gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「様式」の死はあっても、「霊魂」の死など存在しない。

2021-03-13 11:42:00 | 日記
吾等は自己表現の場を求めて、
表現の場をさらに進歩向上できる場へと、
変えてゆくものと考えられる。
けれども「実相」なるものが本体であるという構図は、
不変だと考えられるから、
真理の把握は何はともあれ必要である。
真理しかないのであるから。
・此の世界なる「現世」は、生命の目的なるところの「自己表現」に対して十全なる機会を提供していないのである。
・吾等は愈々さらに自己表現を進めて行かねばならない。
(心と運命 谷口雅春)
【併しながら、人間が此の世界に於いて終には永遠に不死であると云おうとするのであるならば、自分はそれを信ずることは出来ないのである。自分はそれに就いて論ずるのを馬鹿馬鹿しくさえ思う。吾等は変化流動の世界に住む実体であるのある。此の世界なる「現世」は、生命の目的なるところの「自己表現」に対して十全なる機会を提供していないのである。吾等は愈々さらに自己表現を進めて行かねばならない。併しながら吾等は、恐らく肉体をば普通の腐敗分解の過程を経ずして他界へ移行する方法を知るに到るであろう。肉体それ自身は、「生命」即ち「心」の無意識的表現であるのである。換言すれば肉体は「想念の波」が霊魂の室として様式に顕現したものである。エリヤ、エノク及びイエスの如き地上に高く聳ゆる霊魂は、此の肉体なる「生命の無意識的皮袋」をば単純なる原質に還元して、肉体を地上に残さずして、霊的なる体を身に装う方法を知っていたかのように思われるのである。吾等人類のすべてが斯かる高き程度の力を有ち得るようになるか否かは自分は知らない。唯ここに確かなる一事は、いずれの場合にせよ「体」が全然変化すると云うことである。そして自分をして云わしむれば、吾等が肉体をば酸素、水素並びにその元素として空気中に残そうとも、或いはまた所謂る「死体」として地上にそれを残そうとも、それは吾等にとっては何等重大なことではないのである。いずれの場合にせよ、それは「様式」の死であって、「霊魂」の死ではないのである。】

コメントを投稿