Death & Live

いわゆる日記とは違うようで。死に様や心の疲労について、つれづれなるままに書き綴るだけ。

【21世紀の死】 ヤセル・アラファト

2006-08-26 11:22:37 | 死・自死
この人の顔は非常に特徴がある。
なかなか忘れられない顔だ。

特に印象深いのは、映画『D.I.』の中で風船に書かれた彼の顔。
他の誰にも見えない、間違い無く彼の顔。

その彼が亡くなって、もう2年近く経つのだな。

パレスチナ自治政府、ヤセル・アラファト議長(当時)。
本名はムハマド・アブドル・ラフマン・アブドル・ラウーフ・アラファト・アルクドワ・アルフセイニ。
2004年11月11日午前3時半(日本時間同11時半)、パリ郊外のペルシー軍病院で死去。享年75歳。

パレスチナを率い35年。
イスラエルへの抵抗の象徴として、カリスマ的存在。


以下↓新聞からの抜粋
1929年8月24日、エジプト・カイロで、パレスチナ出身の両親のもとに生まれる。
4歳の年に母親が病死。英国統治下のエルサレムの親類のもとで4年間暮らす。

47年国連総会がパレスチナ地方をアラブ国家とイスラエル国家に分割する決議を採択。
48年イスラエルが建国を宣言。
49年第1次中東戦争。アラファト氏は反イスラエル活動続ける。
戦争後、本格的にパレスチナ解放運動に参加。58年までに後のパレスチナ解放機構(PLO)主流派となる「ファタハ」を創設。
56年にはエジプト軍の下士官となり、スエズ危機や第2次中東戦争に従軍。
65年からはファタハの軍事部門アシファを指揮し、ヨルダンやレバノンを拠点にイスラエルにテロ攻撃を続ける。
69年にはPLO議長に初選出。
72年9月には、「黒い9月」を名乗るアラブ人武装組織がミュンヘン五輪選手村を襲撃し、イスラエル代表団の選手11人とドイツ人警官を殺害。アラファト議長はこの事件についてコメントしていないが、「黒い9月」はファタハの内部組織だったとされている。
1974年には初めてニューヨークの国連総会で演説。

「私は平和のオリーブの枝と自由のための闘士の銃を携えて、ここにやってきた。オリーブの枝がこの手から落ちるようなことにはしないでほしい」

PLOはその後もレバノンを拠点にイスラエル攻撃を続行。
82年イスラエルのシャロン国防相(現首相)が、PLO掃討のためレバノン攻撃を断行。アラファト氏は北アフリカのチュニジアに逃れる。
88年パレスチナ民族評議会(PNC)で、ヨルダン川西岸とガザ地区におけるパレスチナ自治の確立を宣言。
同12月国連総会で、イスラエルの生存権承認とPLOのテロ放棄を宣言した。
90年にはイラクのクウェート侵攻でフセイン政権を支持。国際社会で孤立。
93年9月米ホワイトハウスで、中東和平の大枠を定めた暫定自治宣言(オスロ合意)にイスラエルのラビン首相と共に署名。
94年ラビン首相、ペレス外相と3人でノーベル平和賞を受賞した。
96年オスロ合意に基づいて成立したパレスチナ自治政府の初議長に就任。財政と治安権限を握るワンマン体制を貫き、治安問題などでイスラエルとの対立が再燃した。
2000年7月クリントン米大統領の仲介でバラク首相(労働党)とキャンプデービッドで和平交渉を行ったが、交渉は決裂。
同年9月リクードのシャロン党首によるイスラム教聖地訪問を機に、ガザ地区などで第2次インティファーダが発生。
01年3月にバラク政権が倒れ、シャロン政権が誕生して以来、イスラエルと自治政府の対立は激化。
同年12月イスラエルはパレスチナ武装組織によるテロ攻撃を放置しているとして、議長をラマラの議長府に軟禁。
02年6月アラファト議長退陣を条件にパレスチナ暫定国家創設を容認する新中東和平案、提示される。「アラファト外し」
パレスチナの若い世代からも独裁ぶりや腐敗、不明朗な資産管理などに批判が噴出、晩年の権威は揺らぎがちとなる。

アラファト氏はイスラム教スンニー派で、「私はパレスチナと結婚した」と独身を続けたが、91年にはキリスト教パレスチナ人のスーハ夫人と結婚し、長女ザワフ(ザフワ?)さんがいる。

議長は主義や理論ではなく、世界を飛び回る行動力と天性の政治的嗅覚でいくつもの危機を生き延びてきた。



顔もそうだが、行き方というか人生というか、非常に "濃い" 人だ。

いったい、誰がどこで、オリーブの枝を折ってしまったのだろうか。


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