庭の花たちと野の花散策記

山野草と梅が大好きの「雑草」。花以外は思考不可の植物人間の庭の花と野の花散策記です。

人生って不思議なものですね(1)

2008年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

ハワイで知り合ったバイオリニストのCDを車に乗るたびに聞いている。このたびは新車に近い車を買ったので、カーナビがついていて、それで音楽CDも聞くことができるようになった。そこで2年前にハワイで求めたバイオリン演奏のCDを入れっぱなしにして、毎回エンジンをかけると聞こえるようになったわけである。

そのCDの中に美空ひばりの「人生って不思議なものですね」と歌われた曲の演奏がある。歌誌は覚えなかったが、終りのころの「人生って、不思議な、不思議なものですね」というくだりだけは聞くたびに心に語りかけてくるような気がする。不思議な人生といえば一組の不思議な出会いをいつも思い出している。これは小説よりももっと不思議であって、わたしの人生の中で最も不思議なことのひとつである。

まだ私が40代になったばかりのときであった。教会に若い独身の牧師先生がこられました。独身とはいえ人生全般、結婚、子育て、老後、葬式まで何でもしなければならないわけです。たまたま適齢期というのは今は言わないのでしょうが、それを過ぎようとしている女性の結婚のお世話を始めたわけですが、これがなかなかうまく進まなくて困ってしまいました。やはりお世話をするには独身では難しい状況を打開して、女性を結婚に導くには限界を感じられたようです。そこでその女性と同年代のご夫婦に助け舟をお願いしたわけですが、これまたその女性の結婚の障害となっていることを解決することができず結婚の話が頓挫しましてしまったようです。

そこで私に何とか結婚のお世話をしてほしいとお鉢が廻ってきたわけです。状況を全く知らなかった私は開口一番に、「彼女は私の言うことを聞かないからできません。」とお断りしました。事実、私は彼女とあまり親しく話したことがありませんでした。お世話をさせていただくということは彼女を説得もしなければならない事もあるだろうし、無理ですとお断りしたわけです。それでも他にいないし何とかということでしたので、若い牧師先生のお手柄にでもなればと、できる限りのことをしてみますとお引き受けしたのが、不思議な人生の証人としての始まりでした。

状況をよく理解していないというより、説明もほとんど聞いていないまま、彼女のご両親を訪問しました。お父さんは開口一番、「娘に家を継がせる。」と仰いました。でも相手の男性は一人息子です。これは譲れないことです。いろいろとお話しをしましたが、結局は継がせられないならこの話しは無かったことにということでした。「お父さんのお考えはよく分かりました。今日のところは失礼します。」と言えば、「もう来ないでよい。」と家から押し出されるような思いで退散しました。

こういう状況では話を続けるかどうかは、彼女本人のお気持ち如何にかかってきますので確認しますと、「結婚したいです。」それではもう一度ということでご両親を訪問しました。はなっから歓迎しておられないのがわかりました。そこで教会ではこんなふうに結婚について考えています。たとえお嫁にいってしまってもご両親を思う気持ちは少しもなくならないというようなことをお話ししました。そうしたら「わかった。もういいから帰ってくれ。」と追い出されるように帰されました。

状況はますます悪くなってゆきます。そこで彼女のお気持ちはどれほど強いのか、も一度確認しました。「絶対に結婚したい。」ならば再度チャレンジしようか。ふたりが結婚を強く望んでいる以上は私は何と言われてもよいと覚悟を決めました。三度目の訪問で帰るときは石を投げつけられるかと一瞬思うほどの剣幕でした。石はともかく塩くらいはまかれたかもしれません。

お父さんが家を継ぎなさいと特に強く望んでおられました。男の子がいなくて、女の子ばかりで、長女に家を継がせようとしたら、長女はお父さんと喧嘩別れをするほどの確執のすえに、遠くにお嫁に行ってしまいました。お父さんはならば次女に跡継ぎを迫ったわけですが、これも失敗でした。三女も同様でした。嫁いだ娘さんとは今でもお父さんとはうまくない関係が伺われました。末っ子の彼女は気持ちの優しい方でしたので、お父さんは最後のチャンスとばかり、背水の陣で強く跡取りをむかえるよう必死でした。それが撚りによって長男の彼との縁談が来るとは。結婚すれば勘当だとまで言われました。

彼女もお父さんに可愛がられて育てられ、お父さんのお気持ちをよく知っていました。それでも出会いというのは不思議なもので、彼と是非とも結婚したいという気持ちが強くなるばかりでした。あちら立てればこちら立たずでした。この状況ではお父さんの了解は得られそうにありません。どっちを選び取るか彼女に最後の確認をしました。答えは「お嫁に行きます。」でした。

そこで私は正直行き止まりました。話し合いではもうどうにもなりません。祈る気持ちで書いたのが便箋20枚ほどのお父さんあての手紙でした。「お父さん、きょうはこのお手紙を読んでいただきたくて参りました。」と差し出した手紙をお開きになり読み始められました。そこには聖書から教えられた結婚観、親に対する教え、二人のお気持ちなどが書かれていました。お父さんは何か決断しなければと固いお顔つきでしたが、手紙を読んでもどうせ同じだ。気持ちは変らないぞというふうな仕草で読み始められました。

ところが半ばほどまで読み進むと、便箋を持ち替えたりされて、手が落ち着かなくなりました。終りのころはただじっと見つめているようでした。やがて詠み終わりじっと座っておられました。ちょっとの間をおいて「よろしくお願いいたします。」と申し上げましたところ、黙っておられました。黙認されたとわかりいました。「本日はこれにて失礼します。」ということで大きな山は越えられたかのように思いました。

婚約式と結婚式の日取りを決めようとしたところ、式には出席しないとお父さんが彼女に言っているとのことでした。再三お願いしてもダメのようでした。彼女はご両親の出席しない婚約式と結婚式を決断しました。そして婚約式の少し前に婚約式の段取りを彼の教会の牧師先生を入れて打ち合わせをしようと集まった日です。彼女はやっぱり結婚はできませんと言い出したのです。ここで彼の教会の牧師先生が彼女と一対一で話し合ってくださり、彼と私たちは長い時間待っていました。

結果は牧師先生の説得を彼女は受け入れることができませんでした。横に首を振って部屋から出てこられた牧師先生をみて私たちはがっくりとしてしまいました。数日後、私は彼のご両親にお詫びの手紙を送りましたところ、彼のご両親から「あなたの責任ではないからそんなに責任を感じないように。」とこの若造をいたわってくださる手紙をいただきました。

このことで最も傷つき落ち込んだのはお二人です。とりわけ彼は落ち込んでしまったと思われます。こうして心の重い年月が過ぎてゆきました。私もいまひとつ元気が出ない日々を4年も過ごしました。後から聞いたことですが、彼は失意の旅に日本の果てばてまでへも行くほどでした。

数年後、表向きはほとぼりが冷めたと思われるようになったときです。彼女が思いもかけぬことを言いました。「彼をどうしても忘れられない。」これを私には俄かには信じられませんでした。簡単に「はい、そうですか。」とは言えません。また最後に「やっぱりできません。」と言われはしないか。彼だってその気があるかどうか、まず無いだろうと思いました。ところが彼の牧師先生に確認すると、彼も忘れられないようだとのことでした。それではということで話を進めることにしましたが、相変わらず彼女のお父さんは承知してくれません。もう破れかぶれでご両親の承諾なしで進めることにしまして、結婚式の日取りを決めて準備してゆくことにしました。 続く

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