「実相」というのは
霊的原型のことである。
そしてその霊的原型である実相を
どのようなものとして観じたら良いのかといえば、
それはキリスト、釈迦が説いた世界、
聖経『甘露の法雨』が説いている世界である。
つまり「実相独在」の世界である。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【そのとき直ぐ彼は自分の心に描くイメージを変化しようと決意したのだった。そしてそれを実行したのだ。彼は自分の心の中に新しいイメージを~生き生きした、強健で、活気臨々呼たる男のイメージを打ち建てることにしたのだった。
なにか変化が起った。彼は特に体重を減らすために努力する必要はなかった。彼は自然に過去の肥っちょのヨボヨボした姿をつくり出すことに貢献していた食物を好まなくなって来たのだった。内部に描いたイメージが変ると外部の姿はその内部のイメージに一致するように変化しはじめたのであった。そして、わたしが彼を見たとき、彼は輝くような健康の雰囲気を周囲に放つ新しき人間に変っていたのだった。彼は今や、実相円満の姿そのままが、自己の“生命”に輝き出るようになったのだった。
実相の“聖なる完全なイメージ”なりアイディア~これをソクラテスは聖なる原型(Divine Prototype)と呼んだ~この内部の人間像は何も新しいものではない。われわれは“人間の顔”を“人間の顔”になるように、“人間の手”を“人間の手”になるように、自分で工夫してつくらねばならぬことはないのである。われわれは身体の各器官の機関を如何にして適当にはたらかせばよいか知る必要はないのである。ソクラテスが“聖なる原型”といったパターンが各人の内に宿っていて、その原型の内に宿っている智慧が、その実相の原型を具体化するには、各器官を如何に働かせばよいかを知っているのである。】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます