上発地村から

標高934mぐらい日記

遥かなる雲南の旅 十五幕(勐拉温泉からタイ族の村巡り)

2018年05月30日 | Weblog
ヤオ族のおばさんを降ろしたあと輪タクは検問所にさしかかった。竹でできたバーが道をふさいでいる。横の小屋からおばちゃんがやってきて何やら運ちゃんと会話し、竹のバーが手動で上げられた。どうやらここが勐拉温泉の入口、ここで温泉入場料を払うらしい。S氏がお金をおばちゃんに渡し僕らは駐車場らしき広場で輪タクを降りた。川を渡りブーゲンビリアのアーチを抜けると緑色の池のようなのが現れる、どうやらここが温泉らしい。入浴客はまばらで向こう岸(向こうの浴槽の縁)に水着を着たちょっと太めのおばちゃん達が二人ほど座っているだけだった。小学校の25mプールぐらいの広さだろうか、たぶん縁から大きな木が覆いかぶさるようにせり出しているのでその反射もあって温泉全体が緑がかって見えているようだった。木陰の温泉は南国のリゾートスパって感じで、S氏はたまらず靴下を脱いでさっそく足を湯舟に漬けている。俺も一緒になって靴下を脱ぎ温泉に足をつけてみた。温度はぬるめ、こんな感じだったら一日中のんびり入っていられそうだ。ただ混浴ということもあり全身入る場合は水着を着用しなければいけないみたいだった。S氏はこの感動をすぐ伝えねばと思ったらしく、足湯しながら愛妻に国際電話をかけていた。(いまどき国際電話っていうのかどうかわからんが)
温泉施設っていうと日本ではもっと大々的に展開するはずなんだろうけど、ここは穏やかな佇まいだった。そもそも中国では温泉文化っていうのがあんまり盛り上がっていない気がする、だいたいこっちに来てからバスタブのついたホテルの部屋なんて一つもなかった。
「いつも冷え性がひどくてなんとかならないかなって思ってるんだけど…」っていう女性の友人がいたんだけど、彼女は冬でもシャワーしか使っていなかったらしい。とにかく灯油代がかかろうが何しようがお風呂にちゃんと入るべきと強く説得したら、そのあと風呂に入るようになったらしく、いくらか冷え性が改善したって言ってた。とにかく風呂に入ってカラダを温める行為っていうのはどんな健康法を試すよりもまず先にやるべき事なんだと思う。風呂に入る習慣が日本人の長寿を支えてると言っても過言ではないはずだ。
とはいえ僕らはリゾートを求めて雲南に来てるわけではないのでここに長居するつもりはなかった。足が温まったところで靴を履き、来た道をのんびり歩いて戻りながら途中来た村を散策することにした。ここらへんもバナナの木がちらほら見受けられて中には食べなれた大きさになった房状の青いバナナがたわわになっている。小学校のころ教師が「目の前にバナナがなってればとりあえずはそれ食べて生きていられるからいいなぁ」みたいなことを言っていたがそれもどうなんだろうとこれを見て思う。バナナって野生にあるもんじゃなくて人間の手がガッツリはいって無理やり栽培されてるものなのだ。のんびり南国それすなわちスイートバナナって思っていたらそれはかなりの思い違いと考えていい。
道端にはこんな田舎にも携帯電話の鉄塔だけはしっかりあって、S氏は心置きなく国際愛妻電話をかけることが出来ている。民家のブロック塀には相変わらず性病科病院の広告、ここでは婦人性病科ってなってたが大筋は一緒だ。
心理学者のアドラーは「すべての悩みは対人関係の課題である。」としているが、たしかに人と交わらなければ性病もうつらないし色んな人間関係の摩擦も起きない。ただ人は誰かとかかわらないと生きていけないし、かかわりの中で喜びも悲しみも怒りも性病も貰い受けるのだ。とはいえコンドームをしっかり使って交わったほうがゼリーが塗ってある分摩擦も少ないだろう。人間関係はべったりするよりは、薄皮一枚隔てたほうが上手くいくことだってあるのだ。薄皮一枚ぐらいじゃ相手に失礼ってことは無いだろうと思うのだが…
ぶらぶらと緩い下り坂を歩いていくと左手にきらびやかなタイ寺院が見えてきた。取り囲む塀にはブーゲンビリアが垂れ下がっていて、お寺の華やかさを一層際立たせている。門も美しい金で塗られていて何層にも庇が重なっている。門のてっぺんにはシルバーの尖がった飾りがついていてなかなか美しい。「勐拉大佛寺」と書かれてあるその門をくぐり抜け、靴を脱いで本堂に入ってみた。お坊さんは常駐していないようだったが、本堂の中心には金色の大仏様が安置されていて厳かな雰囲気が漂っている。こういう場所っていうのは日本でもそうだが実に清々しい気持ちになる。日々の生活空間とは違うこういう異空間が時に必要なのだろう。
寺を後にするとすぐ近くに集落があった。おじさん二人が山から切り出してきた孟宗竹を鉈で割って何かの資材にしていたり、水牛が家の軒先で水桶の水を飲んでいたり、大量のバナナの房を日陰に置いて荷積みを待っているおじさんなんかを横目に集落の路地に入って行ってみた。するとおばさんが家の外で糸車を回し糸を紡いでいた。その横では違うおばさんがその糸を使って反物を編んでいる。これはこれは!と近づいていきS氏の通訳で見せてほしいとお願いして家の敷地に入らせてもらった。するとそこん家のおじさんもやってきて僕らにきゅうりの皮を剥いてごちそうしてくれた。いまどきというか、日本でもデモンストレーションでなくガチで糸を紡いでいるところを見たことなかったので自然と興味がそそられた。隣の家を覗くと今度はバナナを回転式のスライサーで削っているお兄さんがいて、隣ではそのオヤジさんであろうおじさんが竹を薄く裂いた材料でラグみたいなのを五畳ぐらいまで編み進めていてこれからまだまだ伸びていく感じだった。ここでも見学させてもらってる僕らにバナナやもち米の粽(ちまき)をふるまってくれた。使い古しのペットボトルに入れた水はさすがに遠慮したけど、こういうおもてなしを受けるのは本当にうれしい。人との交流が旅一番の楽しみだっていうのはS氏のほうがことさら感じてようだった。ちまき親子にお礼を言って村内をさらにブラついていると今度は機織りしているおばさんに出会った。とにかくみなさん家の軒先みたいなところで作業しているので、ぶらっと歩いているとそういうことになるのだ。
日本は屋外と家屋っていうのがしっかり分けられすぎていてこういう出会いが街を歩いていても少ない。冬が寒いのでどうしてもそういうスタイルになってしまうのだろうけど、昔の百姓家のように「土間」っていう空間が家の中にワンクッションあると、もっと外仕事に対して活動的になれるんじゃないかと思う。オープンカフェが都会で流行ってるのも(流行ってるんだっけか?)そういう気分に都会人がなってるからなんだと思う。無理にアウトドア志向になってグランピングしなくても、普段の生活から屋外と家の中とのつなぎ部分を意識していればもっといいライフスタイルになるような気がするのだが。こっちにきてから田舎ではみんなどんぶり持って外でメシ食ってたもんな…(まさにスタンディングオープンカフェだ)
機織り機はその辺の材木を拾ってきて組み立てたようなもので大雑把な造りだった。日本で見るようなカチっとしたものではないけれど、操作方法や仕組みはまるっきり同じ、ということは機織り機っていう道具も究極形になっていて、もうこれ以上進化すんの無理!っていうところまできたのだろう。十里村では落胆させられたこともあったのだが、このタイ族の村にきて少しだけ穏やかな気持ちになった。家内制手工業がまだ経済をしっかり担っていて、エキジビションでない丁寧な暮らしがここにはちゃんと残っている。プラスチック文明と程よい距離感を保って生活しているタイ族に自分の田舎での暮らし方のヒントを見つけたような気がした。ここにはゴージャスは無いけど極度の貧困も無い。ただ日本の田舎者がこの村を覗かせてもらってああだこうだいうのも甚だ不遜ではあるのだけれど…
タイ族の村を後に僕らはホテルへ戻ることにした。途中オレンジ色の三輪トラックを捕まえヒッチハイク、荷台におばさんと相乗りになって三人とも激しく勐拉の町まで揺られていった。町はずれで降ろしてもらい運転手にお礼のお金を払おうとするも彼は「いいよそんなの!」と言って受け取ろうとしなかったがS氏はなかば強引に紙幣を彼の手に渡した。ホテルに帰る途中でアイスを買い食い、ビールとつまみも買って一休みの体制を整えた。到着してすぐビールを開け、いつものテラスに行って本を読みながらのんびりした。中庭では若いお父さんが三輪リアカーにタンクを積んで何やら液体を運んでいた。ちっちゃな男の子がリヤカーにつけられているヒモを引っ張ってお父さんを手伝っていてなんともかわいい。
読んでる本はジェーン・スー著「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」全くここの雰囲気とかけ離れた内容なのだが逆にギャップ感満点で面白い。半分ぐらい読んだところでビールの酔いが回ってきたらしくテラスの椅子に座ったまま石でできた広めの欄干に突っ伏して寝てしまった。風がちょうどよくて気持ちよかったのも手伝っていた。S氏も部屋で一眠りして次の行動に備えていた。
夜の七時半ごろホテルを出て夕食を食べに出かける。食堂に行く前にスーパーマーケットでお土産を物色、目星をつけておいてからその後食堂に入って夕食をとった。いつもはS氏にメニューの選択を任せていたが、今回は最後に自分の意思も主張し、牛センマイとセロリの炒め物を注文し、北京の燕京ビールも頼んで勐拉最後の晩餐を堪能した。薄口のビールもなかなか良くて料理にバッチリ合っていた。ただ「老百姓飯館」っていう店の名が少し気になっていた。老とは古い、百姓は人々と訳されるのだが、日本語と中国語は漢字っていう共通部分がありつつも全く意味が通じないっていうのが逆に厄介だなって思う時
がある。それが相互の誤解を生んでいる発端になっているのかもしれない。

まあそんなこんなで勐拉の夜は更けていった。いよいよ旅もフィナーレに向けて残すところあと僅か、もうここまできたら多少の誤解や偏見や思い込み、羨望、郷愁、名残惜しさといろんな感情全部ひっくるめてスパートしていくしかないだろうとちょっとやけくそにも似た気持ちになっていた。

あとすこしだけつづく… とりあえず終わらせないとけじめがつかず心の収まりが悪いので…






遥かなる雲南の旅 十四幕(勐拉ぶらぶら旅)

2018年05月14日 | Weblog
市を一通り見てS氏との集合場所に向かう途中、屋台で何か食べているS氏に偶然出くわした。
「それは何だい?」と聞くとどうやら本人もよくわからず注文したらしく「多分トウモロコシの粉をふかしたようなものだと思うんだが…」と曖昧な答え、美味いかどうか訊いたらかなり不味いらしく最後まで食べ切れなかった。なんでもかんでも食べてみればいいってもんじゃない、中には口に合わないものだってある。一緒になって市場をもう一回り。青いテントのところに人だかりができていたので覗いてみたら日本でもたまに見かける実演販売をしていた。売っていたのはなんの変哲もないフライパン、どうしてそんなに人が熱心に見ているのかは謎。S氏はほとんどサクラじゃないかと言っていたけどそんなに雇ってたらもうからんだろ。その他にはちょっとHなセクシービデオを売っている店や漢方薬系の店、一番ビックリしたのは金平の町で手作り虫よけ帽子を売っていたおじさんが、ここでも同じ帽子を売っていたことだ。移動の手間賃を考えてもかなりの売り上げがないと厳しいと思うのだがそんなに売れてる気配はない、他人事ながらおじさんの商売を心配してしまった。
S氏はせっかくだから屋台で昼間っから酒でも飲みながら、焼肉でも食べてのんびりやろうじゃないかということになり、タイ族のおばちゃんがやってる屋台に腰掛け。香辛料がべったり塗られている豚バラ肉を炭火で焼いて、ぼくはツボレグビール、S氏はコップ白酒っていう感じで昼飲みに突入した。S氏は完全にこの市の雰囲気を最後まで楽しもうとするモードに入っている。こういう時はもう一人は手綱を引く役割の人間がいないと危ない。そういうのを俺にしては珍しく察知し(本来は行っちゃうタイプなので)抑えの役回りに徹した。そこの店には先客の二人連れの若い兄さん達がいて、もう朝から飲んでるらしくいい感じに仕上がっていた。水色の半袖サッカーウエアを着たイケメン兄さんと厚手のピーコートを着込んだちょい禿兄さんの二人組で、酔っているせいもあって席に座るとすぐに酒をおごってくれて、彼らが注文した焼きたてのつまみの肉を僕らに進めてきた。禿兄さんは正面の見えるところの髭は綺麗に剃ってあるのに顎の部分だけ異様に長く剃り残してある。そういうのがおしゃれなのかただの不精なのか判断しかねたが、彼にはよく似合っているスタイルだった。イケメン兄さんはたしかに男前なのだが、どうも酒にやられるタイプ(俺と同じ)のようで一緒に飲んでいる時もフラフラして、S氏と絡み合いながらご機嫌な様子だった。なんか僕らがきて変なスイッチが入ったらしく、向かいの同じような露店の飲み屋の店主のねえさんにプロポーズしてくるといって乗り込んでいった。勢いに任せて行ったものの相手にされなかったようで敢え無く撃沈、諦めきれず無理やり肩を抱こうとするも、ものすごい剣幕で怒られて僕らの席にスゴスゴ戻ってきた。合コンや結婚相談所も無い田舎では、出会いを求めて都会に出てくるも実を結ぶっていうのはなかなか難しいようだ。昔は閉鎖された村の中で、長老の仲人で若い男女が引き合わせられるっていうのが昔の少数民族の婚約のスタイルだったんじゃないかって勝手に想像しているのだが、自由恋愛っていうのは一見いいようにみえても、男女双方にとっては婚期を遅らせる一つの原因になってるんじゃないかとも思う。それは日本もまた同じなのだろうけど…
俺はどうもこの空気にどっぷり浸かることができず、一足早く宿に戻って一息つくことにした。S氏はもう少し残って兄さんたちと交流を深めるらしかった。なんかあったらメールしてくれと言い残し一人宿に戻った。
宿にはテラスがあってそこにも洗濯物を干しておいたのだが、厚手のジーパンまですっかりカラッと乾いていた。俺はビールとつまみを買い込みテラスで風に吹かれながらチビチビやり、持ってきた一冊目の本を読了した。中国奥地のホテルのテラスで日本の小説を読むっていうのはちょっと不思議な感じがしたが、本来は観光地巡りばかりせずに、ロケーションのいいホテルでゆっくり過ごすっていうのが上級者の旅の楽しみ方なんだろう。一旦日本での出来事をすべて忘れて、もしくはごちゃごちゃになってどこになにがあるか分からなくなった引き出しの中身を一旦外にひっくりして自分を中を空にしないといけない。そうしないと何にも入らなくなってしまうし、どこに何があるのかすらわからなくなる。いらないものは捨て、必要なものをまた引き出しに入れなおおしていつでもさっと出せるようにすればいいのだ。ただS氏のようにいらないだろうと思って捨てまくってしまい、日本に戻ってから、あれはどうしたっけこれはどこにしまったっけ?みたいになると日常生活に支障をきたすので気を付けなければならない。日本では最低限必要なものが中国の奥地よりは多いのだ。
テラスでのんびりしていたら、交流を深めたS氏が帰ってきた。豚バラ肉のスパイス漬けが美味しかったらしくもう一枚注文してみんなで美味しくいただいてきたと言ってご満悦だった。白酒も大分いただいて楽しんだようだ。一休みしたらまた町に出て、近所の村にでも散策に出かけてみようということになった。街はまだ朝市の余韻が続いていて、美しい青いワンピースを着たタイ族の女性が一本のサトウキビを小さく切り分けて売っていたり、首からかけたピンクの紐状の飾りが美しいヤオ族の女性が真剣な眼差しで鍬(くわ)の柄を選んでいたりするのは素敵な光景だった。
輪タクをつかまえようと街はずれの橋の袂(たもと)までいくとなにやらまた人だかりができている。覗いてみると、タイ族の女性が織った黒の麻の反物をヤオ族の女性が品定めしながら買っているところだった。しっかり手作りで織られたそれは本物の風格があり、実際その反物で彼女たちの民族服が作られているような大人気商品のようだった。S氏はここでついに敏腕バイヤーの血が騒いだらしくタイ族の女性と値段交渉していた。しかし大人気商品らしくほとんど売れてしまい、残っている品もヤオ族の女性が抱え、S氏は競り負けてしまったようだ。まあ日本人が商売目的で買うよりは、地元の女性が普段着ている服の素材になったほうが本来の目的に合っている。
麻織物の買い付けに失敗した僕らが次に遭遇したのは苗族のおばばがなにやらお香を焚きながら呪文のようなお経のようなモノを唱えて若い女性におまじないをしているところ。女性は体の調子が悪いのだろうか、浮かない顔をしておばばに全身にお香(薬草を焚いたようなモノ)燻りかけられていた。どっちかっていうと病院へ行ったほうがいいと思うのだが、スマホを片手に祈祷されてるその女性もgoogle禁止の中国で自分の病状の検索ができなかったのかもしれない…
橋を渡り街はずれまで歩いてきたところで輪タクを捕まえた。歩いてくる途中「温泉7km」という看板があったのでそこにでも行ってみようかということになった。二人で乗っていると途中荷物を重そうに担いで歩いていたヤオ族のおばさんに運ちゃんが声をかけた。ここでも相乗りさせられたのだがこういうのは悪くない。S氏がおばさんと交流を試みたのだが彼女があまり社交的じゃなかったため失敗に終わってしまった。おばさんは途中の分かれ道で輪タクを降り山道を登って行った。おばさんの暮らしぶりにも興味あったのだがいちいち引っかかっていたら時間が足りない。僕らは当初の温泉を目指しそのまま座席に座ってじっと我慢していた。輪タクから眺める景色は日本の田舎と雰囲気が似ている。温泉が出るところっていうのは日本的なのかもしれないと思いながらいざ勐拉温泉へ

  次回へつづく





遥かなる雲南の旅 第十三幕(勐拉ビビッド朝市編)

2018年05月13日 | Weblog
勐拉賓館に何とかチェックインできた我々、とりあえず溜まった洗濯物を洗い、部屋にヒモを張ってそこに洗った衣服を引っかけた。旅は洗濯をいかにこなすかといったことも重要なのだが、S氏の赤い大バケツはここでも抜群に役割を果たしている、さすが敏腕バイヤー&旅の達人だ。
洗濯を終えたので今度は夕飯、まだ明るい勐拉(モンラー)の町に出て美味そうな店を物色する。街並みは昔ながらの古い建物がそこここに残っていて古き良き中国を思わせる風景、どうしてS氏がここに来た時からうれしそうな表情をしていたのかが彼の説明でやっとわかった。俺にはどの建物も同じようしか見えないのだが、見る人によっては全然違うらしい。街路樹は南国チックな花をつけた木が多く、デイゴやブーゲンビリアや棕櫚(シュロ)なんかが雰囲気があって美しい。まだちらほら路上で野菜や果物なんかも売っていたのだが、マンゴーが山積みになっているのをみると南国感が倍増されている。日本ではマンゴーなんて高くて手が出ないけど、こっちじゃ普通に食べれる感じ、とはいえ普段食べ慣れてないからそんなに購買意欲もわかないんだけどね…
この町もあんまり遅くまで店がやってる風でもなかったので早めに夕飯にしようと街の中心部の食堂に入った。S氏は例のごとくショウケースに入った野菜をチェックして店の人に注文している。僕はほとんど彼に任せて口出ししなかった。間もなく運ばれてきた料理は「白菜と豚肉の醤(じゃん)炒め」「セロリと豚肉の醤炒め」「茄子とピーマンの唐辛子炒め」と「チャーハン」に「燕京ビール」
たぶん中華料理店のメニューに中国語で書かれてたら高級中華でお高い雰囲気なんだろうけど、出てきた料理はいたってシンプル。ただどれもこれも無茶苦茶美味い。何度も言うようだが素材の野菜が美味いのだ。こっちは自家消費が基本だから、見た目より食味を重視した品種が多いのかもしれない、そう考えると金平の朝市で買った野菜種を日本で作って食べるのが本当に楽しみである。中華は炒め物主体の料理になってしまうので、中国人が冷めた料理を食べない理由は納得できる。熱いのを勢いに任せて一気に食べるのが中華の醍醐味なんだろう。僕らも勢いに乗って目の前の料理をわしわし食べる。わしわし食べながらS氏は愛妻と状況確認電話をしている、なんて妻思いの夫なんだろうと感心するが、愛の確認スタイルは人それぞれなのだろう。
洗面器ぐらいある大きさの器に盛られたチャーハンを残らず食べ終え、店を出てそのまま夜の街を散策する。ディスカウントストアーみたいな店に入り店内の品物を物色、お土産になりそうなモノを探してみるが、なかなかこれぞ中国旅行土産っていうよなものに出会えなかった。二十歳の時の初めての中国旅行では、例の元カノに粗悪なシルクのハンカチみたいな物を買っていき喜ばれなかった苦い思い出がある。一緒に旅行していた村の親戚のおじさんは当時爆発的に流行った中国製毛生え薬「101」を購入し(多分101の偽物だったと思うし、たとえ本物だったとしてもどうかっていうシロモノだったが)日本に帰ってからそれを塗ったところ頭皮がタダレはじめ、その後しばらくタダレは治らなかった。中国4000年の歴史が育んだ秘伝の「ナントカ」っていうものは一番買っちゃいけないのだ。なかなかお土産選びってのは難しい。その後いつものように中国式マッサージを受け勐拉のファーストコンタクトは終了した。ペットボトルの白酒は毎晩のお楽しみ、気持ちよく眠れる寝酒になっていた。
翌日勐拉の朝はちょうどいい気温、街に繰り出すとすでに飯屋は賑わいはじめていた。一日のスタートは食事から、S氏が日本でも朝食を重視してるのはこういう文化に影響されてるんじゃないかと思った。飯屋が賑わいはじめた後からぼちぼち路上にも露天商が店を開き始めた、どうやらこの雰囲気は朝市が立つ前触れ、これは市に狙い通りに当たったとS氏と一緒にニンマリしていた。賑やかそうな方へ足を運んでいくと、赤テントの店がたくさん立っていた。売っているものもカラフルで、少数民族の衣装のようにビビッドな色使いの衣料品が多い。テントいっぱいのブラジャーやテントいっぱいのパンツ(日本でいうパンティですが、そういうシルエットではないガッツリ大き目のやつ)があって目を奪われた。毛糸や布も超ビビッド、ディスプレイしてあるだけでも飾り付けのように美しい。買っていくおばさん達も素敵な民族服をきてるんだけど、なぜか足元がサンダル履きっていう人が多いのが惜しい感じだ。そんな中ヤオ族の若いお姉さん三人組が布を選んでいるところに遭遇、民族服にパンプスにハイソックスといったハイブリッドスタイルなんだけど、こういう若い少数民族女性の上手なコーディネートがかわいくてS氏もかなり好感をもっていた。日本女性も和服をもっとカジュアルに着こなせればもっと日本女性的美しさを表現できると思う。ただ中森明菜の「デザイアー」の衣装や昨今の成人式の振袖に関しては賛否両論あるような気がするので気をつけなければいけないが…
衣服のお店はビビッドだけれど他の店もビビッドだった。種屋の豆も色んな種類があって色鮮やかだったり、背負いカゴ満杯にふかした「おこわ」も黄色と紫色のビビッドおこわ、バナナの葉っぱにくるんで売っているのも美味しそうで、S氏は朝飯前にも関わらず二合近く買っていた。食材を売っている民族服を着たおばさん達も微妙に着こなしが違っていて、胸をざっくり開けたスタイルのおばあちゃんや上着だけ洋風柄のおばあちゃんなど、僕らから見て着こなしが上手だなって思う着こなしがあった。(それが本当にかっこいいのかはファッション評論家に訊かねばならないが)結局のところ世界中どこに行ったっておしゃれさんとそうでないただ服を着てるだけっていう人に分けられるのだ。アジアンブティックの副店長にはそういうことがすでに分かっているらしかった。
朝市はすでにピークを迎えており、その後見る視点の違うS氏と別れそれぞれ見たいものを見に行くことにした。野菜食材ゾーンを抜けると生き物食材ゾーンに、カエルやアヒルやニワトリは二、三羽まとめて足を縛って動けないようにして売っていた、イナゴは茹で上げられてあったが、川魚はほとんど生きていた。ネズミっぽいのは焼きあがっていたし、セミも軽くローストされてた。ウサギとカメも隣り合わせで売られていたが、あれは愛玩用なのか食用なのか最後までわからなかった。黒豚は編んだ竹かごに一頭づつ入れられて売られていった。子供の頃「未来少年コナン」っていうアニメがNHKで放送されてたんだけど、その中でジムシーっていう男の子が飼っていた(ペットにしていた)豚が「うまそう」っていう名前だった。豚肉を見て「うまそう」はアリだけれど黒豚を見て「うまそう」っていうのはちょっとどうかしてる。なんて業の深い人間だろう俺って奴は…
民族服のおばちゃんがスマホ片手に野菜を売ってたり、イヤホンで音楽聴いてる姿はちょっと違和感があったがまあそれもギャップがあって面白かった。さっきから少数民族少数民族と表記しているが、実は書くたびにしっくりきていなかった。だからといってどう表現していいかわからないし民族衣装だって、ご本人たちにとってはただの普段着で特別な物という意識はないだろう。ただ図式としては漢民族が多数いる中国という中央集権国家が、末端の国境地帯にまで中国製品を行き届かせ経済を回しているような感じがした、少数民族の農業や家内制手工業で生み出された商品が安価で取引され地方の町で地産地消され、現金を手にした人たちは「便利な」中国製プラスチック製品を買い村に戻って「豊か」に暮らす、この流れにはもう逆らえない。朝市はその経済活動のど真ん中、僕らは正に最前線でそれを見させてもらったり食べさせてもらっているのだ。さっき朝飯で食べたミーセンの材料はすべてここの朝市で売っていたし、それは仕入れ品でなく生産者イコール販売者のダイレクトな商品ばかり。不味いはずがない。
「うまそう」を売っていた家族はうまいことうまそうが売れたらしく、おじいちゃんは街場で買った商品を綺麗な真っ赤な紙袋に入れ、三輪自動車の荷台に乗りこみ大事そうに抱えて自分の村へと帰っていった。

俺はキャベツを売って何を買おうか。
そういえば金平で後先考えず美しい柄のヤオ族のスカートを買ってしまった。
   
   
 特段女装する趣味はないのだけれど…








遥かなる雲南の旅 第十二幕(金水河キャンセルで勐拉へ編)

2018年05月11日 | Weblog
宿の確保をした我々は心置きなく金水河の街の散策に出かけた。
空は雲一つない快晴、気温もぐんぐん上がって半袖に短パンで十分なカラッとしたさわやかな暑さ、宿のとなりの酒屋でビールを買って飲みたいような気分だった。道は必要以上に広く、昔ながらの街並みではない。多分大昔は国境もあいまいでベトナム領との間を普通に行ったり来たりしていたんだと思うが突如「こっから中国、あっちはベトナムだ!」って線引きされてしまったんだろう、このあたりであいまいに暮らしていた少数民族はさぞ困惑したに違いない。民族の分断はなにも朝鮮半島だけの出来事ではなく世界のあちこちで起こっている。農民市場の前には「国境を越えてはいけません」と看板に書いてあり、越えたらこんな罰則があるよみたいな事が記してあった。雑貨屋に入るとベトナム人の観光客相手なのかよくわからないが、中国国内の名だたるワインが揃えてあり、ワイン好きのS氏は目を輝かせて驚いていた。そのまま大きな屋根のある市場らしきドーム型の建物に行ってみる。建物の中はがらんとしていて大量のゴミが散乱していた。掃除のおばさんが数人ゴミをほうきで履いているぐらいでどうやら朝市が終わりみんな帰ってしまった後のようだった。残っていた野菜売りのおばさんに「明日も同じように市が立つんですか?」と聞いてみたが、どうやら明日はやらないらしい。それを聞いたS氏は少し残念そうな表情になっていった。市場を後にし僕らは国境のゲートを目指し進んでいく、途中立派な小学校があったり、携帯電話の立派な電波塔が立っている。あちこちの建物の屋根には中国国旗が真っ赤にはためいていて、中華人民共和国の町だっていうのをを過剰演出していた。先ほど訪れた国境警察のある通りに出て対岸のベトナムに目をやる。バナナ畑が斜面の上のほうまで広がっていて、とにかくほとんどの畑はバナナで埋め尽くされていた。これがフェアトレード品であるのかは定かではないが、農民が最も潤うであろう作物であることは一目瞭然だ。
近年フィリピン産を中心としたバナナの生産量が「新パナマ病」の蔓延でかなり落ち込んでいるのだが、どうやら中国にも少なからず影響が出てきているらしい。なんとか早期に食い止めてほしいものだ。日本では一時期キャベツの産地で「根こぶ病」っていう恐ろしい病害が蔓延したんだけれど、今はいい農薬のおかげでパンデミックは抑えられている。農薬の適正な使用と無理のない栽培方法をしていかないとこういった病害の発生は抑えられないかもしれないが、対岸の風景はそういった意味で少しやりすぎの感は否めない…
バナナ畑からもう少し視線を下げ国境を流れる川に目をやると、いい体つきをしたベトナム側にいる男性がパンイチで洗濯をしていた。俺は外の風景に気をとられていたのだが、S氏は日本から持ってきた自分でまとめた事前資料を広げ何事か悩んでいる。ここを訪れた日本人旅行者がブログに書いた朝市が立つスケジュール表を見てその間違いに気づいていたようだった。どうやらブログを書いた人が勘違いして僕らが狙ってきた金水河の朝市の日を一日間違えて書き記していたのだ。当然今日朝市が開かれ明日は何も開催されない。S氏はガックリしていた。俺はそういうことはよくあることだとS氏をなかば慰めるというか、納得させようとした。それよりも今見ている風景を楽しもうと川に再び目をやるとさっきの男性がパンツを脱ぎ始めているではないか!?
どうやら衣服の洗濯を終え、自分の体まで洗濯しようとしているようだった。しかしここは中越国境の川(ベトナムは漢字で越南と表記される)一歩間違えればわいせつ物陳列罪で中国の国境警察に銃殺されるんじゃないかとこっちがヒヤヒヤしてしまった。男性は石鹸で全身をこすり体を洗ったあと水中にザブンと首まで浸かっていた。僕らはS氏をのバケツで洗濯をしてるけど彼は国境の川でざぶざぶ洗濯、人間のスケールは彼のほうが数段上だった。
国境のゲートは結構遠くにあり、多分行ってもただの人工物の建物だろうということで行くのを諦め、再度町の中心部に向かった。途中瑶族(ヤオ族)のおばさん4名が鋤簾(じょれん)のようなモノを担いで歩いてきた。畑仕事ではなく公共工事帰りのような感じで、ピンクの細かいすだれ状のネクタイをしていてとてもかわいい。しかしその人たち以外は民族服を着た人たちに出会うことはなかった。ここで夜になって酒でも飲みながらマッタリするのも悪くないと思ったが、さっき確認したとうり明朝の市は開かれない。事前資料を見て二人で協議した結果、この町を後にしてさっき乗って来た性病タクシーを個人的にチャーターし明朝市が立つらしい勐拉(モンラー)へ急遽向かうことにした。ここからは60kmぐらい一時間ちょっとのドライブになる。のんびり客待ちしていたさっきの佐川タクシー運転手と交渉し90元で勐拉まで乗せて行ってくれるよう話をつけた。そうと決まれば善は急げ、今晩宿泊予定だった元カノホテルに戻りキャンセルを告げると、一旦広げた荷物を素早くまとめてチェックアウトした。一度別れた彼女と二度目の別れ、少し急すぎる展開に俺は名残惜しく後ろ髪を引かれる思いだった。タクシーに戻るとなぜか車内に先客がいた。多分俺達のおごりで他の乗客たちを佐賀佐川運転手が乗せたんだろう。S氏は二人だけでゆったり乗っていき、途中面白い村や場所があったら停まって見学していこうと思ってたらしく思わぬ相乗りでその計画は崩れてしまった。加えて助手席も取られてしまい少々怒っている。
それでも性病タクシーはカラッとした暑さの中を快調に走っていき夕方五時頃には勐拉に無事到着した。「町に着いたら宿探し」が鉄則。僕らは目についた向かいの宿に飛び込みフロントに行って泊まれるかどうか聞いてみたが、受付ねえさんはめんどくさそうに「満室です」と言って僕らを門前払いした。そのまま次の宿に向かうもそこも門前払い。どう見ても満室感はないのだが、なにやら俺たちは敬遠されているようだった。
その後もう一軒「勐拉賓館」という看板を見つけ入っていってみる。フロントに誰もいないので少し大きめの声で「すいませーん」っと言いながら周囲を探す、間もなくちょっと太めのおばさんがのしのしと現れた。我われが日本人だということを告げ、パスポートを渡し空き部屋があるかどうか尋ねると彼女はパスポートを見ながら何となくめんどくさい感を醸し出していた。S氏とのやりとりでやはり近所にある警察に行ってパスポートコントロールをしてもらってきてから来てくれと言っているらしかった。案内された警察に行き金水河と同じように写真を撮られたりして審査を受ける。オッケーが出て宿に戻るも、宿の太っちょおばさんは「証明するもんがないじゃない!」とクレームをつけ、しかたないので一緒に警察に行き、さっきオッケーを出してもらった警察官に話をつけてもらってなんとか宿泊をさせてもらうことになった。もし警察署が閉まっていたらどうなっちゃってたんだろうと思うが、まあこの旅では何か問題が発生してもなんとかなってきたのでそれはそれでなんとかなっていたような気がする。
今日二回目のチェックイン、部屋に入ったらあろうことかメインの照明の蛍光灯が外されていて灯りがつかない。こんどは太っちょおばさんに逆にクレームをつけに行った。部屋に来てみてもらったら、ついているじゃないかと言って分かりにくいところにあったスイッチをオンにしたらなぜか部屋が明るくなった。照明をよくよく見ると蛍光灯が外された後のところに薄っぺらいLEDライトが埋め込まれたシートみたいなのが貼ってある。俺は彼女に向かって変な苦笑いをし頭を掻いた。僕らは日本から来たそんなこともしらない地方の田舎者だったのだ。自分たちのほうが進歩した暮らしをしていると勘違いをしていた、電波が弱くて家の中ではロクに携帯が繋がらない、テレビ東京すら映らないところに住んでるにもかかわらず。 
もう中国の秘境だって蛍光灯なんか使っちゃいないのだ……

ここにきて何かつかみどころのない疎外感を感じて少しはしゃいだ気持ちを落ち着けた。秘境を求めて奥地までやってきたものの、自分達はあんまり歓迎されてないただの外国人二人組なんだっていう事に気づいたのだ。勐拉に到着してからは過度に秘境であることを期待しすぎるのはやめようと思いはじめていた。 

この町の朝市を見るまでは……

遥かなる雲南の旅 第十一幕(さよなら天空の村 こんにちは国境の町編)

2018年05月10日 | Weblog
バスは相変わらずタイトな山岳道路を爆走していた。
こんなにもあからさまにわかりやすければ逆に気持ちがいいぐらいなのだが、強面麻雀運ちゃんの周囲の席は軒並み若い女性でしめられていた。疑うのはいけないと思うのだが、女性は運ちゃんの計らいで料金格安もしくはタダなんじゃないかと思ってしまう。車内はほとんど満席で例のバケツ席にも若い男性の乗客が座っていた。俺の席は最後列の左側窓席、となりは少数民族だと思われる緑のジャージを着た若いおかあさんとその隣にかわいい娘さん。S氏は一つ前列の右側窓席に陣取っていた。来るときと全く逆になったので、違う景色を見て帰れるのでいいポジショニングが出来てラッキーだった。ただ崖側なのでスリルは満点だ。とにかく見るものは車窓の山並みばかり、来るときはあんまり考えなかったのだが、棚田の痕跡はあるものの放棄されているかバナナ畑に転作されている棚田が多かった。やはりバナナは米よりも現金収入になるのだろう、ここでも伝統的な農業が形を変えていく最前線を目の当たりにした。途中道が崩れてタルチョが張ってあったところは、地元のおじちゃんおばちゃんによって修繕工事が行われていた。棚田の田植えをする代わりに国境の砦に通じる重要幹線道路の公共工事で稼いでいるといった感じだろうか?!とにかくそこここに違和感が見え隠れする砦周辺の風景だった。
出発してから二時間たったぐらいだろうか、道沿いにある村でバスが停車しバケツ椅子に座っていた若い男達がバスを降りていった。俺は荷物をおろしているところを窓から乗り出してスマホビデオを撮り始め、強面運ちゃんにもスマホを向けていたらいきなりこっちを見て怒鳴り出した。俺は慌てて撮影するのをやめ「対不起」(ごめんなさい)と謝ったのだが、運ちゃんはおさまらないらしく車内の後ろまで入ってきて何やら怒鳴っている。同じことを繰り返し言っているらしいのだがS氏もよくわからないらしい。とにかく「トイプーチー」と謝ったのだが納得せず繰り返し俺に向かって「@#$&#*!!]と言いながらなにか要求している。もしかしたら「ここで下りろ」と言っているのかと思ったのだが、そんなことをしたら山の中でのたれ死んでしまう。とにかく何度も繰り返して謝った。そうしたらS氏がピンときたらしく「撮った写真を削除しろって言ってるんじゃないか?!」と言うので、すぐさま動画を削除して俺のスマホを彼に差し出した。強面運転手は写真フォルダを確認すると「もうするんじゃねーぞ」的な言葉を残してやっと運転席に戻っていった。
そのあとS氏にはしっかり注意された。「カメラは注意しないといけない、旅行者だからといって相手の同意なくなんでもかんでも不用意に撮るのはよくない、相手にもそれぞれ事情があるんだから」と。確かにちょっと節操無く撮ってしまっていたと反省。日本にいても同じだ、相手の同意なくあんまり見られたくないようなところにカメラを向ければいい気持ちはしない。ちょっと調子に乗り過ぎたと反省している。
そういえば昨晩の顛末の時も、これ写真に撮っておきたいなっていうような衝動にかられたが、それこそそんなことしたらしょっ引かれてた。
ひともんちゃくの後バスはまた金平を目指して走り出した。隣の小学生の女の子が缶を開けておやつのぜんざいみたいなのを食べていたのも可愛らしくて写真を撮りたい気持ちになったのだが、さっきのいまなのでぐっとこらえ、代わり映えのしない車窓の美しい山並みの景色を撮っていた。
途中向こうからトラックが三台も連続でやって来てずいぶん後ろまでバックして道を譲ったり、このバス移動で一回だけ認められるトイレ休憩を取りながらバスは無事金平の町まで戻ってきた。時間にして三時間半、ほとんど往きの時と同じ所要時間だった。さすが強面削除ハーレム運ちゃん、プロの仕事だった。俺は彼との別れ際「謝謝!」とお礼を言ってバスをあとにした。
時刻は12時をちょっとまわったところ、ちょうど昼飯の時間になったのでバスターミナルをすぐ出た通りの「燕子飯店」に入った。「哈尼風味」とかいてあったのでハニ族のやっている店のようだ。ワンタンスープを頼んだのだが、思ったより薄味でいまいちパンチに欠ける味だった。それでも量があったので満腹にはなった。
今後の予定としては、本来金平に一泊するはずだったんだけど半日空いてしまったので、そのまま明日行こうとしていた「那発」別名「金水河」の町に前倒しで午後行くことにした。金水河は川を挟んでベトナムに続く国境の町で、標高が急激に下がり気候がかなり変わるであろう町だ。僕らは金水河行の乗り合いタクシーに乗るべくもう一つのターミナルへと向かった。例のごとく緑とシルバーのツートンカラーのタクシー、それぞれの村へ向かう客を待って数台停車していた。那発と書かれたタクシーを見つけ荷物を後ろに乗せ他の客が乗ってくるのをオレンジの花の咲く木陰で文庫本を読みながら待っていた。原田マハの「本日はお日柄もよく」っていう題名で伝説のスピーチライターの話、言葉の限りない可能性を追求していく職業ヒューマン小説だ。ここまで読み進めるにどうやら言葉はただ喋るものでなく操るものらしい…
30分ほどたったところでお客がそろったらしく、佐川急便にそっくりのシャツを着た運転手がするりと車を走らせ始めた。佐川運転手は極度の女好きではなかったらしく、となりの助手席にはS氏が座っていてご満悦な表情を浮かべている。
だいたい一時間ぐらいのドライブの予定だったが、金平の町を外れてすぐ今度は山道ではなく緩やかな下り坂になっていった。道は広くて安全そうだったがとにかくずっと下り坂、どこまで下っていくんだろうと少し不安になったが、それでもなお車は緩やかに下っていく。だんだんと住居らしき建物が見えてきたと思ったら家の屋根には赤い中国国旗があちこちで掲げられていた。お祭りのように中国国旗が飾られていたので、中国共産党の記念日なのかと思ったらそうではなくて恒常的にやっているらしかった。S氏がいうには国境付近はやはり領土の意思表示をこういう感じでしっかりしていないといかんのだということだった。「こっからは俺んところじゃけんね、入ったらいかんぜよ」的な意思の表れなんだろう。もし自分の家の前の川をはさんで向こう岸が中国だったらどんな気分なんだろと考えてみたが、竹かごや稲わらほうき同様全くイメージがわいてこなかった。
間もなくタクシーは視界の開けた町のメインストリートに入っていき「農民市場」とアーチに書かれた場所で止まった。車を降りて荷物をとりに後ろに回ったらバックガラス全面に性病科の病院の広告が貼ってあった。「ここまで蔓延してきてるのか…」とちょっと悲しい気分になる。
「町に着いたらまず宿を探す」これは旅の鉄則なのだがこれもまたあっという間に見つかった。「珍隆賓館」一泊一部屋80元(1400円)即決でここに泊まることにしたのだが、俺はそんなことよりここの受付のおねえさんが無茶苦茶気になり何度もガン見してしまった。それは彼女が絶世の美人だったからとか、絶世のスタイルの持ち主だったからではなくて、大学時代に付き合っていた彼女に激似だったからだ。別れてからも何度か似ている女性を見かけた事があったのだが、こんなにも似ている女性に出合ったのは初めてだった。「なんでこのおっさんは私の顔をじろじろ見てるんだろう?」と思ったに違いないが、そこまでしても彼女の顔をしっかり確かめたかったのだ。もしかしたらこっちに移住して暮らしてるんじゃないかとさえ思うほどだった。こういうことをS氏に言っても全く共感されないだろうことは分かっていたのだが、どうしても彼に力説せざるを得ない心境だった。彼女は慣れた様子で事を把握し警察署に行ってパスポートコントロールを受けてからチェックインしてもらいたいとS氏に説明し、警察まで一緒に付き添って案内してくれた。そもそもはじめっからこうしてくれていれば夜中十時に叩き起こされて逮捕の恐怖に怯える事態にはならなかったのだ。天空の砦村では雇われ支配人さんにそのマニュアルが通達されていなかった、やはり営盤は観光客が行くような村ではないただのハズレ村だったんだろう。
忘れてかけた苦い思いをぶり返しながら俺は元カノ受付嬢を不審に思われないように後ろからガン見していた。歩く姿もそっくりでびっくりだったのだが受付嬢の彼女は20歳前後だった大学生の時の元カノに似てるわけで、現在の元カノの姿は全く知らない。受付嬢の彼女とは全然違ってるかもしれないけれど一緒に歩きながら少しだけ学生時代の気分を味わっていた。パスポートコントロールを受けて宿に戻る帰り道、右手には大きな川が流れていて対岸にはベトナムの集落が見えた。S氏は「写真撮影は国境地帯では特に気を付けなければならないぞ」と前科のある俺にしっかり釘を刺した。「ヘタするとスマホやカメラ没収されて今までの写真が全部パーだからな」と厳重に注意を促された。宿に戻り鍵をもらって部屋に入る。ちょっと埃っぽいような気もしたが、枕元にはいつものようにコンドームが二つ用意されてある十分整った部屋だった。S氏も僕もまずはベッドに横たわり一息つく、この瞬間は一気に疲労感が和らぐ至福の時だ。落ち着いた後Wi-Fiがあったので繋ごうとしたのだが、どこにもパスワードが記されてないのでフロントの元カノ受付嬢に聞きに行った。フロントに彼女はおらず周囲を探すと向いの雑貨屋の前で男の人達と青空麻雀に興じていた。実際の元カノは麻雀するような女性ではなかったのでこれを見た時「やっぱ違うんだよな」と思いなぜかちょっと吹っ切れた。「Pass word?」と書いた紙を手渡すと少し思案した後そこに8を八つ書いてくれた。やっぱり縁起を担ぐお国柄、どこに行ってもパスワードに8の文字は多く使われている。
ネットにつながったところでかみさんにメール(ネットに繋がってもメールぐらいしかやることがないのだ)してみた。棚田の写真を送ったら「群馬の山ん中と同じだね」民族衣装の写真を送ったら「みんな大屋政子みたいな格好だね」市場の様子を撮った写真を送ったら挙句の果てに「帰ってから見せてもらうから送らなくていいよ  」って送られてきた…
感動や思ったことを相手に伝えるっていうのは相当難しい。自分の目で見て感じたことが最もダイレクトに自分自身の心に響くのだけど、それを言葉で同じように相手に響かせるにはスピーチライターのように精緻に言葉を操らなくてはいけないのだ。文章力や表現力の乏しい俺じゃ無理、もう自分の胸の内にしまって人に伝えるのは諦めようと決意をしたのだが帰ってきて数日後このブログを書き始めてしまった。
出来れば誰かに思いを伝えたい、ただテクニックが無いとなかなか伝わらない、だったら自分が読み返して少しでもその時の気分が味わえるようなものだったらいいんじゃないかと今は開き直っている。

僕は麻雀をしている元カノ受付嬢を横目に金水河の街に飛び出していった。甘くて苦い思い出を少しだけ胸に抱いて…



遥かなる雲南の旅 第十幕(天空の村 営盤  深夜の訪問者編)

2018年05月10日 | Weblog
深夜10時の突然のチャイム これはただ事ではない、直観と同時に不安が襲った。

俺は部屋の明かりをつけ入口のドアに向かい、少し慌て気味に鍵を回しドアを開けた。するとそこには四人連れの男性が立っている。
何かしゃべりかけられたが全くわからない、というよりもまず何事が起きたのか理解できなかった。すぐにS氏が出てきて彼らの中の一番背の高い一人と何か言葉を交わし、わかったわかったというような相槌を打ってから俺に「国境警察らしい、とりあえずパスポートチェックしたいと言ってる」と俺にパスポートの提示を促した。この時点で俺の動揺はピークに達していた。日本ではほとんど(一、二回はあったと思うが)職務質問を受けたことがないので、警察を前にして異様に緊張してしまっている。それに寝入りばなの完全にリラックスしていたところだったので余計に振れ幅は大きい。慌ててリュックをまさぐり、手にしたパスポートを背の高い警察官に渡した。四人とも若そうな警官だったが、その中ではその背の高い警官が一番年上のようで、服装も階級が上っていう感じだった。彼は僕に(文中で自分の呼称が僕になったり俺になったりコロコロ変わるのはその時の自分の立ち位置や気分や諸々が影響しているためで、読みづらいかもかもしれませんがご容赦下さい)何か話しかけてきたがやはり理解できなかったのでS氏に通訳をお願いした。「なんの目的でここに来たのか?」「これからどこに行くのか?」「日本での職業は何か?」といったことだった。S氏に「農家って言ってくれ!」って言うと「それは一番ダメな答えだよ」「中国で農民っていったら前にも言ったけど職業不詳みたいなもんだ!」と声に出して俺を制しした。そしたらS氏は機転を利かせ「ホテルの従業員です、僕ら二人とも王子大饭店で働いています」と答えた。確かにS氏はスキー場の名パトローラー、俺も二月まではそこで働かせてもらっていたのであながち嘘でもない。そんな感じでのらりくらりとS氏は質問に答え、とにかく怪しい人間ではないっていうアピールをしていた。実際ただ観光をしているだけで(ここでははずれちゃったけど)なんにもやましいことなんかしていない。もしも金平で手に入れたレインボー傘や竹の背負いカゴが持ち込み禁止品だったりしたらどうなるかはわからないが、とりあえずやばそうな麻薬なんかは誰かがリュックに忍び込ませていない限り入っていないはずだ。背高ノッポ警官は一通り質問を終えると、パスポートの写真を撮ると言って持ってきたカメラで僕らのパスポートを一枚づつ写真に収めた。僕の動揺はいくらか落ち着いてきたがまだまだ油断は禁物、小市民を装い神妙にノッポ警官の顔を見ながら「なんとかお許しくださいお代官様」的な雰囲気を出して見逃してもらう努力していた。日本では携帯電話の違反で捕まった時なんか軽く不貞腐れた態度を取ったりしてたのだが、中国の山奥では飼いならされたおとなしい犬のようになっていた。権力の前では、なんて俺は卑屈な人間なんだろうと多少自己嫌悪に陥ったが、しょっ引かれて豚箱に入れられ何年も雲南で拘束されるなんてことになったら泣くに泣けない。そんなことを思い不安そうで情けない顔をしている俺に一緒に来ていた腰巾着の警官は「大丈夫大丈夫…」というようなにこやかな表情を送ってくれていた。それがどういう意味ととらえていいのか判断付きかねたのだがその彼の胸には「SWAT」のエンブレム、脅しなのかハッタリなのかそこも判断付きかねていた。
そうこうしながらS氏と20分ほどやり取りをしノッポ警官も納得し最後は笑顔になっていた。「では、お騒がせしました、気を付けて」みたいな事を中国語で言い、部屋を出て行く際には英語で「See you!」と言って腰巾着と共に部屋を出て行った。理解できる言葉で話されればこっちも安心する、こちらも笑顔で「See you!」と答えたが腹の中では「コンニャロー!」って思っていた。
四人組警官が帰ったあと僕らは日本語で心の声をぶちまけた。「こんな夜に来やがって!」「誰かがチクったに違いない!」「ほんとビックリしたなぁもう」などと言っていたらまたもやチャイムが「キンコーン」と鳴った!!   ドアを開けると四人組が再び立っている……
「やっぱ逮捕かぁ」とがっかりし雲南拘留生活が頭をよぎり一瞬家族の顔が走馬灯のように浮かび上がった。

しかしそうではなかった。どうやらパスポートの写真だけではなくて、本人がパスポートをもって写ってる写真が欲しいということだった。そうでないとノッポ警官が上司に「なにやってんだ!」と怒られるらしい。僕らははいはい何でもしまっせとパスポートを手に犯罪者が撮るような正面と横からの写真をグラビアアイドル並みに愛想いい顔でポージングした。これぐらい念入りに仕事しないと国境警察なんて普段はやることなんてないんだからと僕らも納得し全面的に協力、ノッポ警官は写真に収めると、ちゃんと撮れているか確認し再度「See you!」といって部屋を出て行った。

僕らは溜息をついてベットに寝転んだ。S氏は「しかたないよ、国境ではパスポートコントロールは当たり前、彼らだって仕事だからな」と言い「僕は過去に国境でもっとすごい修羅場を経験してる」と彼の武勇伝を聞かされた。もし一人で同じ状況になったらと思うとゾッとするような彼の体験談だった。今回もS氏のタフさに脱帽した。日本ではほとんど感じていなかったが中国では頼りになる男ナンバー1とあらためて彼を見直す結果になった。
さっきの出来事をベットで横になりながらああだこうだ話していたのだが、緊張が解けた僕らはどっと疲れが出たようでそのまま眠りに落ちていった。多分0時近くだったと思う…

ニワトリの鳴き声で目が覚めた。翌朝窓の外はうっすらした朝焼けの山並みの風景、多分あっちの方角に帰らなきゃいけないんだと思うと結構気が滅入る。本来ならば朝市を見る予定だったのだが、市はどうやら立ちそうにない、それではさっさとこの村からとんずらだということで、早々に荷物をまとめて外に出た。チェックアウトをしているS氏を横目に不良在庫がありそうなここの商店で品物を物色していたら、旧中国軍(そんなのない)がもっていたような深緑の水筒があったので思わず購入してしまった。リュックの外側に吊るしたらまるで山下清になってしまったが、日本に帰ったら携行ガソリンタンクに使えそうというイメージがバッチリ湧いていたのでよしとする。雇われ支配人家族に別れを告げ昨日到着したメインストリートに出る。すでに強面バスはスタンバっていて屋根の荷台に大きな荷物を積み上げていた。僕らも大きなリュックを預け、時間が少しあったので定番の朝ミーセンを食べに行った。たまには違う朝食にすればいいと思うのだがなぜかこれが食べたくなってしまう。昨日の店とは違う店だったが客が多いので美味しい店なんだろう。実際出てきたミーセンはそば粉麺で野菜たっぷり具沢山、朝にピッタリのあっさり味で美味しかった。S氏と同じものを注文しているのになぜか色合いや具の量が違うのは、おばちゃんが適当に作ってるからなんだと思うが、そういうあいまいさが本来もっと日本に必要なんじゃないかと思う。だから最近俺はたいして美味くない料理店でも、それはそういうアトラクションだと思って楽しむようにしているのだ。
腹ごしらえを終えバスに向かうメインストリートでは一日の営みが始まりだしたようで人の往来も増えてきた。汚い街だなって最初思ってたのだが、早朝から掃除のおじさん達が現れてゴミを集めてトラックに積み込みはじめたら見る見るうちに道路は綺麗になっていった。
警察に怪しまれ、なんにもないただの砦の村だったけれどこれはこれでよかったんだと自分に言い聞かせながらバスに乗り込んで金平への帰路についた。これを書いていて気づいたのだが、ここ「营盘」は日本の漢字で書くと「営盤」となる。なんとなく砦の村のようなイメージがするのは気のせいだろうか…

「いきはよいよい帰りは怖いぃ~♪ 怖いながらも通おりゃんせぇ~通りゃんせ~♫」
とりあえず我々は再び「地獄の死ぬ死ぬロード」を通って帰らなければいけない運命となった…




遥かなる雲南の旅 第九幕(天空の村 営盤  ぶらぶら編) 

2018年05月09日 | Weblog
宿はあった。それもあっという間に見つかった。
どうやら旅行者はぼちぼちいるらしくて思いのほかしっかりした宿だった。とはいえ外国人観光客ではなく中国人の旅行者用っていう感じだった。商店も兼ねているらしく中庭もあったりして天空の村にしてはずいぶん広い。三階建ての二階と三階が客室になっているらしく、ぱっと見10部屋ぐらいありそうだった。受付のおじさんは気さくで僕らをウェルカムに迎え入れてくれ、S氏とのやり取りでスムーズにチェックインできた。
部屋に入ると思ったより綺麗な室内。ベットは今までで一番硬いがシーツはパリッと清潔、ただやはり気になったのは、枕元に四つもあるコンドーム。どう見てもラブホっていうような感じの造りではないのだけれど…
こっちの村々を旅してずっと気になっていたのだが、とにかく性病科の病院の看板が無茶苦茶多い。商品の看板(例えばキンチョールとかオロナミンCとか)なんていっこも無いのに、男性科と書いてある昆明の大病院の看板がそこここに掲げられていたのだ。挙句の果てには来るときに乗った強面バスのシートカバーにまでも性病科の病院の広告が張ってあった。どういうことなのかと思案するに、つまり無菌状態の閉鎖的な少数民族の村に外部から黴菌が入ってくるとパンデミックをおこしてしまう可能性があるんじゃないかと、いやもう実際パンデミックは起きていてえらいことになっているのかもしれない。十里村で見た大量のプラスチックごみと同じように、外から余計なものが入ってくると無菌状態の村はあっという間に壊れてしまうのだろう。そうなってくると、我々自身が余計なものなのかもしれないと思ってしまうのだけれど…
荷物をといて部屋で落ち着いた後散歩してくると言ってS氏は外に出て行った。暖かかったのでドアを開けっぱなしにしていたら下からS氏が大きな声で俺を呼ぶ「やっくん ちょっとちょっと!」 出ていくとS氏が受付のおじさん家族と一緒に夕飯を食べようとしていた。「なんか夕飯を一緒に食べようって誘われたからそうしないかい?」と言って外にセッティングした食卓の椅子にちゃっかり座っていた。それは願ってもない話、海外の旅で店の料理じゃない家庭料理を食べるなんてそうそう経験できることじゃない。俺もちゃっかり椅子に座りおじさん達と夕食を共にした。おじさん家族は奥さんと息子夫婦とちっちゃい娘さんの五人家族、どうやら個人経営ではなく「任され支配人」のようだ。仲良く楽しそうな家族でS氏が聞いたところによるとやはり雇われ支配人でこの村の出身ではない漢民族だということだった。それを聞いてますますS氏は確信していたようだった。(ここははずしたなと…)
料理はきのこ豆腐もやしスープ、赤米の混じったご飯にドジョウの煮つけ、グリーンピース醤油炒めと野菜の煮つけっぽいもの… どれも美味しく米も腹持ちのいい食べ応えのある品種なようでお腹いっぱいになった。僕らが日本人だということを伝えたら理解してくれたらしく、怪しむ雰囲気は全く無かったので僕も安心してこの村を受け入れようという気持ちになっていた。思っていたイメージと違う場所だったS氏はどことなく元気がなかったが、過去の旅行でもこういう経験をしているらしく、飯を食べ終わる頃には吹っ切れた表情に変わっていた。
満腹になった僕らは一旦別れてお互い村を散策する事に、俺は村の北方面へ足を向けた。村唯一の家電家具店を覗いたり、その先の小学校に行ってみる。少し戻って農薬屋や散髪店、市場のような広いところもあったが多分さっきの夕飯で話した感じだと明朝市が立つことはなさそうだった。
一番高台のところには「金平苗族瑶族泰族自治県营盘郷人民政府」と「中国共産党苗族瑶族泰族自治県营盘郷規律検査委員会」と並べて門柱に掲げられててあるお役所があった。中国国旗が掲げられていて中ではお役人さんがバスケットボールに興じている。こんな山奥にあってがっちりした立派なお役所があるっていうのは、国境こそ守るべき砦っていうような中国政府の思想がビシビシ伝わってくるのだ。ほころびは国境地帯から、よって外敵は国境でガッチリ排除。少数民族の村は単なる国境警備の砦と化してしまった感が否めなかった。S氏が落胆する気持ちもわからなくはない…
その後も狭い村をプラプラ、はずした村とはいえ一期一会、次回来ることはないだろう村をじっくり散策して回った。またもや性病看板が張ってあるブロック造りの建物に遭遇、賑やかな声がするので中をちょっとだけのぞかせてもらったら麻雀をしているおじさん達、その中にはお世話になった強面運ちゃんがいて思いがけずビックリしてしまった。彼も僕と気づいたようだったが、お互いそれ以上は目を合わせず俺はそそくさとその場から立ち去った。
性病看板の建物を後にメインストリートに戻るとなんとはなしにS氏と合流、バスでやってきた方へ行ってみようということになりぼつぼつと歩いていく。バイク屋の隣の路上でなにやら白い物を解体しているのが見えた。近づいて行ったら若いご夫婦が一緒になって羊を解体している。白い毛を燃やして黒く焦げた皮に水をかけたわしで擦って綺麗にし、洗い終わると羊を仰向けにして見慣れない形のナイフで胸から喉に向けて切れ込みを入れていく。そのあと腹から肛門に向け切れ込みを入れ徐々に腹を割っていき最後は中華包丁ようなナイフで鉈を使うように振り下ろしながら肋骨を開いていった。そのあと内臓をうまいこと処理して解体は終了、やっと羊の死体が食材の羊肉に変わった瞬間だった。最初はちょっと抵抗があったのだが、少しすると慣れてきて、魚をおろすのも同じだなと半ば強引に自分を納得させた。そこは「苗家風味」と看板があり食堂のようだったが、今日の営業はもう終わってしまったらしい。やっていたとしても今のを見てしまっては、なかなか「はいそうですか食べましょう」とはならない。とりあえず僕らは宿に戻り休憩し、再度八時頃街に出てミーセンを食べる事にした。とりあえず一日の〆はミーセンなのだ。店の床を大量の水を流して掃除していてもうすでに半分営業終了してるような店に無理やり入りミーセンを注文した。ここでも持ち込んだ白酒をチビチビやりながら、暗い店内で营盘の夜を無理やり楽しむ。
S氏もはずれを取り戻そうと店にいた他の客とコミュニケーションを図るも敢え無く失敗。酔ってるおじさんの気分を逆なでしただけでなんの収穫も得られなかった。どうもこれは勇み足もしくは蛇足だったようだ。
夕飯を終えた僕らは宿に戻り、S氏の持ってきたバケツでパンツとシャツを洗濯し、さらに自分自身もシャワーで洗濯しベットに横たわる。明日は朝市が無さそうなので運ちゃんの言っていた朝八時発のバスで金平に向かうことをS氏と合意し早々に眠りについた。

ただその眠りは突然の夜中のドアチャイムで打ち砕かれることになる…




遥かなる雲南の旅 第八幕(天空の村 営盤  地獄の死ぬ死ぬロード編)

2018年05月08日 | Weblog
なぜか焦っている
ここまで書いてきたのだが、まだ半分終わってないような気がする。どうやら端折って書くことがうまくできない。
どうやって一か月以上前の旅を思い出して書いているかというと、単純にスマホに残っている写真を見ながら時系列を追って書き進めているからなのだ。写真を見るとその時の記憶が芋づる式に堀上がってくる(堀上がるなんて表現あんのかな?)だから今のところ自然と文章が冗長になってしまうのだ。
ここら辺までくるとこれを読んでるのは書いてる本人か、相棒の敏腕バイヤーS氏ぐらいかと思うのだが、まあそれはそれで意味があるような気がするので最後までいってみたいと思う。
なぜ焦っているかというと農作業と消防団のポンプ操法大会の練習を控え、忙しくなる前に書き終えねば芋づるが枯れてしまって芋がついてこない状態になってしまうんじゃないかと心配しているからである…

金平の朝市を半日たっぷり堪能した。ここを訪れた日本人旅行者がブログなどで金平の情報提供していて、S氏はそういったものを事前にリサーチしていたのでこの朝市にバッチリタイミングが合った。しかしここからはブログにも書かれていない情報の乏しい村を訪ねていく旅に切り替わる。午後の予定では金平から90km程離れた营盘(ジーバン)という村に行く予定になっているのだが、S氏もほとんど情報をつかんでいない未知なる村だった。なぜそこに行こうと思ったかというと、これもまた「面白いかも」っていうカンでしかない。地図上ではその先に交通手段が無いどん詰まりの村だということだけは分かっていて、それ以外は未知なる秘境、多分日本人が訪れたことが無いだろうというような陸の孤島だ。
金平の朝市を見た僕らはホテルに戻り、チェックアウトするために荷物をまとめた。俺は右脳をフルに働かせての荷造り作業、まずレインボー傘とほうきを45Lのリュックに括り付け、そのリュックをさっき買った背負いカゴの中にそっくりそのまま入れて背負うことにした。S氏は苦笑いしているようだったが、まあ行けるところまではいってみよう、行く先の村でなんか役に立つかもしれないと、S氏の手に目をやると雑貨店で購入した大きなバケツがぶら下がっていた。S氏こそは本当に旅慣れていてバケツを旅先で購入しては洗濯桶代わりに使っているようだった。今回もこのバケツを毎回洗濯時に使わせてもらって大助かりだった。ここいうところが敏腕バイヤーとお気楽バッパーの違いかもしれない。
ラブホチック快適ホテル(雲梯飯店)を出発した僕らはリンタク(三輪タクシー)を捕まえ、初日に金平に降り立ったバスターミナルを目指した、途中狭い道路ですれ違い渋滞に巻き込まれながらもリンタクは無事到着。降りるなりS氏は「あいつはダメだ」と運転手の事を詰って(なじって)いた。どうやらS氏が質問してもちゃんと答えなかったりして態度が悪かったらしいのだ。僕みたいに言葉がしゃべれない人間はそういった細かい心の機微を読みとることができないのだが、S氏ぐらいになってくると相手の悪意やら嫌悪といった感情が伝わってきてしまうらしい。長年一緒に暮らしている夫婦が相手の事を知り尽くして嫌になる感情に似ている気がするのだが、ということはあんまり相手を理解しすぎるのも考えものっていうことになってくる、知らぬが仏とはよく言ったものである。
時刻は12時30分、バスの時刻表を確認したら13時30分発、少し時間があったので近くの食堂で昼飯を食べる事にした。天気が良く日差しが強い中、パラソルの下に陣取り、白菜と鶏肉の炒め物と豚肉ピーマン緑豆もやしの炒め物にご飯というラインナップを注文した。ターミナル食堂にしては上出来、満足の昼食になった。
ターミナルにはここを拠点にいろんな村に行くであろうバスが停車していた。外の待合ベンチには比較的田舎人チックな人たちが出発を待っていて、その中でもスーツを着て白い工事現場用のヘルメットをかぶりコンベックスを腰からぶら下げスマホをいじっている兄さんが一際異彩を放っている。バス路線図を見るとあっちこっちに枝分かれしていて、日本人からするとちょっと変わった漢字の地名が興味と想像力を掻き立てる。たとえば「者米」だとか「馬鞍底」「老街」など漢字を見ては勝手に村の風景を妄想してしまうのだ。こういうのはRPGにはまる感覚に似てる気がするなって思いながら路線図を眺めていた。そして長旅前の昼飯で英気を養った僕らは意気揚々とバスに乗り込んでいく。マイクロバスよりもちょっと大きめの白いバス、俺は調子に乗って運転席横の助手席シートに座り込み、景色を楽しみながら行こうと目論んだものの、強面の運転手に敢え無く却下され、スゴスゴと後ろの席に引っ込んだ。もともと乗車券には席番が記されていたのだが、昆明から金平に来るバスの中でもほとんどフリーな感じだった。ここでも大丈夫なんじゃないかと思ったのだがそれはちょっと甘かった。そもそもほとんど満員に近いバスで、通路のところにはバケツにたいなのがひっくり返して置いてあり、最初はゴミ箱かと思ったのだが、よく見るとそこにも乗客が座っていて簡易座席になっているようだった。
そしてちょうど午後1時半、バスはほぼ満員状態で金平の街を出発した。俺が座ろうと目論んでいた助手席にはなぜか若い女性が座っていて強面運転手と楽しそうに会話している。うすうす感じてはいたがどうやらそういうことだったらしい…
バスは金平の街を外れると途端に道幅が狭くなり、舗装が傷んでいる箇所も多くなってきた。時折すれ違うトラックとは車体が擦れ合うんじゃないかというようなスレスレ感でスリル満点だ。奥へと進んでいくにつれ急な山肌をなんとか無理やり削って作ったような道になってきた。上ったり下ったりしながら山肌を縫うようにバスはガタゴト走っていく。出発から三十分ぐらいして、車が渋滞にはまり急にノロノロ運転になった。どうしたんだろうと窓から顔を出してみるとトラックから積み荷が崩れ落ちて道をふさいでいるのが見える。重機をもってきて復旧作業をし、何とか目途がたったらしくなんとか車が通行できるまでなっていた。たぶんもう少し早い時間に通っていたら大分待たされていたと思うが、ここはなんとか切り抜けられた。
その後もバスは「落ちたら絶対死ぬ死ぬロード」をグイグイと走っていく。日本の4WDマニアでも恐れるような厳しい道だが、ここを何百回いや何千回も運転している強面運ちゃんは姉さん達と楽しそうに会話しながら見事なハンドルさばきで爆走していた。まさにこれこそプロの技といっても過言ではない。
時折急斜面のバナナ畑があったり、急斜面にへばりつく民家があったり、道が崩れて応急処置がしてある箇所にはネパールなんかにあるような五色の三角旗「タルチョ」みたいなのが張ってあった。日本だったら赤い危険旗に赤いカラーコーンみたいのですると思うんだけど、タルチョじゃ安全祈願の神頼み的な感じになっちゃっててどうも安心感に欠けるのだが…
出発から三時間半、車窓右手方向の山の斜面に街らしき建物群が現れた。シャッターチャンスを逃してしまって撮れなかったのが残念だが、それはまさしく营盘の建物群、遠目にみると天空の山城のような雰囲気の美しい光景だった。そして我々は途中ラジエターに給水というハプニングがありながらも何とか無事に营盘の村に到着した。メインストリートでおろしてもらったのだが、第一印象は一日の営みが終わった感が出ていて、通りはゴミが散乱していた。だからまずは汚い村だなーっていう印象だったが、僕よりも浮かない表情をしていたのはS氏だった。こんな山奥まで来たのだからと、もっと田舎チックな農村をイメージしていたらしいのだ。それなのにしっかりした中国共産党配下の建物っていう期待外れにS氏は「一人で来てたら気が狂ってた」とまで宣っていた。
それでも僕らは初めて目にする街に希望を抱きつつ今晩宿泊する宿を探す。事前情報では宿はあるらしいというだけの頼りないものだったので、それが無いか、もしくはやめてしまっていたらそのままバスに乗って戻るか野宿するかという選択しかない状況になっている。とはいえこの時間に戻るバスは無いだろうし、あったとしても夜中にあの「死ぬ死ぬロード」を走るのは正気の沙汰ではない。とにかくちょっと焦りながら宿を求めてメインストリートを上がっていった。

そういえば強面運ちゃん「明日の出発は八時だ!」って言ってたな…

天空の村 营盘編 まだまだ続く…




遥かなる雲南の旅 第七幕(金平二日目 朝市編)

2018年05月07日 | Weblog
金平の朝は天気が良かった。よく寝れたので混乱していた頭の中身もすっきりしている。
フリーSIMが使えないので結局Wi-Fiの使えるホテルでしかスマホは繋がらない。とにかくラインもフェイスブックもグーグルも閲覧できないので繋がったとしても使用範囲は限られている。とりあえずかみさんにでもメールしてみるかと思いこっちの様子を伝えると
「生きてたか?万が一の為に中学校の入学式で着た礼服をまだしまってない。」と返信されてきた。そんな反応かよ…って思うも まあお互いの無事を確認できたからまあいいかと納得した。
S氏に目をやると彼もすっきり眠れたようで早速朝飯にありつこうと身支度を整えながら、インスタントコーヒー(なぜか部屋にあったのはベトナムで有名なG7コーヒー)を一杯飲み英気を養っていた。S氏は特に甘めのミルクコーヒーが好みらしくルーティンのように朝飲んではリラックスしている。ブラックはノーサンキュー派らしいが…
ホテルを出ると朝の町の空気はちょうどいい感じ、俺のコーディネート、ワークマンで買ったおしゃれ作業着はよくマッチングしていた。
まずは気になっていた「民族団結広場」に向かってみる。広場にはそれほど人はおらず、体操をなんとなくしてるおばさんや、音のびゅんびゅんするコマを鞭で叩いて回すおじさんや、ただただぼーっとしてるおじさんぐらいしかいなかった。広場を階段で下りたところの大通りには、民族服を着た眼鏡の小学生の女の子がいたり、朝飯の饅頭を食べながら広場へ向かっていく洋服を着た小学生の女の子四人連れや、歩道に座っている背負いかごと箒を持ったおばさん達が見てとれた。S氏が言うには背負いカゴおばさん達は日雇い掃除婦の仕事を待っているらしいとのこと、そういえばこの町はほとんどゴミが落ちていなくて美しい、おばさん達がこまやかに掃除してくれているからなんだと改めて納得した。
朝飯朝飯と思っていたのだが、とりあえず町は週一回の日曜日の朝市ということで、計画変更して朝市の見学が最優先になった。朝市は街のあちこちの路地、脇通りで自然発生的(たぶん定位置はあるんだろうけど)に広がっていった。どこからともなくしょいかごを担いだご婦人方がやって来ては路上に敷物を敷いて野菜や山菜や果物を並べ商売をし始めている。仕入れ品ではなく、自分で栽培しているか、近所の山から採ってきたものだと思われるが、どれも新鮮で美味しそうだ。自宅が近ければ片っ端から買っていきたいのだが、なんせホテル住まいなのでそうもいかない、とりあえず商品を覗き込んでは「多少钱?」(ドーショウジェン?)と値段を聞き、写真に撮ってはニコニコ笑顔を振りまいていた。しかしこういうところに来るとS氏とお互い見るポイントや費やす時間が違ってくる。一旦のちほど落ち合う約束をしグッドラックの言葉を交わして別れ、それぞれが興味のある方向へと気の向くまま進んでいった。
売り子おばさん達は民族服を着ているのでそうなんだとわかるが、おじさん達は洋服(迷彩柄が多い)を着ているのでどうも少数民族感が出ていない。やっぱり着飾るっていう行為は主に女性の特権なんだなぁとあらためて思う。赤い三角帽にビビッドなオレンジ基調の帯をまとった苗族(ミャオ族)のご婦人の売り子さんが多かったが、売っている野菜も同じようにビビッドで食欲をそそる。多分お互いが持ち寄って、自分ところにない食材を買って帰ることもあるだろう、それに町の食堂なんかも週一の市で大量に野菜を仕入れて、例の店内ショーウインドー的メニュー陳列冷蔵ケースに入れておくのかもしれない。
食材の他には、刺繍された民族衣装の露店があったりして目を奪われた。売ってるおばさんが仕立てたのだと思うけど、なかなかかわいくて思わず買ってしまうところだった。「いやいやこれ日本にもって帰ってもそのまま着れないな… 小物入れかなんかに作り変えて… なんか飾り付けに… いやいや…」などと思いめぐらしてみるが、敏腕バイヤーじゃないのでそこまで商品の価値を見極められなかった。
その後も気のむくまま、「鶏生きたまま売店」や「オープン水タバコ店」「カラフル毛糸店」「そんなに美味しそうにみえないお菓子山積み店」「中華野菜種専門店」などなどいろんな店、それとまた様々な民族衣装を着た女性をみながらS氏との待ち合わせ場所に向かった。
こんなのは観光客のノスタルジーでしかないのだが、やっぱり民族衣装を着ていたほうが女性は美しく見える。同じ服を着ていたら没個性でつまらんじゃないかという意見もあるだろうが、民族衣装の中にもそれぞれちょっとした違いや個性があって、それにプラスして女性の容姿や顔立ちで美しさがまた引き出される気がするのだ。洋服が奇抜過ぎれば(例えばパリコレのように)それ以上に個性的なモデルさんに着させないとバランスが悪くなる。属している集団の衣装の美しさの上に個人の美しさが加わるというのは日本人女性が和服が一番似合うというのに加えてそれで日本人女性の美しさが倍増するという方程式に似ていると思うのだ。手前味噌で申し訳ないがうちのかみさんは間違いなく和装すると1.3倍増し(体重ではないよ)になる。
9時頃S氏と落ち合い、さすがに腹が減ったので朝飯にしようということになった。「昨日チェックしておいたんだが、牛肉が大々的に吊るしてあるあそこの店はどうだい?」とS氏が言うので「それだそれだ」とばかりにすぐにその食堂に向かった。店は大人気でほとんど満席だったが相席で何とか座ることができた。牛肉料理専門店だったので、僕らは牛肉ミーセンを注文、S氏が気を効かせて僕の分まで運んできてくれた。まずはスープからいただく… 味噌味で美味い! 味噌といっても日本の味噌ではなく中国の豆板醤のような味わい、牛肉入りミーセンなのだが、もともとミーセンはリーズナブルなメニューなのでガッツリ牛肉が入っているわけではなく、ケチな定食屋のラーメンのチャーシューのような大きさの肉が入っているだけだった。ただスープが美味い。後半はテーブルに置いてあった薬味なんかを少しづつ投入して違う味を楽しんだりして朝食をしっかり堪能、S氏も大満足での様子だった。その後デザートに露店であん饅を買い食い、しょっぱい口を中和したあとそのままさらに賑わいを見せる朝市へ乗り込んでいった。

時折判別不能の野菜を売っていたりして「これは何ですか?」って聞いてはみるんだけど結局なんだかわからなかったり、ポジション取りに出遅れたおばさん達が立ったまま鶏やら卵やらを売ってたりするのがまた面白い光景で飽きなかった。そんな中で立って手作りほうきを売ってるおばあちゃんに興味をそそられS氏と共にに話しかけてみる。三角帽に丸刈りのおばあちゃんは稲わらを編み上げた美しい箒(ほうき)を4本手にしていた。いくらか尋ねるとたしか20元か30元ぐらいだったと思う、日本円で500円ぐらい。一つ作るのに結構手間がかかると思うんだけど、こういう丁寧な品物が安いと思わず買ってしまうのが俺の悪い癖、後先考えずおばあちゃんに代金を渡して一ついただいた。ただ気になった事が一点、稲わらを結束する紐がプラスチック製のだった事なのだが、多分飾っておくような民芸品だったら稲わらの紐を使ったりするんだろうけど、実用品として使うものだからこそあえてプラスチック製なんだということが逆に安心もし少し残念にも思ってしまった。これは日本に帰ってからも普段づかいすべきほうきとしてイメージできたのだが、空港のチェックインカウンターでのバッゲージドロップのシーンまではイメージできなかった…
その後も様々な民族衣装に目を奪われながら街をぶらぶらしていたのだが、どうしても剃髪をして三角帽をかぶるミャオ族の女性の美的センスに得心がいかなかった。もしかしたらアフガニスタンの女性が着用している「ブルカ」的な考え方なのかとも思うが、これは憶測の範囲でしかない。
たまに見かけるミャオ族の大オババは赤い三角帽でなく一際美しい刺繍の入った三角帽をかぶり、そこにシルバーの帯状の飾りを指輪スタンドみたいに引っかけていた。たぶん階級みたいのがあって若造の小ババはそういう三角帽をかぶってはいけないのではないかと思うのだが、これもまた憶測の範囲でしかない。だけど日本だって振袖着てもいいのは未婚の「若い」女性だけじゃないですか…
野菜を売っているご婦人を見ながら、売れ残ったら「おやげないなぁ」なんて他人事ながら心配していたのだが、まあ俺たちだって市場で二束三文でキャベツ買われてたりするんだからそれはそれでしょうがないよなぁと思いながら、さらにぶらぶら歩いていった。
大通りに出て初日に降り立ったバスターミナルの方に向かってみる。途中で野菜の種屋でインゲンとスイカとゴーヤの種を買い、露店農具店でよさそうな鎌を見つけるも、税関で絶対捕まるなと思い泣く泣く断念した。(これぐらいのイマジネーションだったらなんとかあるのだ)
ご婦人が売ってる品物は農産物が多いのだが、殿方が売っている品物は工芸品がけっこう多かった。ブリキのスライサーみたいのや、鍬や鉈(なた)の柄を売ってるおじいさん。自作の虫よけ網つき帽を売っているおじさんもいたけどいまいち売れ行きはぱっとしなさそうだった。たしかにそんなのかぶって仕事してたら邪魔でしょうがない。一番気になったのが竹ひごで編んだ背負いカゴなのだが、これは街を歩いている人がほとんどしょってるといってもいいような定番アイテムだった。
肩紐の材質が多少違うものが見受けられたが、ほとんどフォルムやデザインは一緒、完成された究極的最終形となった感がある。おじさん達それぞれが自分の作ったカゴを前に並べてのんびり売れるのを待っている。我々は色んなカゴを見て歩き、民族衣装ではなくまたもや迷彩柄を着たおじさん(民族服をやめた殿方はなぜか迷彩柄がお好き)の作ったカゴを手に取って値段を聞いてみた。だいたい一つ120元(2千円ちょっと)ここでも悪い癖が出て即決で購入してしまった。やはり俺の出入国時のシチュエーション想像力には問題があるようだ。
俺が買った後 おじさんの周りにはひとだかりができ始めていて、リュックサックをしょったおばさんやショルダーバックをたすき掛けしてるおばさんも、「やっぱりコレがいいかもしれないわね?!」的な視線でおじさんの作ったカゴを品定めしていた。

今回S氏はインターナショナルな避暑地である軽井沢のアジアンブティックの副店長(店長は奥さんだと言っていたような気がする)兼敏腕バイヤーとしてではなく一介の旅行者としてのスタンスで旅をしているので、こういった俺の行動を苦々しく思っていたに違いない。まあ俺としては最終的に持っていくのが厳しければどこかに寄付していけばいいや的スタンスで迷わずに買物もすることにした。旅でその土地のモノを食べる事と同様、その土地のモノを買うというのは大事なお楽しみのひとつなのだ。

とりあえず買ったばかりの竹カゴにほうきと中国野菜種を入れて背負い次の目的地へ向かった

まだまだお伽の国旅は続く…





遥かなる雲南の旅 第六幕(十里村棚田編)

2018年05月07日 | Weblog
S氏は道端で立ち小便をしていた
立ち小便は僕にとってはごくナチュラルな行為、人が頻繁に歩くところにするのはよくないが、ちょっと藪に入ったところなら何ら問題のない行為と考えている。ただ人前では厳禁だ。あれは人前の青空の下で晒されるべきものではない。不快に思う人がほとんどだし、俺だって人の一物を見て気分を害する人間のひとり。
小便S氏も白酒を程よくいただき、その後気分良く歩いていた。道は綺麗に舗装されており、その両側には不定形な曲線の棚田が広がっている。まだ水が入っていない田もあれば、水が入って代掻きが済んでいるような田もある。田を転作してトウモロコシを植えてあるところもあり一概に同じ状態ではなかった。ところどころ田んぼのど真ん中に石が積んであり塚のようになっていて、そこに竹の棒に白い布(紙?)が括り付けられたようなものが何本か刺して立ててある。金平に来る途中の高速道路の車窓から見たのと同じ、どうやらそれはお墓のようだった。しかし貴重な棚田のど真ん中、仕事するのに邪魔になるような場所に墓を立てるなんて日本じゃ考えられないのだが、こっちではどうもそれが当たり前のようになっている。それを眺めながらふと自分の墓に思いを巡らせてみた。実は俺自身自分が入るであろう墓にあんまりいい思いをもっていない。けっこう大きな墓だが、うちの「まけ」が共同で入る墓で、墳墓の横に鉄の扉があってそこから出入りして中に骨壺を納める造りになっている。骨壺を置く棚は限られていて、棚にスペースが無くなると隣の土間スペースにお骨をガサっとぶちまけて骨壺を空にし、新しく死んだ人の骨壺を置くシステムになっている。誰が考えたか知らないが、ずいぶん雑な方法だなぁと思ってげんなりしているのだ。まあ最終的に土に帰るっていう感じがしなくもないし、どうせ死んだ後のことなんて本人わかっちゃいないからどうでもいいっちゃいいんだけど……

待てよ… 墓って生きてる人間が安心して暮らせるためのもんじゃないのかい…

死んだらいつも働いているあそこの田んぼに自分は埋葬される。そう考えただけで、もしかしたら毎日元気に田んぼに出て農作業に励めるのかもしれない。外国に行くと死生観の違いにいつも驚かされる。日本は神道や仏教っていうちゃんとしたスピリチュアルな教えがあるのに、比較的普段の生活では死について見て見ないふりをしている気がするのだ。最近告別式に出席することが多い年回りになってきたけれど、そんな時悲しいことではあるけれども冗談を言いながら故人を偲ぶことができるようになってきた。死ぬことまでが生活の一部になっているという考えがこういった墓の立て方にも表れているんじゃないかな。旅行は旅行紀行文を書き終えるまで、人生は死んで墓に入るまでが人生なのだ。そう考えるとうちの墓はなんか村はずれにあるし、ちょっと暗いし納骨棚には竈馬(カマドウマ)が多いし…あんまりいい環境ではない。

墓のある田を後にし我々はずんずん歩いていった。とにかく酒が程よく効いていて歩くのが全く苦にならない。少し行き棚田を右手に見上げると、女性がしゃがんでスマホ片手に電話をしていた。もう片方の手には鍬、下はジャージのようなものを履き、上は黒色の簡略民族衣装、頭は赤い布が巻かれていた。こっちに来てからのスマホ使用率はすさまじく、一人一台は必ず持っているんじゃないかというような様子だった。俺の家は電波状態が悪く(auですけど…)二階に上がるか、外に出ないと切れてしまうことが度々ある。S氏に至っては今どきガラケーを使っており、こっちに来てからは事あるごとに愛妻に報告電話や愛情確認電話をしていたが、つながらなかったり、電波の状態が悪いってことがほとんどなかった。それにしてもどうなってるんだこの国のインフラは?!。水洗トイレよりも携帯がつながるほうがどうやら先らしい…
ところどころ水牛の牛糞が落ちていたのだが、そんなことはいちいち意に介さず、ずんずん歩いていった。途中今度は棚田の整備工事であろうか? コンクリートブロックを斜面の上から下に転がしているところに遭遇。どうやら土だけで棚田を作るよりも、人工構造物のが強度があるのだろう、そういったものも今では取り入れながら現代の棚田を守っているようだ。僕らみたいなお気楽観光客からすれば、見栄え重視だからそこは頑張って泥で固めてくれよって思うけど、当事者にとったらそんなことかまってられない。それはそのとうりで我々の身勝手に過ぎない。そんな公共工事現場を見た後、S氏は辛抱たまらなくなったらしく棚田の畦道にスニーカーで足を踏み入れていった。春の水入れ直後なので畔は当然ゆるく、S氏ははやくもぬかったところで足を取られていた。それでも彼はひるまず奥へと入っていった。そしておもむろに水の入った田に手を突っ込み、なにか納得した様子でいる。戻って来てまた田に手を入れ「まあ冷たくもなく温かくもなく まあまあだな…」などと曖昧な感想を述べた。実際こっちに来て気候的にとびぬけて暑いでも寒いでもない、微妙な気候の中にいて半ば納得の表現と言えなくもなかった。緯度が低いのに標高が2000m近くあるというのは、軽井沢が標高950mぐらいだからそれよりも全然高いところにあるといったなんとも不思議なロケーションとしか言いようがない。
その後も金平に向かう下り坂を歩きゆっくり美しい棚田を堪能していった。地形に添った美しい曲線の畔道、見る角度によって変幻自在になる幾何学模様、気候と地形と農民のハートが一体となって作り出すアーティスティックな風景に時間を忘れて本当にうっとり見入ってしまった。多分僕らだけでなく、耕してる農民も生活のためだけじゃなく無意識に美しいと感じているからこそ棚田を守り続けているような気もするのだが…
まあ飽きもせず、パノラマに広がる棚田風景を楽しんでいたら、今度は道下の田で水牛に犂(すき)を引かせて代搔き作業をしているところが目に入ってきた。以前中国の海南島に行った時も見たことがあったのだが、今回は不定形で代掻きするのが難しそうな棚田、自然と「どんなだどんなだ?」と駆け寄って見に行ってしまった。麦わら帽子をかぶったおじさんは上手に鞭を使って水牛を操り、一枚の田代掻きが済むと畔をうまいこと越えて牛を次の田に乗り越えさせていた。これは耕運機では無理だし、第一畔を壊してしまう。水牛はその後もおじさんの鞭裁きでバックしたり前進したりして見事に田を起こしていった。まるで耕運機のギヤチェンジをするような要領だが、耕運機よりも美しく仕上がっていていやいやビックリするような職人技だった。人馬一体、いやいや人牛一体とはまさにこの事だ(そんな表現はないだろうけど…)その後おじさんは僕たちの存在に気が付いたらしく田んぼの水で手を洗って僕らのところまでやってきて休憩タイム もしくはトークタイムを取ってくれた。(真意はわからないが)
その間、水牛はエンジンの止まった耕運機のようにその場で止まって小休止、ふとその田の左手に目をやると子牛が後から親牛を追ってついてきてるではないか! いやいやその光景はなんとも愛らしく可愛らしくほほえましかった。
S氏はおじさんに色々話しかけていた。S氏の興味はまず目の前の人が何族かということであるらしかったが、俺はそれよりもいつ田植えするのか、牛の餌はどうしてるのか、米の品種は何かといったようなことを聞いてみたかったのだが、絶対的な中国語会話能力の無さでどうにもならなかった。
おじさんは定番の大竹筒水タバコを美味しそうに吸いながら遠くを眺め、ゆっくり一息ついていた。足につけた長めの脚絆の柄が迷彩柄だったのがちょっと気になったのだが…
その後も道を下っていき、途中農作業してる親子連れに会った。お母さんが手にしている鎌からは確実に人を殺められるような凶器感がにじみ出ていたので俺は遠巻きに眺めていた。S氏を見ると彼もまたそれを察知してか遠巻きにニコニコ笑顔でただお母さんを眺めている。
その後は土手に生えている食べられそうな野草を取ってるおじさん、大きな沢蟹を捕まえて誇らしげにしているお兄ちゃんと妹、多分サトウキビを絞った後の茎を肥料にと畑に入れているご夫婦なんかに会いながら道を下りながら歩いていった。
途中S氏は完全に酒が抜けたらしく、疲労とヤク切れの反動で道路脇に座り込んでしまった。俺にもそろそろ疲れが出始め、乗り合いタクシーが通ったら捕まえようという体制になっていた。多分5,6キロは歩いてきたので、残り金平まではの半分まで来ている計算だ。
しかしなかなかタクシーは現れない、致し方なく僕らは白タクを捕まえることにした。シルバーのおんぼろハッチバックがやってきたので手を下げ(S氏が言うことには手を上げてタクシーを捕まえるのは日本ぐらいらしい)て車を停め おじさんに乗っけていってくれるように交渉、僕らはホッと一息付き、程無く見慣れた金平の町に到着した。
とりあえず早々に二泊お願いした金平のガラス張りラブホチックホテルに戻り一旦休憩をとった。途中イチゴを露店で大量購入し部屋でバクバク食べたのだが、果物は疲れた体に効き目抜群、体に沁みわたるっていうのが実感できた。
一眠りしてから九時頃もう一度町に出る。夕飯を食いっぱぐれると次の日に影響するのでとりあえずは食堂を探す。朝市がにぎやかに開かれていた所に行ってみたがどうやら金平の町は軽井沢と同じで夜が早く、やっている食堂はほとんどなかった。それでも昼間 犬の丸焼きを売っていた通りで一軒見つけ、なんとか夕飯にありついた。あんまり贅沢は言えず そこでは青菜の炒め物とミーセンとチャーハンをビールで締めくくった。
その後向かいのホテルにあるマッサージ店で一時間みっちり体をほぐしてもらいホテルに戻った。
今日はどうやら色々ありすぎて少し頭の中が混乱しているのかもしれない。思ったよりも強い刺激に体も心も深い休息を欲していたようだ。

これはやはり日常ではない、ちょっとした「お伽の国」に来てしまった。
明日もお伽の国巡りしなければならない。

シャワーを浴び一口白酒を含んでベットに横たわる。ラブホチックホテルのベッドはシーツがパリっと取り換えられていて気持ちいい状態になっていた。そのままシーツに吸い込まれ、スゥーと眠りに落ちていった。

明日 も… また お伽の 国…め…ぐ…り…  に……… 


遥かなる雲南の旅 第五幕(十里村酔っ払い編)

2018年05月06日 | Weblog
十里村に降り立った僕らは緑とシルバーのツートンカラーのタクシーの後ろ姿を眺めながら、村のメインストリートを歩き始めた。
向こうからまたもや水牛を一頭引き連れたおじさんがやってくる。肩には鍬(くわ)が乗っかっている。空は薄曇り、暑くもなく寒くもない。
道端では少し大きめの雀牌を使って若い男たちが麻雀をしている。手には現ナマが握られていた。多分負けたら即現金払いなんだろう、なかなか厳しい娯楽だ。ちょっと行くと果物の露天商がありスイカやミカンを売っている。通りには人通りが少ないので、店主(S氏は事あるごとにラオバン「老板」と言っていた)は不在だ。正確には赤いパラソルの下で売っているので露店商ではないのだろうけど、後ろの家の壁の色合いと相まってどことなくヨーロッパの佇まいにも似ている。たまに人が歩いているかと思うと、ヤオ族のおばさんが背負カゴに目いっぱい袋を入れて、その上に大きな束の長い竹棒を乗せて歩いていた。編み上げ髪が邪魔そうな気もするけど、そこは最低限の身だしなみなんだろう。そういえば俺が子供の頃、隣の庄屋の「カケスおばちゃん」は着物を綺麗に着て畑仕事をしていた。サザエさんでいえばフネさんみたいな感じだ。着物って農作業するには不便なような気がするけど、実は機能的だったのかもしれない。
そんな感じで村を散策していると、金平に初日に到着した時にも見た店構えに出くわした。ベランダのようなところでレンガの窯で薪を焚いて上の木樽で蒸留作業をしている。看板には「十里香酒店」と記してあった。咥えタバコの30代ぐらいの男性が、ちょっと割れてる漏斗を使ってたらたら垂れてる蒸留したての透明な液体を使い古したペットボトルに集めていた。この辺は衛生面がアバウトな感じだが、作り方はもろこしを発酵させて仕込んだ、真面目な製法の白酒だ。奥にある甕に入った熟成途中の白酒を試飲させてもらったが真面目な美味しい真っすぐな酒だった。やはり前回上海の料理店で呑んだやつは粗悪品のまがい物だったのだ。本当の白酒はかくも美味い。またもや僕らはその味にいたく感動し1Lで10元(180円)の白酒を買い求めた。
蒸留していた男性のお母さんだと思われるが、笑顔で僕らが持っていたペットボトルに白酒を入れてくれた。甕には「包谷酒」と書かれてあったが、どうやら包谷とはトウモロコシのことらしい。ここの造り酒屋も町に行って飲食店などに酒を卸しているんだと思うが、一滴一滴垂れてくる酒を見ていると、ぼろ儲けには程遠い、まっとうな仕事をしているんだとなと思い改めて頭が下がる思いを胸に、我々は丹念に蒸留した包谷酒500ml(90円)をいただき店を後にした。
時刻は12時、そろそろ腹も減ってきた。酒屋を出てすぐ、メインストリートを見渡すにおそらくはここしかないだろうと壁に赤字で「中兴飯店」と書かれた食堂を見つけ、迷うことなく店内に入っていった。どう見ても掘っ立て小屋っぽい造りなのだが、なかなかそれはそれで趣がある。掃除も行き届いているので清潔感がものすごくあって、日本でいうなら古民家を改造しておしゃれなカフェにしましたみたいな雰囲気が漂っている。これは俺の勝手な妄想なのだが、ここの老板(ラオバン)は都会暮らしに嫌気がさして田舎で食堂を企業したUターン青年のような気がする。どうも店の雰囲気や彼の佇まいがそんな感じなのだ(いやいや全くの想像でしかないのだけれど)まあ世界どこに行っても都会に馴染めない人間っていうのはいるんだろう…
そんな店内の壁には黒板にチョークではなく、ホワイトボードに黒ペンで「米线、飯、菜、酒、水、飲料」とメニューが書かれてあった。S氏は腕組みをしながらメニューを睨み とりあえず玉子チャーハンと青椒肉絲飯みたいなのを注文した。両方合わせて25元(450円)ぐらいだったのだが、その隣の白酒1L10元って、さっきの造り酒屋と同じ値段じゃんか?!と、なんか良心的にも程があると感心してしまった。
ただ店には先客がおり、なにか不穏な空気が流れていた。先客は三人連れの30代後半といった感じの男たち。一人は大きな竹筒の水タバコを吸い、軍服チックな服と帽子を身に着けていて、一人は迷彩服に革靴で巻きたばこを吸っている面長男、もう一人は黒い帽子をかぶったバイクやってきた男の三人
多分我々を怪しい部外者と察知はしているものの、聞きなれない言葉を話しているからどうやら漢民族ではないなということは気づいているはずだ。
S氏が一言二言話しかけるも、あんまり通じていないようで、とはいえ遠くから来た旅行者だろうと察知したらしく、面長迷彩服男は僕らに持っていた巻きたばこを一本ずつくれた。ありがたく受け取りおもむろに火をつける。俺は正直タバコを吸う人間ではないのでその味はよくわからなかったが、彼に感謝の意味を込め「好的!好的!」を連発した。好的とは「ハオダ」と発音して「オッケー、いいね」みたいなニュアンス、結構使える相槌ワードだ。
我々も感謝の意味と友好の印として、先ほど買ってきた白酒を彼に振る舞い、一緒になって一気に飲みを干した。そもそも乾杯を中国でした場合は文字通り飲み干さねばならない。彼は大分ここで呑んでたらしく結構酔っていたようだったが、我々がとどめを刺したらしく、かなりいい感じに仕上がってしまった。自分の注文した料理を僕らに差し出し食べろ食べろと勧め、何度も握手を求めてきては力いっぱい俺の手を握りしめ、「どうだ!俺って力あるだろう?!」的なアピールをしてくる。持っていたポータブルビデオミュージックプレイヤーでお気に入りの曲を大音量で流したかと思うと、それに合わせて歌い始める。まあ酒飲みの常なのだが、酒が進むと料理に一切手を出さなくなるので酔いが益々加速していく。最後は一緒にいた仲間の二人も付き合ってらんねーよとばかりに彼を置いてどこかに行ってしまった。その後S氏と筆談をしたが、もともと酔っぱらっている上に訛りもきつくほとんどコミュニーケーションブレイクダウンの様相だった。S氏が店主(老板)に「この彼は何してる人だい?」と聞いたら「よくわかんないけど、昼間っから飲んでるんだから、農民かなんかじゃないかなぁ?」というような答えが返ってきた。中国ではとりあえず職業不詳の人間は農民と決めてるフシがあるのだが、俺なんかが聞くと「農民をなんだと思ってんだ!失礼な!!」とちょっとムッとしてしまった。
とりあえず一通り注文品をたいらげ(彼が食べろと言ったトマトと卵とじスープは多すぎて残してしまったが)面長迷彩酔っ払い男にお礼を言い、いきおい余って昨晩金平で買った木玉数珠をプレゼントし、別れを告げ店をあとにした…
我々は店のあったメインストリートをやってきた方に下っていったのだが、面長男と酌み交わした酒が程よく効いているらしく足取りは軽快だった。通りに目をやると、右には燃料用の薪が積んであったり、左にはおばちゃんが野菜の支柱に使うらしき竹棒を紐で縛っていたり、相変わらず水牛が自動車のほとんど走っていないストリートをのしのしと歩いていた。
少し行って村外れに差し掛かると道端に大量のプラスチック系ゴミが不法投棄されていた。それが不法投棄なのか合法投棄なのかはいまいちよくわからないが、こういうつつましい暮らしをしている村にカップ麺やペットボトルのジュースや便利なプラスチック製の農作業ヒモなんかが入り込んでくると、処理がおっつかなくなるんだろうということは容易に想像できる。もともとなんにもなくて自然循環して暮らしていた無菌状態な農村にはお手軽はあっという間に生活の中に蔓延って(はびこって)しまう。
多分さっき出会った面長男も少数民族に違いないのだが、着ている服はダサい迷彩服にビニール皮靴、ダサいポータブルステレオミュージックプレイヤーで変な唄を聴きながら昼間っから酒をかっくらっていた。本当は少数民族の美しい衣服に身を包んで農作業に励んでいたかもしれない。もしかしたら お手軽プラスチック思想と商品が彼の暮らしを一変させてしまったのかもしれない。


ただ思うのだ、流れてしまった時間はもう戻らない…


僕らは少数民族が「うわぁ~まだこんな暮らししてるんだ~ すごいなぁ~」的な感動をどこか求めてこの旅をしている、これは僕よりもS氏のほうが強くそう思っているような気がした。それはS氏が変わりゆく中国の姿を僕なんかよりもいっそう目の当たりにして心揺らされているかもしれない…

俺はこの旅で何を見てどんなふうに感じればいいんだろうか…
美しい棚田のあぜ道に捨てられているゴミの山を言葉を無くしたまましたまま しばらく見入ってしまった。









遥かなる雲南の旅 第四幕(金平朝市~十里村タクシー乗り合い編)

2018年04月25日 | Weblog
旅行記を書くということはどういうことか自分に問うてみた
前回、前々回の旅行記を読み返して思ったのが、読んでいると鮮明にその時の記憶が蘇ってその時の気分をうっすら味わえるということがわかった。
旅行を思い返して味わうことができるのだ。これはもしかしたらお得な行為かもしれないぞ!?と…
そういったわけでとりあえず旅行記はなるべく書くようにしている。よく小学校の遠足や修学旅行で先生が「家に帰るまでが遠足です!」みたいなことを言ってて、なに言っちゃってんだろと思っていたけど、大人になってからは「旅行記書き終えるまでが遠足!」なんて勝手に思っちゃったりしてますが…

まあそんなわけで金平の朝を迎えた。旅の疲れも手伝ってか結構ぐっすり眠れた。
まずは身支度を整え、朝飯を視野に入れ町の飛び出す。昨晩の雨はすっかり上がっていたものの、まだ路上はしっかり濡れていて少しだけ肌寒い。
宿泊しているホテルのすぐ脇、昨晩子守りをしていたお兄ちゃんが立っていた市場付近に行ってみたら、まだ濡れている路上におじさんおばさん達が敷物をしてその上に野菜を置いて売り始めていた。その数は続々と増えて、常設の市場に向かう下り坂はいろんな食材で賑やかに飾られていった。
炒ったヒマワリの種、キャベツに白菜にパクチー、菜の花やそれに似たアブラナ科の野菜、ニラやセリ、きゅうり、たけのこ、茄子、ぜんまい、インゲンにカリフラワーなどなど…ペットボトルに入った芋虫風なんかもあったけど結局それが何なのか最後までわからなかった。
ここにきてやっと少数民族の衣装をきた女性(比較的ご年配のご婦人)を多く見かける。やっと国境付近にやって来たんだなという実感がうっすら湧いてきた。だんだん面白くなってきたのだが、とりあえずはやはり腹ごしらえだ。とにかく俺なんかよりも朝飯を100倍重要視するS氏はまず飯を食べる算段をはじめた。昨晩目星をつけておいた米銭屋(ミーセン屋)に入った。入ったといっても例によってオープン食堂なので路上に椅子とテーブルを出しているような店なのだが。ミーセンとはスープ仕立ての米粉の麺料理で、トッピングに牛肉や鶏肉、様々な薬味が入った、ベトナムのフォーに近い雲南省ではけっこうポピュラーな料理だ。今回の旅では終始食べる機会が多かったが、店によって味が違ったり、具材が違ったりしていろんなバージョンを楽しむことのできる料理だった。ここでは鶏肉入りのミーセンを注文、さっぱりしていて朝飯があまり進まない俺でもサラッと食べれた。フォーに比べるとちょっと中華寄りの味付けだが、やはりここの気候に合う気がする。標高が高い分だけ微妙に体があったまるように味付けされている感じだ。後でビデオに撮ってあったS氏のインタビューでも「ベトナムのフォーと中国の拉麺の中間の味って感じ」というコメントをしている。
相席したおばちゃんは温かい豆浆(豆乳)に揚げパンを浸して食べていたのだけれど、これもまた中国定番の朝ごはん、たんぱく質と炭水化物をバランスよく摂取できる理想の朝食と言っていいだろう。今回はもうちょっとこの揚げパンを食べとけばよかったなと後悔しているが、いつもだいたい満腹状態だったからやっぱ無理だったんだろうな…
朝食後一旦宿に戻り体制を立て直し(ホテルは次の行動に移るときのオアシス的存在、部屋のトイレで出すものをしっかり出すとそのあとがサクサク行動でき、いい動きができるのだ)また朝市見学へ、朝食前よりもさらに野菜の露天商は増えて通りは大賑わいだった。真っ赤な三角帽をかぶった丸刈りの女性、ミャオ族の女性達がビビッドなオレンジを基調とした美しい帯飾りをまとって露店で野菜や手作り品を売っている。時折、僕らのためにコスプレして少数民族的朝市を演出してくれているんじゃないかと思ってしまったが、そんなはずは一切ない。なぜってここにはほとんど、いや僕達以外には外国人観光客なんて一人もいないのだ。S氏がそもそもここに来ようと計画したのは、中国の少数民族が普段のままに生活しているところに行ってみたいというのが動機から、観光地化されていない本当の暮らしぶりに触れてみたいというのがテーマだったからなのだ。金平の人たちからすると僕らはちょっと変わった漢民族ぐらいにしか思われていなかったと思うけど、ここまでくると訛りが微妙にあるらしく、S氏の中国語もなかなか伝わりづらかったようだ。
市は益々賑わいを増していたが、そんななか僕らは到着した時とは違う金平のもう一つのバスターミナルへと向かった。今日の予定では、金平から13km程離れた「十里村」を訪れる事になっている。なぜそこを目指すかといったら、もうただ面白いかもしれないというカンだけ。とにかく何の手がかりもない旅なのだからカンを頼りにするしかない。時刻表を確認し11時出発の乗り合いタクシーに乗り込んだ。日本の軽っ箱のちょっと大きいサイズといったところで、シルバーとグリーンのツートンカラー 乗車定員はドライバーを含め8人だ。乗り合いタクシーってやつは満員にならないと出発しないらしく、とりあえず僕らが乗ってから他の乗客を来るの待っていた、しばらくすると立派な編み込み髪をたくわえたお母さんが俺の隣に乗り込んできた。民族衣装は着ていないものの、その美しい髪から判断するにヤオ族のご婦人のようだ。しかしながらこっちに来てから女性の歳がいくつなのか全く見当がつかない。
農作業のような比較的苦労な仕事してると、勝手な偏見かもしれないが見た目が老けてしまうような気がする。昔の日本の農村のおばあちゃんはたしかにバッチリおばあちゃん感が出ていた。
ヤオ族のお母さんはツーショットをお願いしたものの、恥ずかしがって一緒に写ってくれなかった。本当はよくないのだけれど、相棒にしれっと横から撮ってもらって何とかカメラに収めることに成功した。まあこの旅全般にそうだったんだけど、しれっと写真を撮ることが多かった。後にこれがとんでもない事件を引き起こす羽目になるのだけれど…
タクシーはその後おじさんと小学生ぐらいの姉弟を乗せ出発、途中おじさんが豚かなんかの飼料(トウモロコシの粉みたいなの)を店で購入して後ろに積み込み、いざ十里村へ。丁度11時を回ったところだった。車は山道をくねくね上って行くが道は舗装されていて快適、次第に棚田がちらほら現れた。田植え前のようで水があちこちで入り始めている。こういう山間地の棚田を見るといつも不思議に思うのだが、どこから水を引いてきているのだろうか?とにかく上の田から下の田へ順々に水が流れ落ちていく。その水源を確認していないので何とも言えないのだが、多分上のほうに灌漑のシステムがあるんだろう。本来は農業者としてここをしっかり突き止めなければいけないのだろうけど、今回は忙しい旅なので割愛させていただく っていうかそこ見るの忘れてたなぁ…

途中おじさんが下車し、子供たちが下車し、集落らしきところに差し掛かった。そこのメインストリート、水牛を村人が連れて道を歩いている所あたりで運転手が「ここだよ!」という感じで僕らに下車を促した。十里村に到着したようだ。
僕らはここで降りたが、編み込み髪のおかあさんはまだこの先に行くようでそのままタクシーに乗っていた。おかあさあんの住んでいるところまで行ってみたい気もするがそこはぐっとこらえる。深追いは禁物だ。

タクシーを降りた瞬間すぐにわかった、この村はゆっくり時間が流れている。僕ら異国人二人は異空間に吸い込まれていった。

十里村探訪は次回に続く…


遥かなる雲南の旅 第三幕(金平夜編)

2018年04月24日 | Weblog
金平の町はちょうどいい気候だった。暑くもなく寒くもなく、着ていた薄手のジャケット(ワークマンで買ったちょっとおしゃれ風作業着)が正にちょうどいい感じ。多分日本を出発するときからこんな感じで間違いないだろうという服のチョイスがバッチリ当たっていた。
まずは駅でバスの時刻表をチェック、帰りもここから出発することになるので、念入りに情報収集をした。その後まずは今夜の宿を確保するべく、街中に向かう公共町内巡回バスを探した。事前チェックもし、金平に以前(とはいえ十数年前だが)も来たことのあるS氏は大体の様子がわかっているようでこのあたりはぬかりがない。バスにサクッと乗り込み(一人一元 18円)満席のバスに揺られながら繁華街を目指す。街中を過ぎ、もう少し行ってみようかとなったのだが、だんだん山の方へ向かっていくので慌ててバスを降りた。
今回の旅でS氏が計画していた事の一つに、「村の地酒を飲む」っていうのがあったのだけど、まあそんなに簡単にはいかんだろうと大きく期待はしていなかった。ところがたまたま慌ててバスを降りた目の前にドンピシャで造り酒屋があったのだ!
まあ広い旅をしていてまさかの酒蔵にピンポイントで当たるとは、なんともいい幸先。僕らはそのままその「八一酒店」に入って酒造りを見学させてもらうことにした。おかみさんと若旦那とお嫁さんがいて、すごくウェルカムな感じで招き入れてくださる。甘くていい香りが酒蔵の中に充満していて、丁度窯には火が入っていて、まさに白酒(ぱいちゅう)を蒸留している最中だった。酒蔵の中には蒸留した酒を熟成させている甕がいくつもあり、僕らはその中の10年物の白酒を試飲させてもらった。S氏は小さいグラスに入った白酒を一口くいっと飲み干すと思わず笑みがこぼれ「うまいうまい」と連呼し「アルコールはきついんだけどすっと飲めちゃうんだよね!」と以前上海の料理店で粗悪白酒を呑んだの時とは全く違う反応を見せていた。 僕も続いて一口、まだフレッシュ感が強いものの、混じりっ気のない香りのいいアルコールが喉を通る時に、ほわっと熱い心地良さを運んでくる。(このへんの描写が一番むずかしいな)
白酒はトウモロコシに麹を加えただけで発酵させ、その後蒸留し、蒸留したものを甕で長期間熟成させて味が乗ってくる酒なのだが、多分儲けようと思うとおかしな味になっちゃうんだろう。確かに上海の料理店で呑んだやつは、ちょっとしか飲んでないのに次の日具合がわるくなるような代物で、もう二度と安い白酒は飲まんぞと決めた逝品(造語です)だった。今回いただいたのはちゃんと作っている白酒で、たぶんワインやビールばっか飲んでいる中国人も、こういう真面目な白酒だったら見直してまた飲み始めるんじゃないかと思う。とにかくどこもかしこもお手軽な紛い物ばかりが氾濫しているのだ。
S氏はその後も店主との会話を弾ませ、上機嫌で酒蔵探訪を楽しんでいた、そして持っていた500㎖のミネラルウォーターの水を飲み干しその空ペットボトルに白酒を入れてもらっていた。15元ほどだったので僕も同じようにペットボトルに入れてもらって買うことに。ここで購入した酒はその後ホテルで毎晩チビチビやるちょうどいい寝酒になった。本当に悪酔いしないいい白酒だった。
S氏は加えてそこで使っている麹を買って帰ったのだが、彼は日本で密造酒でも造るつもりなのだろうか? 日本に帰ってきてからはまだ会っていないのでその後の彼の動向は不明だ、捕まってなきゃいいけど…
最初からラッキーな出会いがあって順風満帆な滑り出しになった。酒蔵の家族にお礼して別れを告げ、とにかく宿の確保が先決と、もう一度巡回バスをつかまえ繁華街へ。イケメン兄さんが運転するバスは程無く中心街に到着した。すぐに間口が狭いもののきちっとした店構えのホテルを見つけ中に入ってみる、入口にはは雲梯飯店と電光掲示板チックな看板があった。フロントには分厚い銘木を加工したデスクがあり。そのうしろにふくよかなヒョウ柄っぽい服をまとった女将らしき人が立っていた。S氏が彼女に話しかけ、和やかに会話が交わされた(ように聞こえた)S氏は納得した様子で僕に説明してくれた。ツインルームで一部屋120元(2200円ほど)ということ、安いし清潔そうな雰囲気だったのでここに宿泊することに決定。S氏がなんやかんやとやり取りしてるので任せておいたら、よくわからないが20元値引きしてくれて100元になっていた。大変ありがたい。
エレベーターに乗って客室の階に上がるとき、案内してくれたおねーさんの手にはご飯茶碗と箸が握られていた。これから夕飯に行くのだろう。それにしてもおおらか、日本の旅館で仲居さんが茶碗持ってたら「オイオイ!」って突っ込みたくなるけれど、こっちにきたら「そりゃそうだよな!」「食べるのは大事大事!」って応援したくなってしまう。昆明の火鍋屋のねえさんだって、客の白飯を却下して自分のまかない食ってたもの…
まあ致し方ない…としてエレベーターは我々の客室のある階に到着、開いたドアの目の前ではカーペットの敷き替え工事が大々的に行われていた。
「値引きの訳は…こういうことね…」と納得しながら奥に進み部屋の扉を開けた。一人千円しないその部屋はビックリするほど清潔でオーソドックス。
何故か枕元にコンドームが置いてあったが、それ以外は何の問題も無い良い部屋だった。もう一点だけ指摘するとすれば、浴室がベットから丸見えのガラス張りっていうのがどうもラブホチックで落ち着かない。最初は相方のS氏が脱糞してるところが丸見えで多少気分を害していたのだが、よく設備を見直すとガラス張りのところにはブラインドカーテンがあってそれを使えば脱糞を見ずにすむということがわかり安心した。
荷物おろし、宿でのリラックス体制に一旦入る。長旅の中にあって宿での休息は次の行動のパフォーマンスを上げるためにも重要、ここでのリラックス度が旅の良し悪しを大きく左右する。我々はベットでちょっと横になってから体制を整え、シャワーを浴びリフレッシュしてから、金平の町へ再び飛び出した。まだ薄暗いとはいっても、もう時刻は七時近くになっていた。明日じっくり朝市を見ようと思っていた場所にちょっとのぞきに行ってみた。商店もそろそろ店じまい、街角には夕飯の準備をする母親の代わりに幼子をおぶって子守りしているお兄ちゃんがいてなんともほほえましかった。まあここは明日じっくりみるとして、取り合えず夕飯を食べそこなってはえらいことになるので食堂を探す。
緑色の看板に白地の文字で「金元飯店」と書いてあるオープンカフェならぬオープン食堂に入る。メニューや価格表の無いこの店はどうやらここではショーケースに入った食材を選んで、好みの味付けや調理法で注文するスタイルらしい。ここでもS氏の巧なコミュニケーションのおかげで、旨そうな豆腐の唐辛子炒めと菜っ葉の油炒めが出てきた。それを玉子チャーハンにのっけてガッツリいただく。「うまい!」 何て言うんだろ、野菜がとくに味があって美味い。こういうのを食べるといかに日本の野菜が流通に乗っかりやすくて、スーパーの蛍光灯と陳列テクニック、陳列棚の収まりやすさだけに合致した代物だっていうことがわかる。野菜のポテンシャルが高くないとこういうシンプルな調理法だと味がスカスカになってしまう恐れがある。さすが中華だなとあらためて食を見直す夕飯に出会った。その後ツボレグビールを牛肉の炒め物と一緒に、なかばオーバーイーティング気味に胃に流し込み、店をあとにした。外はいつの間にかどしゃ降りの雨になっていたので、そのまま近くの雑貨屋に入りレインボー色の傘を購入、その後来る途中でチェックしておいたマッサージ店に入って一時間みっちり体をほぐしてもらった。上海や昆明なんかにもよくある中国式のマッサージだが、一時間1800円程度、安くてほんとに体が楽になる中国旅行には欠かせないアミューズメント、翌日のパフォーマンスを上げるためにも是非行っておきたいところだ。
夜10時過ぎぐらいには宿にもどり、シャツとパンツの洗濯を済ませ、シャワーを浴び、またもやパリッとしたシーツの敷いてあるちょっと固めのベットへ滑り込んだ。S氏は早くもリラックスして眠る体制に入っており、よほど今日の巡り合わせがよかったようで、上機嫌でベットに横たわっていた。

俺も昼間手に入れた白酒を一口二口飲んで寝る体制にはいった。明日も面白い出会いがあるんだろうなと、旅の序盤にして期待は予想以上にふくらんでいる。ただデリケートな胃腸は拒絶反応とはいかないまでも、微妙な敏感反応を示し始めていた。

そうそうもう一点だけ部屋の不満があった。テレビはあるものの、どうやっても観れないのだ。
まあ観たところでよくわかんないんだけどね…

   旅は中盤へ続く…






遥かなる雲南の旅 第二幕(昆明~金平到着編)

2018年04月14日 | Weblog
昆明の朝は快適だった。
絶妙なベットの硬さと綺麗な真っ白のシーツ 普段俺の寝ている寝床より数段眠り心地がよかった。ただ一点 いつも装着しているCPAP(持続陽圧呼吸治療器)簡単にいうと呼吸器が無いので、寝ている間息が出来てない時があり実際はいい睡眠ができていない可能性が高いが、それでも気持ちよく寝れた(気がした)
身支度をして荷物をまとめ、朝飯を食べるためホテルをチェックアウト、すぐ目の前の食堂に入った。S氏は豆乳スープにゴマ団子と揚げパン、俺はあんまり朝飯をわしわし食べるタイプなので軽く朝粥を注文した。ただこれがばっちり美味い。こういう感じならば中国にいる間はこれから毎朝粥にしようと決めたのだが、この日以外はなかなか粥を出してくれる店に出会うことがなかった。
朝の昆明の街を散策しながら国境の町「金平」いきのバスに乗るため、東部バスターミナルへと向かう。道すがら中国で今流行りのシェア自転車をみたり地下鉄の人間観察に興じたりして楽しんでいた。
バスターミナルに到着 金平行きのバス情報を電光掲示板で確認、11時発で料金は160元(2800円)ほど。切符を購入後 途中どういうスケジュールになっているのかわからないのでとりあえず食糧のココナッツサブレとミネラルウォーターを購入。ふかしたてのもろこしも一緒に買って食べてみたのだが、日本の甘いもろこしを期待していたので完全に裏切られた。腹持ちするような穀物チックな味、なんていうか、とにかく甘味が全く無いのだ…
成田空港で買った文庫本を途切れ途切れに読みながらじっくりバスを待っていた。とにかく中国は広い、移動時間がはんぱないので本と音楽プレーヤーは欠かせないのだ。
金平行きのバスが出発 乗車率は30%といったところだろうか、席番は決まっていたようだが、俺たちを含め皆好きな席に移動して長旅を楽しんでいた。市街地を抜け程無く高速道路のインター入口に到着、そのまま広い道路に滑り込んでいった。
S氏は20年ほど前に金平に来たことがあるそうだ。その時はあまりの衝撃に圧倒されて、すこし浮いた感じの旅になってしまったらしい。その時はなかなか行くことも大変だったみたいで、今回はあの感動を再びっていうのと、金平周辺のもっと奥の田舎の村々を見てみたいという事を出発前から話していた。まあ俺は何もかもはじめて訪れる場所なので様子がわからない、それに事前にあんまり調べてしまうと、実際を見たときに素直に感じることができないと思ったので、何一つ情報をインプットしてこなかった
S氏は昆明の街を見て、あまりに都会になっていたので、金平も変わってしまったんでは無いかと一抹の不安をいだいているようだった。それは会話の端々にちらちら見え隠れしていたが、俺はそれはそれでしょうがないんじゃないかと、とにかく見るものを素直に受け止めていこうと考えていた。
1992年 大学生の時に初めて中国を旅した。北京から上海、蘇州。お決まりのツアーコースだったけどすごく感動した。万里の長城、上海外灘から眺める黄浦江の景色、蘇州の運河、鉛色の上海っていうけどまさにそんな感じでなんとも言えない色合いの落ち着いた独特の空気がそこにあった。
それから20年後、2012年のS氏と行った上海は同じ場所とは思えないほど変わっていた。特に上海の外灘から見る緑しかなかった浦東新区の景色が東方明珠電視塔と上海タワーにとって変わったのは俄かに信じ難かった。
だから変わっていく街並みはそれはそれで受け入れていかないといかんのだろうと思うのだ。どう変わろうと見たままを受け入れていく…

風景はまず農村に代わっていき、玉ねぎ畑やブドウ畑、葉菜系の畑や石だらけの傾斜畑もあった。

だらだらと農村があると思うとところどころに大きな町が現れる。決まって高層マンション風なのが新たに建てられている感じなのだが、こんなに広い大地にそんなの要らんだろ~って思ってしまう。宣良、石林、弥勒、开远、それぞれの町で次々とマンションが屹立する眺めに遭遇する。ただここまで200km以上走ってきたが、まだ目的地までの半分も来ていない。総距離は470km程、蔓耗という町で高速道路を降りるもここからがまだ険しい山岳道路になって金平まで続いている。
蔓耗の町あたりから風景は一変、何人かバスから乗客が降りて行ったが、まあよくもこんな田舎に住むもんだと思っていたが、こんなのはまだまだ序の口だった。徐々に山の斜面に貼りついたような道路になり、車窓越しの向かいの山々は新たな道路建設のためガッツリ切り崩され、むき出しの茶色い山肌があらわになっている。どうやら時折見かける「蔓金高速建設公司」による高速道路の建設が急ピッチで進んでいるようだった。日本だとこういうのはじっくり作られていくんだろうけど、中国ではものすごい勢いで進んでいくんだろうなというような雰囲気だった。ここらへんから特有の棚田がちらほら散見するようになってくるのだが、そういった棚田は横からざっくり建設道路に削り取られていて、なんとも象徴的な風景になっている。そんな山岳道路(舗装はされている)を二時間ほど走りいよいよ金平(じんぴん)近くまでやって来た。最後道が大崩れして応急処置的に治した箇所を何とか通り抜けると国境警備の検問所に到着した。国境警察が車内に入ってきてひとりひとり身分証明書をチェック、僕らの番になり、二人ともパスポートを警官に手渡たすと、すぐにバスを降りて別室に来いと指示された。俺はもう初めての経験だったのでドキドキしていたのだが、相棒のS氏は中国語で受け答えし何食わぬ素振りだった。多分俺一人で来ていたら即刻強制送還されていただろうけど、さすがS氏のコミュニケーション能力、何の問題もなく無事金平に入境できた。
建物が増え始め、徐々に開けた山間(やまあい)に入っていくと右手に建築中のマンションらしき建物がいくつも見えてきた。ちょっと雨っぽい天気だが、町が姿をはっきりあらわした。
さみしくもない結構大きな街並み、そう、小諸っていう感じがしなくもない、あの山あいの坂のある町並み。まさに小諸っていう感じかもしれない。
ここが今回のベースタウン金平、ベトナム国境のこの町は今までの中国とはちょっと違う雰囲気を漂わせている。
ようやく六時間ちょっとのバスの旅を終え夕方五時半ごろバスステーションに到着、ブラシの木(カリステモン)がこれでもかって咲いていた。

心に湧き上がってきたことを言葉で正確に伝えるのって難しい。
もっと難しいのは視覚的な出来事や美しいなって思った風景を言葉で伝えること。
ただ毎回そうだけど極力写真は載せないブログになってます。
ご容赦いただき、想像しながらお読みいただけると幸いですが…  

まあよろしくお願いして、次回に続きます。



遥かなる雲南の旅 序幕

2018年04月14日 | Weblog
これから一週間、家を空けることになるとなるとその前段階はとてつもなく忙しい
4月5日から12日まで中国雲南省の国境の町を巡る旅を控え、毎日目いっぱい段取り仕事に追われていた。天気がよかったので畑仕事は順調に進められた。
レタス定植する畑のマルチ展張、キャベツ定植する畑の畝立て、電気柵の設置。荷造りは直前までしてなかったのだが、最後にパスポートを確認した時有効期限を見て一瞬青ざめた。「24 MAR 2019…… これ切れてないか?!」2019年3月24日… かみさんに見せたら「今年はまだ2018年でしょ!」俺は今年が西暦何年かもうろ覚えだった。自分が48歳なのか49歳なのか時々わからなくなるあの感じに近い勘違いをしていたのだ。まあ致し方ない…
前日は息子の大学入学式に出席し、モニターの中継画面でしか観られなかったものの晴れがましい気分は十分味わえた。旅の前日の行事としては少々大きなイベントだったが、まあこれも致し方ないだろう。

今回も前回の海外旅行同様、軽井沢でアジアンブティック店を経営しているS氏との二人旅、彼は軽井沢一番の中国ツウといっても過言ではない人物、冬の間スキー場で同じ職場で働いていた名パトローラーだ。前回2016年のタイ、ベトナム旅行でも全面的にお世話になっていて信頼感は抜群、まったく心配いらない旅になる予定(だった…)

入学式後、東京のちょっと暑い春を満喫しながら息子のアパートに戻り、懸案になっていた洗濯機のホースを繋ぐ工事をしてから近所の実妹のマンションに向かった。ところどころで八重桜が満開になっていてこの時期の東京はいつ来ても気持ちのいい季節、水仙の葉っぱがやっと出てきたばかりの軽井沢にはない風景にすっかり心が弾んでいた。毎回海外旅行の前に一泊させてもらう実妹のマンションは京成の沿線にあるため、成田も羽田もアクセスがよく毎度ありがたく泊めさせてもらっている。今回も前日ありがたいもてなしを受け、ビールの後に飲んだテネシーウィスキーに最後は気持ちよく眠りに誘われていった。

出発は成田発上海浦東行のエアチャイナ午前8時55分発、妹宅を出て最寄り駅の5時ちょっと過ぎの始発に乗った、当然まだ夜明け前だ。
上り線の始発は思いのほか待っている乗客が多いが、下り線のホームはガラガラ。スカイアクセス線のスカイアクセス特急内も旅人がほとんどだったけど、背中にしょった40Lのリュックを座席に置いても問題ない程空いている状態だった。
しらじらと明るくなり、曇っている朝の成田に到着、程無く相棒のS氏が俺が座っていたチェックインカウンター前の椅子のところに現れた。
ここのカウンターだけ他に比べずいぶん込み合っていたが、サクサクと手続きし荷物を預け出国した。S氏は早速頼まれていたつけまつげを免税店に探しに行ったが、お目当て商品はなくスゴスゴと戻ってきた。
上海行は満席、結構おいしい機内食をいただきながら(なぜか飲み物サービスのワインが極端に少なかった気がするが…)あっという間に乗り換え地の上海浦東国際空港に定刻どうり到着した。早速空港両替所に向かい「円」を「元」に交換、前回よりも元が強くなっていたのでちょっと残念な気分になったがそれも致し方ないだろう。その後フリーSIMを買いに空港内の店を物色、一週間五千円で使い放題のSIMを購入した。早速入れ替えしてもらったのだがうまく作動しない。もうひとつサブに持って行った端末に入れ替えてみたけれどそれもうまくつながらず「アイヤー!」と店員のおねえさんも困っていた。「Wi-Fiを買えばなんとかなるかも?!」と言って薦めてきたけどこれ以上深追いしてもこじれるだけ、5千円の損失はしょうがないと諦め、ちょっと忙しくなってしまった昆明行きの搭乗手続きに向かった。まあ致し方ない…
14時30分発の昆明行きはまたもや満席、乗客ほとんど中国人だと思うが、僕ら二人も中国人となんら変わりない風貌なので違和感は全くない。多分これからは見た目でアイデンティティを表現するのはユニクロに身を包んでいる限り無理のような気がする。
国内線なので食事は出ないと思っていたのだが、やはり飛行時間がかなりあるので軽いスナックが出た。パンにハムとマーガリンが挟まったようなモノで、少ないワインではおいしくいただくことができないと思いコーラをお願いした。(ハンバーガーにもコーラが一番合うのだ)
窓際席から外を眺めると翼の下に夕日があってその下にすぐ地平線が見える 地平線に目を下すと昆明郊外の農業用ビニールハウスがびっしりと広がっていた。昆明に到着したのは現地時間(中国は国内どこでも日本と時差マイナス一時間)の7時半、まだ空港全貌がどんな風かわかるような明るさだった。ボーディングブリッジから入国ロビーまでの長ーい廊下はこの国の広さを象徴するような距離感だった。これからの旅はこの距離感が基準になるだろうことをここで予感する。
入国してすぐ地下鉄に乗り込み、1日目宿泊のホテルに向かった。昆明の地下鉄はまだ東西南北に2線伸びているだけでまだまだこれから発展していく感じ、建設中の路線があっちこっちに伸びているようだ。我々は環城南路で降り、地上に出て実質的にやっと中国に上陸した。
ホテルには夜の9時に到着、思っていたのと全然違い、綺麗で清潔な部屋でパリっとしたシーツがベッドを覆っていた。
腹が減っていたので早速街に飛び出し、若いねえさん達がテラスでワイワイやってる火鍋屋で夕飯を食べることにした。俺たちもテラス席を望んだのだが、店員のねえさんは断固として拒否、なぜか奥の堅苦しい席に押し込められた。火鍋はチンゲン菜と豚肉を注文、サイドメニューに麻婆茄子のようなモノを頼み、飲み物ははこっちの地方おすすめのダーリビールにした(グレードはV8というやつだ)
どうやら閉店間際らしく白米を頼んだら断られた。火鍋がなかなか運ばれてこないので覗いてみたらねえさん達が賄い飯で白米を食っていた。自分たちの夕飯が無くなっては困ると、俺たちの注文をバッサリ断ったに違いない…

昆明は今回の旅の通過点、目指すはベトナムとの国境付近の町巡り。少数民族との出会いがメインテーマだ。
昆明はもう大都会、上海や北京となんら変わりない中国の一地方都市になってしまった。ただここは標高が1900m、長野でいえば戸隠山山頂(わかりにくいか?)で沖縄宮古島と同じぐらいの緯度。出発した軽井沢よりも寒くてびっくりした。厚手のパーカーを持ってきて正解だった。
そんな不思議な場所だが、明日はもっと不思議な場所「金平」へ。とりあえずここまで旅の序幕は順調な滑り出しになった。
とりあえずWi-Fiはつながったがフェイスブックもラインもグーグル先生も閲覧できない。

こういうところで中国に来たんだと実感したのだが、これはまだ序幕の前のトイレ休憩にしか過ぎなかったことが後になってわかることとなる…