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谷口雅春先生のお悟りの瞬間

2019-03-06 17:14:41 | 日記
谷口雅春先生のお悟りの内容については
生命の実相第二十巻の自伝篇に記されているので
これを改めて取り上げて
勉強させていただこうと考えた。
私は現在、谷口雅春・ホルムス共著の『心と運命』というご本を読んでいるので
その本から引用することによって、
雅春先生のお悟りに
迫っていこうと思う。
(参考 生命の実相第二十巻 谷口雅春)
【ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空」という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大涛(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。
「物質はない!」とその声は言った。で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。
と、突然その大涛のような声が答えた。「無より一切を生ず。一切現象は念(こころ)の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無よりいっさいを生ず。有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、『無』より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる仮城にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象無し。なんじの肉体も無し。」
では、心は“ある”であろうかと思うと、その瞬間、「心もない!」とその声は言うのだった。今まで、わたしは「心」という得体の知れない悍馬(かんば)があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によって、わたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのだった。
「心もなければ何も無いのか」とわたしは再びその声の主にたずねた。
「実相がある!」とその声はハッキリ答えた。
「無のスガタが実相であるか。皆空が実相であるか」とわたしは尋ねた。
「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五蘊が皆空であるのだ。色受想行識ことごとく空である!」
「空と無とは異なるのではないか」とわたしはたずねた。
「空と無と異なるとは思うな。五蘊皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓く。空を無とは異なると思い、『無ではない』と思うからまた『五蘊は“無いではない”』と引っかかるのだ。『五蘊は無い』とハッキリ断ち切ったところに、実相が出て来るのだ。“無い”ものを“無い”としたところに、本当にアルモノが出て来るのだ。」
「では、実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。
「実相とは神である。“ある”ものはただ神“のみ”である。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。
「心も“無い”のが本当ではないか。」
「“無い心”は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心、仏、衆生三無差別と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。衆生を抹殺(ころ)し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに、実相の神、久遠実成の仏が出て来るのだ。」
「それが、キリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」
「そうだ。肉体イエスを抹殺(ころ)した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である! 今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」
わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛(さんらん)と満ち漲(みなぎ)った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたが、それはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼をひらくと、合掌したまま坐っている自分をそこに見出したのであった。】



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