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釈迦の成道~万物生かし合いの実相

2014-10-02 16:43:17 | 日記
生命の実相第39巻の
『釈迦の成道』という部分は
きわめて重要な部分であり、
私の先生であった方Oさんという方が
私にこれを是非読むように
勧めたのでありました。
ここには
釈迦がお悟りになった瞬間のことが載っておりますので、
是非紹介したいと
重いました。
ここは「万物生かし合いの実相」ということを
端的に理解するのに
とても分かり易い文章であると
思われます。


釈迦の成道
(参考 生命の実相第39巻 谷口雅春著)
<釈迦の成道>(二、釈迦いよいよ出家す)
「出川の釈迦像」というのがお寺などにあることがありますが、実に痩せさらぼうた、悲惨な苦行そのもののような表情をした釈迦の姿であります。ああいう姿で山を出て尼連禅河(にれんぜんが)で水をお浴びになったのが12月8日の曉け方だったのであります。そこへ一人の婆羅門の娘が牛乳で煮たお粥を一杯供養してくださったのであります。釈迦は今まではそういうものを食べるのは罪悪であるような気がしていた。やはり穀物も生きているのだ、それを食べることは穀物の生命を奪うことである、牛乳は牛の赤ん坊の飲むものである。それを飲むことは牛から人間が奪う略奪である。人間が生きている生活は殺生と略奪との上に成り立っていると思って悲惨な気持で悩んでおられたのであります。ところがその時どういうものだか釈迦はその捧げられた牛乳の粥を心の苦しみなしに、悲惨な感じなしに「ああありがたい!」とおあがりになったのであります。

<釈迦の成道>(三、転身)
釈迦の心が突然変わった。釈迦は別の世界の風光をごらんになったのであります。釈迦がその時なにをおあがりになったかというと、物質的外観からいえば牛乳のお粥をおあがりになったのですけれども、釈迦はその時に、その物質を見ずして、その牛乳の中にあるところのその牛乳を捧げた「乙女の愛」というものをおあがりになったのであります。今まで事物の物質的外観をのみ見ておった時代には、すべては殺生または略奪して得たものばかりに見えておったのです。ところが今、釈迦の前には殺生もなければ、略奪もない、あの婆羅門の乙女はわたしを生かそうとして、わたし自身は何もくれと言って求めもしないのに、それにお乳を下さった、自分で求めもしないのに、自分で穀物を作りもしないのに、自分で牛乳を作りもしないのに、ああそれなのに、わたしを生かさずにはおかないという天地の恵みの大愛が回り巡ってここにこの牛乳の粥として出現した。ああありがたい! という気持がしてきたのであります。殺し合いの世界と見えたこの世界は、悟ってみれば万物ただ生かし合いの世界だったのであります。



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