はい、いよいよ幕末劇の見せ場、最高に派手で見栄えのする看板イベント「長州戦争」の回でございます。
といっても、これがじっくり描かれた大河ドラマは近年ちょっとございません。大河じゃない民放ドラマの「JIN」くらいかな。期待した「龍馬伝」でもほんのちょっとしかやらなかったので、私は不満でした。「八重の桜」「篤姫」「新選組!」などはもちろん、主人公サイドが絡まないイベントなので伝聞処理だけでしたし。
映像化がめずらしいだけに夢も膨らむのですけど、ことしに関しては、もうこの時点でふくらませる夢も残ってません。どっちかというとこんな崩壊してとっちらかったドラマ内で半端にやらないでほしい、脳内の夢は夢のままに残しておいてほしい。
描写が少なくて不満だった「龍馬伝」でも、「高杉晋作の三味線無双伝」という、冗談スレスレのすばらしいシーンが用意されており、もうあの記憶だけでむこう30年生きていける、というくらいの眼福だったのが思い出されます。
せめてあの美しい夢をこわさないで、と願っておそるおそる見始めたのですが、そうですね、そういう意味では今週はありがたかったです。なんかもう、ファンの夢を壊すとか汚すほどのテンションでもないですもん。駄作につきものの破壊力ももっておらず、「花神」や「龍馬伝」でつくったわたしの儚い「長州戦争幻想」をぐちゃぐちゃにしてくれるほどのこともなかった。これはせめてもでした。
第35回「孤高の戦い」。ぜんぜん孤高でもなきゃ戦ってもいなくても、もうどうでもいいってかんじなんですが、こんなに何の思い入れも美学もない低テンションで、幕末劇の最高の見せ場に突入するって、ある意味凄いですよね。
ついでにいえば御予算もないらしく、合戦シーンの華の野外ロケもなくって、主役である高杉晋作の出番は最初から最後まで「船底の酒樽のとなり」で固定。有名な「この扇一本で十分」というキメゼリフにしたって、考証の先生からおそわって義務的に入れたんでしょうけど、幕末劇に対するそれなりの憧憬というか、美意識があれば、あれを船底で言わせるってことはないと思うよ。幕末資料の古典「田中光顕の維新風雲回顧録」にだって、「高杉は甲板の上で床几に寄りかかり、手に軍船をもって…」って目撃証言として書いてあるじゃん。そうでなくても、ああいうのは船の先っぽで波しぶきを浴びながら、見得を切って何ぼでしょう。
まあ、それでも史実をとんでもなく外れているとか、大事なことをスルーしてチープな創作を一生懸命やっているとか、そういうことでもないんですけど、ただもうやる気なさがダダ洩れに伝わってきて、脚本も素人仕事。こころなしか役者さんの目も死んでるし。こんなものを日曜8時の看板ドラマとして放送しなければならないって、NHK的には情けなくないのかなと思います。
そんなことで特別怒りもわいてきませんし、突っ込みたいところもこれといってないです。そんな気にもなれない。
史実をとんでもなく外れてもいないとは言いましたが、明らかに外しているところについて、一応突っ込みます。
高杉晋作の妻・雅が、いよいよ幕長戦争開戦という取り込み中に、「妻として晋様のお世話をしに行く」といってひとりでノコノコ下関まで行きますね。戦争中に指揮官の女房がのこのこ旦那の職場に行ってなにやってんねん、と思いますが、実は「お世話をしに」雅夫人が萩から下関に行ったのは史実です。ただ、この時期じゃなく実際はこの四か月くらい前、慶応2年2月ごろで、そのとき下関の現地妻にしていた愛人の芸妓・おうのの存在がバレて妻妾プチバトルになり、その件で晋作さんは、木戸(桂)さんに、やや情けない泣き言の手紙を書いたりなどしています。
実際、おうのは前年の慶応元年に晋作が四国亡命(長州藩内の過激テロリストに命を狙われたため)に同伴した女性で、亡命から帰国した後、ずっと下関に単身赴任していたために、現地妻みたいになってたわけです。だから世子様の「この頃は家にも帰らずどこぞの芸者の家に入り浸っておるというではないか云々」という苦言も全然的外れなんですよね。家に帰らないのは公務ですし、愛人の家に入り浸って云々という話ではない。
史実上の雅は、下関で愛人とバッティングしたりもしたし、晋作当人が、(妻妾が顔付きあわせるシチュエーションから逃亡する如く)長崎に長期出張してしまったため、することもなくて萩に引き上げてしまってます。
で、この長崎出張のときに、晋作は、イギリスから売りに出ていたアームストロング砲搭載の軍艦を衝動買いし、それに乗って下関に帰ってきます。船の名前はオテントサマ丸、のちに長州海軍に正式に帰属して「丙寅丸」とあらためられますが、この船が大島奪還戦・小倉口海戦の主役になった長州のフラッグシップになるわけですね。
という感じで、おうのという女性はこの時期の晋作の活動にチラホラと見え隠れしているのですが、そういう場面がまったく何も描かれないから、いきなり妻妾バトルやられても、どうにもならないわけですよね。ほんとはこういう講談的な歴史エピソードをしっかりやって、妻と愛人は顔を合わせて「……なんかビミョー…」と、これだけで十分面白いはずなんですけど。
ところがこのドラマではその小エピソードを、なにを思ったか後ろ倒しにして幕長戦争の真っ最中にブチ込み、戦場で指揮をとる夫の元にひょいひょいと遊びにいくパッパラ妻という見世物にしたあげく、浮気騒動、はては「なんか浮気してると思ったらダンナ待ってんのもバカバカしくなっちゃって~。もう実家帰ろっかな~」などといわせる。それを諌めるヒロイン美和ちゃんが、「わたしも久坂に女がいると告白されたとき…」などと愚痴話を蒸し返して小一時間、なんでこんなものを、よりにもよって長州戦争の場面を割って長々と見せれらなくてはならないんでしょうか。
で、この旦那に浮気された同士の傷のなめ合いの会話と、「ダンナは命を燃やして散らしているのだから、女作ったくらいで泣いてたらダメ!あなたが彼を日本一の男にするのよっ!」みたいな説教を延々やってる合間に、じっさいに戦場で命散らしている男たちのシーンがチラホラと挿入れさて、それで戦争の進捗を表現しておりましたが、まあ、斬新っちゃ斬新だよ…。なんか見ていてどんどん物悲しい気分になっていきましたけど。どっちかというと、命燃やして、命散らしている男たちのシーンの方をガッツリ見たいのですが。浮気された妻たちのガールズトークとか、戦争中の銃後で不安を紛らわすために汗かきましょう!とか言ってお城の庭を畑にして家庭菜園をはじめるとか、なにかといえば美和さんの意見をみんなで聞いては、ホォ~!ホエェ~~!そりゃスンバラシー!!と絶賛するとか、そんなシーンじゃなくて。
そりゃ、こんなバカみたいな脚本家の書く長州戦争なんか見たくないとはいったけど、こんな痴呆的な場面の連続も見たかないですよ。
とくに田中麗奈さんは御気の毒としかいいようがなくて、なんでまた、美和さんが口を開くたびに「ハァア~~」とか感嘆の溜息をついて目を真ん丸にして、みたいな芸を延々やらされなきゃならんのでしょう。そんなどうでもいい女優さんじゃないはずだけどなあ、この人。
あと、これもどうでもいいツッコミだとおもいますが、長州戦争が開戦したのは慶応2年の6月ですよね。旧暦の6月というのはいまでいえば8月初旬にあたります。畑の土をおこして種をまくには季節的におかしいくらいのことは、考証の段階でわからんのか? 最初からそうだけど、このドラマの季節感ゼロかげんはすごいですよね。
それでも、最初の頃は、寅次郎の密航の巻き添えを食って死んだ金子重輔の場面とか、本当に寒そうな雪の場面などもあったのですが、以後はそんなことにはまったくお構いなし。
まあ、史実云々とうレベルでさえない、ふつうの連続ドラマとしても一貫性がまるでなく、場当たり的に適当なポエムで歴史を語ってやり過ごして回を重ねているので、季節感なんて期待するのもむなしいかもしれません。そもそも季節感なんてドラマに関係ないかもしれないのですが、当時の季節感や生活感がストーリーの行間から匂うように感じられるドラマというのは、やっぱり相対的にみて、筋の運びや人物の生き方もしっかりしてた佳いドラマだったと思うんです。比べるのもバカバカしいかもしれませんが、「独眼竜政宗」や「太平記」、近年では「坂の上の雲」にしっかりあった季節感、夏の暑さや真冬の寒さ、春の桜や秋の月の美しさ、そんなものをしみじみ思い出したりします。
さて、9月から小松江里子先生に脚本がチェンジするということですが、あの「天地人」を世に問うた小松先生の登板が朗報に感じられる位、無残な焼け野原になってしまったこのドラマに、もはや拾う骨ものこっていないように思います。
少し前に、長州志士をあまりにも軽くいい加減に描いた結果が、思想性のないテロリストという属性が突出してしまい、ある意味真実に近いところを突いた幕末ドラマになってしまった……なあんて買い被ったのがうそのようです。
といいつつ、やっぱり、首相官邸をデモ隊が取り囲んで安保法案反対を叫んだ日曜日に、「この戦争の意義を庶民に説明して民意を問いましょう!」などと小田村伊之助先生がドヤ顔で言ってるというのも、ほとんどナンセンスギャグみたいで、そのへんのシンクロニティは笑えます。
そしてマンセー一辺倒の民意を集めた署名を懐に、小田村先生は自信満々、幕府との会談に赴く。死んでも悔いる所ではございません、不退転の決意でございます、私が死んでも高杉晋作とか、長州のアツい仲間たちがおります!!とかなんとか、死んだら任務の遂行もできないという点での責任感はまるでなし。こういう、あたま悪げで感傷的なだけのリーダー像が、いままさにデモ隊に突き上げられてる長州出身の宰相にかぶったりするわけですけど、このドラマ見てると、小田村伊之助ってほんとは、もっとずっと実務的ですごく有能な人だったんだろうな、このドヤ顔の無責任な男とは真逆のキャラクターだったにちがいない、という想像がつく気がいたしますよ。
そして国会の中では、あの不滅の男・原田佐之助が、長州出の宰相に元気よくツッコミを入れまくっていますけど、そんなところも悪い冗談みたいで笑えますよね。新選組は不滅だ、オレも不滅だ!と言い残して10年、こんなところでほんとに蘇えったとは痛快痛快。がんばれ佐之助。そのテンションでツッコミを入れ続けてちょーだい。ずっととは言わんから、このドラマやってる今年一杯くらいは。
ではっ。
といっても、これがじっくり描かれた大河ドラマは近年ちょっとございません。大河じゃない民放ドラマの「JIN」くらいかな。期待した「龍馬伝」でもほんのちょっとしかやらなかったので、私は不満でした。「八重の桜」「篤姫」「新選組!」などはもちろん、主人公サイドが絡まないイベントなので伝聞処理だけでしたし。
映像化がめずらしいだけに夢も膨らむのですけど、ことしに関しては、もうこの時点でふくらませる夢も残ってません。どっちかというとこんな崩壊してとっちらかったドラマ内で半端にやらないでほしい、脳内の夢は夢のままに残しておいてほしい。
描写が少なくて不満だった「龍馬伝」でも、「高杉晋作の三味線無双伝」という、冗談スレスレのすばらしいシーンが用意されており、もうあの記憶だけでむこう30年生きていける、というくらいの眼福だったのが思い出されます。
せめてあの美しい夢をこわさないで、と願っておそるおそる見始めたのですが、そうですね、そういう意味では今週はありがたかったです。なんかもう、ファンの夢を壊すとか汚すほどのテンションでもないですもん。駄作につきものの破壊力ももっておらず、「花神」や「龍馬伝」でつくったわたしの儚い「長州戦争幻想」をぐちゃぐちゃにしてくれるほどのこともなかった。これはせめてもでした。
第35回「孤高の戦い」。ぜんぜん孤高でもなきゃ戦ってもいなくても、もうどうでもいいってかんじなんですが、こんなに何の思い入れも美学もない低テンションで、幕末劇の最高の見せ場に突入するって、ある意味凄いですよね。
ついでにいえば御予算もないらしく、合戦シーンの華の野外ロケもなくって、主役である高杉晋作の出番は最初から最後まで「船底の酒樽のとなり」で固定。有名な「この扇一本で十分」というキメゼリフにしたって、考証の先生からおそわって義務的に入れたんでしょうけど、幕末劇に対するそれなりの憧憬というか、美意識があれば、あれを船底で言わせるってことはないと思うよ。幕末資料の古典「田中光顕の維新風雲回顧録」にだって、「高杉は甲板の上で床几に寄りかかり、手に軍船をもって…」って目撃証言として書いてあるじゃん。そうでなくても、ああいうのは船の先っぽで波しぶきを浴びながら、見得を切って何ぼでしょう。
まあ、それでも史実をとんでもなく外れているとか、大事なことをスルーしてチープな創作を一生懸命やっているとか、そういうことでもないんですけど、ただもうやる気なさがダダ洩れに伝わってきて、脚本も素人仕事。こころなしか役者さんの目も死んでるし。こんなものを日曜8時の看板ドラマとして放送しなければならないって、NHK的には情けなくないのかなと思います。
そんなことで特別怒りもわいてきませんし、突っ込みたいところもこれといってないです。そんな気にもなれない。
史実をとんでもなく外れてもいないとは言いましたが、明らかに外しているところについて、一応突っ込みます。
高杉晋作の妻・雅が、いよいよ幕長戦争開戦という取り込み中に、「妻として晋様のお世話をしに行く」といってひとりでノコノコ下関まで行きますね。戦争中に指揮官の女房がのこのこ旦那の職場に行ってなにやってんねん、と思いますが、実は「お世話をしに」雅夫人が萩から下関に行ったのは史実です。ただ、この時期じゃなく実際はこの四か月くらい前、慶応2年2月ごろで、そのとき下関の現地妻にしていた愛人の芸妓・おうのの存在がバレて妻妾プチバトルになり、その件で晋作さんは、木戸(桂)さんに、やや情けない泣き言の手紙を書いたりなどしています。
実際、おうのは前年の慶応元年に晋作が四国亡命(長州藩内の過激テロリストに命を狙われたため)に同伴した女性で、亡命から帰国した後、ずっと下関に単身赴任していたために、現地妻みたいになってたわけです。だから世子様の「この頃は家にも帰らずどこぞの芸者の家に入り浸っておるというではないか云々」という苦言も全然的外れなんですよね。家に帰らないのは公務ですし、愛人の家に入り浸って云々という話ではない。
史実上の雅は、下関で愛人とバッティングしたりもしたし、晋作当人が、(妻妾が顔付きあわせるシチュエーションから逃亡する如く)長崎に長期出張してしまったため、することもなくて萩に引き上げてしまってます。
で、この長崎出張のときに、晋作は、イギリスから売りに出ていたアームストロング砲搭載の軍艦を衝動買いし、それに乗って下関に帰ってきます。船の名前はオテントサマ丸、のちに長州海軍に正式に帰属して「丙寅丸」とあらためられますが、この船が大島奪還戦・小倉口海戦の主役になった長州のフラッグシップになるわけですね。
という感じで、おうのという女性はこの時期の晋作の活動にチラホラと見え隠れしているのですが、そういう場面がまったく何も描かれないから、いきなり妻妾バトルやられても、どうにもならないわけですよね。ほんとはこういう講談的な歴史エピソードをしっかりやって、妻と愛人は顔を合わせて「……なんかビミョー…」と、これだけで十分面白いはずなんですけど。
ところがこのドラマではその小エピソードを、なにを思ったか後ろ倒しにして幕長戦争の真っ最中にブチ込み、戦場で指揮をとる夫の元にひょいひょいと遊びにいくパッパラ妻という見世物にしたあげく、浮気騒動、はては「なんか浮気してると思ったらダンナ待ってんのもバカバカしくなっちゃって~。もう実家帰ろっかな~」などといわせる。それを諌めるヒロイン美和ちゃんが、「わたしも久坂に女がいると告白されたとき…」などと愚痴話を蒸し返して小一時間、なんでこんなものを、よりにもよって長州戦争の場面を割って長々と見せれらなくてはならないんでしょうか。
で、この旦那に浮気された同士の傷のなめ合いの会話と、「ダンナは命を燃やして散らしているのだから、女作ったくらいで泣いてたらダメ!あなたが彼を日本一の男にするのよっ!」みたいな説教を延々やってる合間に、じっさいに戦場で命散らしている男たちのシーンがチラホラと挿入れさて、それで戦争の進捗を表現しておりましたが、まあ、斬新っちゃ斬新だよ…。なんか見ていてどんどん物悲しい気分になっていきましたけど。どっちかというと、命燃やして、命散らしている男たちのシーンの方をガッツリ見たいのですが。浮気された妻たちのガールズトークとか、戦争中の銃後で不安を紛らわすために汗かきましょう!とか言ってお城の庭を畑にして家庭菜園をはじめるとか、なにかといえば美和さんの意見をみんなで聞いては、ホォ~!ホエェ~~!そりゃスンバラシー!!と絶賛するとか、そんなシーンじゃなくて。
そりゃ、こんなバカみたいな脚本家の書く長州戦争なんか見たくないとはいったけど、こんな痴呆的な場面の連続も見たかないですよ。
とくに田中麗奈さんは御気の毒としかいいようがなくて、なんでまた、美和さんが口を開くたびに「ハァア~~」とか感嘆の溜息をついて目を真ん丸にして、みたいな芸を延々やらされなきゃならんのでしょう。そんなどうでもいい女優さんじゃないはずだけどなあ、この人。
あと、これもどうでもいいツッコミだとおもいますが、長州戦争が開戦したのは慶応2年の6月ですよね。旧暦の6月というのはいまでいえば8月初旬にあたります。畑の土をおこして種をまくには季節的におかしいくらいのことは、考証の段階でわからんのか? 最初からそうだけど、このドラマの季節感ゼロかげんはすごいですよね。
それでも、最初の頃は、寅次郎の密航の巻き添えを食って死んだ金子重輔の場面とか、本当に寒そうな雪の場面などもあったのですが、以後はそんなことにはまったくお構いなし。
まあ、史実云々とうレベルでさえない、ふつうの連続ドラマとしても一貫性がまるでなく、場当たり的に適当なポエムで歴史を語ってやり過ごして回を重ねているので、季節感なんて期待するのもむなしいかもしれません。そもそも季節感なんてドラマに関係ないかもしれないのですが、当時の季節感や生活感がストーリーの行間から匂うように感じられるドラマというのは、やっぱり相対的にみて、筋の運びや人物の生き方もしっかりしてた佳いドラマだったと思うんです。比べるのもバカバカしいかもしれませんが、「独眼竜政宗」や「太平記」、近年では「坂の上の雲」にしっかりあった季節感、夏の暑さや真冬の寒さ、春の桜や秋の月の美しさ、そんなものをしみじみ思い出したりします。
さて、9月から小松江里子先生に脚本がチェンジするということですが、あの「天地人」を世に問うた小松先生の登板が朗報に感じられる位、無残な焼け野原になってしまったこのドラマに、もはや拾う骨ものこっていないように思います。
少し前に、長州志士をあまりにも軽くいい加減に描いた結果が、思想性のないテロリストという属性が突出してしまい、ある意味真実に近いところを突いた幕末ドラマになってしまった……なあんて買い被ったのがうそのようです。
といいつつ、やっぱり、首相官邸をデモ隊が取り囲んで安保法案反対を叫んだ日曜日に、「この戦争の意義を庶民に説明して民意を問いましょう!」などと小田村伊之助先生がドヤ顔で言ってるというのも、ほとんどナンセンスギャグみたいで、そのへんのシンクロニティは笑えます。
そしてマンセー一辺倒の民意を集めた署名を懐に、小田村先生は自信満々、幕府との会談に赴く。死んでも悔いる所ではございません、不退転の決意でございます、私が死んでも高杉晋作とか、長州のアツい仲間たちがおります!!とかなんとか、死んだら任務の遂行もできないという点での責任感はまるでなし。こういう、あたま悪げで感傷的なだけのリーダー像が、いままさにデモ隊に突き上げられてる長州出身の宰相にかぶったりするわけですけど、このドラマ見てると、小田村伊之助ってほんとは、もっとずっと実務的ですごく有能な人だったんだろうな、このドヤ顔の無責任な男とは真逆のキャラクターだったにちがいない、という想像がつく気がいたしますよ。
そして国会の中では、あの不滅の男・原田佐之助が、長州出の宰相に元気よくツッコミを入れまくっていますけど、そんなところも悪い冗談みたいで笑えますよね。新選組は不滅だ、オレも不滅だ!と言い残して10年、こんなところでほんとに蘇えったとは痛快痛快。がんばれ佐之助。そのテンションでツッコミを入れ続けてちょーだい。ずっととは言わんから、このドラマやってる今年一杯くらいは。
ではっ。
相変わらず、ある意味期待を裏切らない見事なすっとぼけた展開で、この先にどんな新しい時代が待っているのかと心配になってしまいます。
私の中では高杉晋作は、前回庵主さまが取り上げていらっしゃった、子供の時に見たギターを三味線に持ち替えた中村雅俊さんの演じる「花神」のそれです。高杉という人物を意識したのはこの高杉晋作で、でした。
今年の高杉は中の人が云々ではなく、その中村晋作とどうのこうのということすら考える気にもならず、恥ずかしながら、「扇一本」の件すら忘れておりました。それがあそこで出て思わず呟きました。「このタイミングで入れるなよ」
もうここに登場する人たちや出来事はは皆「'」なんですね。
高杉晋作で思い出して、引っ張り出してきたのがマンガ「イブの息子たち」。青池保子さんが下関出身で、高杉晋作を出演?させてるんですが、まあかっこいいこと。久々にひっぱり出してきて読んでみてやっぱりかっこいいなあと思ってしまいました。
スペインの王様やドイツの修道士もいいけれど、彼女にぜひ高杉晋作の史実を踏まえたストーリーを描いて欲しいなと思った今日この頃です。
松田優作をモデルにした中国人エージェントはエロイカの中で描いておられますしね。ぜひぜひですね。