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人間は人の貌(かたち)をとるキリスト(真理=霊)なのである。

2020-04-02 10:23:21 | 日記

人間自身が真理キリストの示現であり、

“生命の実相”の示現である。

示現ということは「そのもの」だということだ。

人間の細胞の一つ一つが生きているのだから、

人間の肉体はみえないが“神の子”理念であるはずで

足りないものはただ一つ「自分が神の霊なのだ」

という自覚だ。

その“神の子”の霊とは真理(神の言)であり、

「言」は「神と共にある」のだから、

「神と共にある」という自覚がないと

神が顕われないのである。

実際は祈ろうが祈るまいが

神がここにいて

“神の子”もここにいるのである。

現象世界全部が“神の子”(実相)の示現だから、

神しかないということである。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

【イエスは、神と等しくあることに固く執着することなく、みずからキリストと称して、人の貌をとるキリストとして、完全に自己とキリストの一体の自覚になり切ってしまっていたのであった。彼は“天の父われに居まして御業を為さしめ給う也”と称して、内に宿る神を説いたのであった。彼が「われに由らで父に至る者なし」と説いたのは“内在のキリスト”の自覚なくして“父に至るものはないという意味を説いたのであった。またピリピ書第2章5節に「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と説かれている如くキリスト・イエスの心を心とせざれば何人も神の全能をわがものとすることはできないのである。キリスト・イエスの心を心とするとは、神の霊と一つなるところの霊を自己の“内”に有つことを知ることである。わたし達は、神を遥かの彼方に置いて跪いて拝んだり、神に向って話さなければならぬことはないのであるということをイエスは完全に知っていたのであった。否、わたし達はキリストの意識~すなわち神と一体の自覚を“神に通ずる道”として神の御許に行くべきであると彼は説いたのであった。】


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