって力を弱めていく。するとこの辛亥革命をきっかけにモンゴルが独立宣言をする。弱った中国は、勝手に独立するな、と反発する。しかしこれを止める力はもはやない。その後10年ぐらい経つと・・・今日まだ言わないけれ・・・1917年にロシアが滅ぶんです。ロシア革命でロシアがソ連になる。君たちが生まれたのは、このソ連がまた滅んでロシアに戻った後です。ロシア・ソ連・ロシアとくる。
 この時にロシアは社会主義国家になる。ソ連という新しい国になった。これをきっかけにモンゴルはソ連に近寄っていく。そして1924年社会主義国家として独立する。 
 だから私が若い頃には、モンゴル人は日本にはほとんどいなかった。体制の違う社会主義国家のモンゴルとは国交なかったからです。
 そしてソ連が1991年に滅んだ。親亀こけたら子亀もこけて、モンゴルも資本主義体制にまた変わる。そしたら日本と同じ体制だから、モンゴルと日本の行き来が盛んになる。あそこにもモンゴル相撲の伝統がある。それで日本に来て横綱が次々と出ているという状況です。




【大戦前のヨーロッパの対立】 またヨーロッパに戻って、いよいよヨーロッパは第一次世界大戦の準備に入っていきます。ちょっとまた30年ばかりへ戻っていくと、基本はドイツとイギリスの戦いです。
  ドイツは1870年代までは、けっこう仲間を持っていた。その時のドイツの首相はビスマルクといいます。この人は外交が上手だった。だからいっぱい味方をつけた。そして仲の悪いイギリスを孤立させた。その隣の仲の悪いフランスを孤立させた。この状態が下の図です。ドイツはこれです。オーストリア、これもドイツ人です。このドイツとオーストリアという二つの国は同じ民族だから、何もしなくても仲間なんです。
 ポイントは、ドイツはロシアと仲間であったということです。これで安全です。フランスを孤立させ、ロシアと協調する、これがビスマルク外交の骨子でした。
 ドイツとオーストリアとロシア、三つの国は全部皇帝がいるからこれを三帝同盟という。1873年の締結です。この時はドイツは安全であった。三帝同盟にロシアが入っていた。
 
▼ ビスマルク外交         
 
 
▼三国同盟と三国協商
 

 しかし10年でこんなに変わる。ロシアはイギリスについている。それで世界がごそっと変わる。
  しかし1890年、老練なヴィルヘルム1世が死んで、若いヴィルヘルム2世が皇帝になる。ドイツとロシアの協調こそがビスマルク外交の骨子でしたが、この若い皇帝は、親ロシア政策をとる首相ビスマルクと対立し、1890年ビスマルクは首相を辞めてしまいます。そしてヴィルヘルム2世はロシアとの再保障条約の更新を拒否します。
 ここが変わり目です。新しもの好きの新皇帝ヴィルヘルム2世が、今までなかったような外交を繰り広げると、国際関係ががサッと変わって、はたと気づくとドイツは孤立していきます。

  まずロシアの変わり方です。日清戦争の3年前の1891年に、ロシアとまず手を組んだのはフランスです。フランスとロシアは仲間になった。これが露仏同盟です。
 すでに産業革命が起こっていて、みんな製品を売るところを求めている。ヨーロッパの東ヨーロッパのほうにバルカン半島という半島がある。そこはいろんな民族が雑多にいて、その隣にドイツ人もいるんです。
 そのドイツ人の地域で一つのグループを作ろうというのがドイツです。これをパン・ゲルマン主義という。パン・ゲルマンというのは、ゲルマン人一色主義です。ゲルマン人中心にやって行こうということです。ゲルマン人というのはドイツ人です。そしてそこを起点に、世界の遠いところまで、ドイツの影響をおよぼして行こうという拠点づくり、3つの拠点作りをドイツがやる。
 これがドイツの首都ベルリンのB、それからビザンティウムという今のイスタンブール・・・今のトルコの首都です・・・そのビザンティウムのB、それからバグダード・・・今のイラクにある・・・そのバグダッドのB、たまたま全部Bがつく。これを結ぼうとする。これを3B政策といいます。
 この3B政策によってドイツは西アジア支配をめざします。この政策は、同地域を狙うイギリスとロシアを刺激します。

※ 1899年、ドイツはバグダード鉄道敷設権を獲得する。これが3B政策になる。
中東の豊かな石油を得るため。ペルシャ湾からインド洋に出る海上航路を切り開くため。ロシアもバクダード鉄道に反対。スエズ運河を開いたイギリスのインド航路支配と競合する。

 
 これに対してロシアは民族でいうとスラブ人です。ロシアもパン・スラブ主義です。ドイツ人は民族で言うとゲルマン人、ロシアはスラブ人です。ドイツとロシアの対立が発生する。

※ ロシアは、ドイツとオーストリアに激しい反感を抱き、フランスに接近、1891年、露仏同盟を結び、ドイツと敵対します。(宇山卓栄)

 そのイギリスは、どこに自分たちの製品を売ろうとしているか。カイロのC、それからケープタウン・・・アフリカの一番南の南アフリカにある・・・そのケープタウンのCです。それからメインはインドです。イギリス最大の植民地インドの中心カルカッタのCです。たまたまぜんぶCです。これを3C政策という。この貿易の対立で、ドイツとイギリスが仲悪くなる。今でいうアメリカと中国の貿易対立です。潜在的に仲が悪いんです。

※ イギリスが「光栄ある孤立」を捨て、最初に組んだ相手は日本でした。1902年、日英同盟が締結されます。イギリスは極東アジアに進出するロシアの動きを封じ込めるために、日本を支援しようとしました。ドイツのヴィルヘルム2世はこうしたイギリスの動きを歓迎しました。
 ヴィルヘルム2世は、ドイツがロシアとの同盟を切れば、イギリスがドイツの味方になると期待していました。イギリスが日本と手を組むのはロシアを警戒してのことであり、イギリスは当初、東方問題などでロシアと激しく対立した経緯から、ドイツ支持に傾いていました。
 しかしヴィルヘルム2世のこうした期待は裏切られます。いまやドイツの台頭が著しく、ロシアやフランスよりもドイツを脅威とする捉え方が、イギリス国内で大勢を占めていました。
 また1905年、日露戦争でロシアが敗北すると、ロシアの脅威が薄れ、イギリスは明らかにドイツを敵対視するに至ります。(宇山卓栄)

 だからイギリスは、日露戦争のあと手を組まないはずのロシアと手を組んだ。これが1907年英露協商です。
 しかしこれはあくまでもドイツを潰すための手段であって、ロシアを信用したわけではありません。イギリスは本当はロシアも潰したいのです。
 イギリスはロシアの味方のような顔をしながら、ドイツも潰したいし、ロシアも潰したい、のです。第一次大戦はその通りになっていくのですが、そのためにはもう一つアメリカの動きが必要です。


 どっちも軍事力を持っているから、小さなことで、これは一瞬で変わる。しかしこの時に第一次世界大戦が起こるなんてことを誰も予想していない。こんな事はよくあることだとか、小競り合いはよくある、どうにかなると楽観している。しかしとんでもないことになっていきます。
 ドイツの仲間はオーストリアだけです。これはドイツとドイツの仲間です。イタリアは寝返るんです。信用ならない。結局ドイツは、イギリスとロシアとフランスに囲まれてしまう。これでは勝ち目ない。こういう対立です。

 ただドイツについては、イギリス側が三国協商だったら、ドイツだって三国同盟を結んでいると言われます。しかしこれは本当に成立していたか怪しいものです。イタリアはすぐに裏切るから、三国同盟は成立していなかったという話もある。ただ成立したことにした方が何となく説明上も都合がよいから、教科書にもそう書いてある。
  それに従えばこの時の世界状況は、ドイツの三国同盟イギリスの三国協商の対立です。こういうふうに世界の列強グループが二手に別れたことになっています。
 ちなみに日本はこの時イギリス側について日英同盟を結んでいる。まあ正直言って、対等だといっているのは日本だけで、イギリスはそうは思っていません。形だけのものです。今の日米同盟みたいなものです。今の日本の状況は驚くほど100年前と変わりません。
 これで終わります。ではまた。




コメントを投稿