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表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき・・・

2018-01-09 09:51:51 | 日記
人間我がまだ残っている間は
無心になれないので、
神想観をしても
実相が顕われにくいのです。
このことが
谷口雅春先生の「神想観の神髄」というご文章に
あります。
【わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波立たずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。すべての善きものは悉く、この深く湛える根源より発するのである。これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。キリストが「我れみずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在(いま)して御業(わざ)を為さしめ給うなり」と言ったところの「何事をも為し得ない我みずから」とは、波立ちさわぐ表面の自我であり、その表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき、内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り、大いなる業(わざ)を成就するのである。】
神想観が成功する時というのは、
即ち実相を観る状態になるのは、
まさにこの時であると思われる。

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