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私の場合における百尺竿頭進一歩

2018-05-11 16:13:22 | 日記
私の場合の竿頭進一歩は
“生命の実相”への“信”の死守であった。
これをしたのが大手術の直前であった。
自分が神の子だと思えない状態にあったので、
“神の子”と思えることを
神様に全托したのであった。
その全托一つで
自分を“神の子”と思えるように
なったわけではない。
でもそれが信仰の出発点であり、
勇気を必要とした。
つまり「生命の実相」以外のものを
信じないという大決心であったのだ。
それから自分を“神の子”と確信して行くための
修行が始まった。
つまりはじめ知的な確信だったものが
感情的に身に付かなければ
知的な信仰で終わってしまうわけであり、
自分と“言”とが一つになっていないので、
「信」はまだ成立していないのだ。
“人”と“神の言”とが一体になったところで
「信」が成立するわけであり、
「信」が成立しないと
安心感はまだ得られていないのである。
私は未だ“神の言”それ自体になったわけではない。
ただ方向性は見えている。
谷口先生がおっしゃっているのは
完全な神様へのお任せである。
絶対他力だと思う。
だから完全ではないが安心感は得られている。
今日のブログで言いたいことは、
信仰とは人と言とが一つになるということと
百尺竿頭進一歩とは
これは私の場合だが
「信」ということを
勇気をもってやった、
ということである。

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