上発地村から

標高934mぐらい日記

中国地方&九州北部の放浪雑感

2022年12月31日 | Weblog
12月6日に軽井沢を出発し放浪開始、同28日旅を終えて帰ってきた

22泊23日のロング放浪、僕の人生の中で最も長い放浪になった。放浪に深い意味もなく、ただ単に家を離れさまよい歩きたくなったっていうのが動機で、自分を見つめ直すとか、死に場所を探すとかそういったことでは一切無い。
旅しながら思ったことや、撮った写真なんかはトラックの荷台でFacebookにアップしてきたのでほとんど詳細はそこに記してある。
なぜトラックの荷台かっていうのは、今回の旅はトラックの荷台に畳を敷き、そこに必要な生活道具を詰め込んで寝泊りしていたので、そこで毎日夕飯を食べ、酒を飲みながら旅の詳細を日記のように書き込んでいたからということだ。

放浪しながら風景を見たり、人に会ったりして感じたことや、道中で聞いていたラジオによって考えさせられたことなんかを音声メモやメモにプロットしておき、酒を飲みながら書いていたのだが、頭に思い浮かんだことっていうのは思い浮かんでは消え、飯を食っては消えトイレで用を足しては消えるので、メモしておかないとその時どう感じていたかなんてすぐに脳から消え去っていく。
後でメモを見返せば自分の心はどこに向かっているのか、何をしたいと思っていたのか思い出すことができる。文章を書きながら頭の中を整理するために書いていたのだ。
自分自身の小学生の頃書いた作文は、なんも思うこと無いのに書かされていたり、先生におもねった文になっていたりするのであんまりいいのがないんだけど、長崎、雲仙普賢岳の噴火で被災した小学生の作文は読んで涙が止まらなくなった…

広島では雪に見舞われ、思うように動けなくなった。この旅で一番難儀した場所になった。
日本の物流は地方の端っこの方にまでしっかり張り巡らされた高規格の道路や、しっかり組まれた運送業のロジスティクスによって支えられている。
コンビニやスーパー、ホームセンターほとんど欠品なく様々な商品が並べられていることに驚きを感じるし、それを支えている人々に感謝してやまないのだが、そういう機能を地方にまで張り巡らすと、どこか他の部分に窮屈さや無理、歪みをもたらしているのではないのかと心配になってしまう。
目の前で雪によって渋滞しているトラックを見ていると、システムがダウンした場合、最後の砦は人の力で何とかせにゃならんのだけど、雪が消えればまた日常が戻り、何もなかったように商品棚に品物が並ぶ。
そんな偉そうなことを言いながら、俺のトラックの中の食生活はほとんど旅先のスーパーに支えられていた。ただ消費するだけの旅であり、何も生み出していない。
燃料を消費し、食糧を消費し、それでも放浪をする意味があるかどうかはわからなかったが、帰ってきたら俺の気持ちはいくらか落ち付いた。

放浪記を書いてみたが脚色はほぼ無い。脚色したら後で読み返したときに違和感が残って読んでられないと思ったので、その日の旅の記録はその日に書き記すようにしていた。だから面白くない事実ばかりだけれど、それはそれで致し方ない。
松尾芭蕉は「奥の細道」でところどころ文学的な脚色や構成をしている。それは一緒に旅した門人の河合曾良の「曾良旅日記」との比較でわかる。
新潟県の「市振」の章は全くの虚構だけれど、それはそれとしておかないと奥の細道っていう紀行文が成り立たなくなる。紀行文とはそういうもの。
だからアポなし、ロケハンなしのテレビの旅番組なんて当然存在しない…

もう一点考えさせられたのは、城や神社仏閣をめぐってのこと。
要するに人間の歴史はマウントの取り合いの歴史だってこと。いろいろ曲解したり、議論をこねくりまわしてもその点に集約する。
マウントの取り合いに、いろんな動機があったり大義があったりするんだろうけど、最後はマウントを取ることによって一件落着(一見落着)したような状態にするということ。歴史を考察し暴力革命じゃないとマウント取れないって思ってる人が一定数いるっていうのもわからなくはないし、
壊れないと再生できないって思ってる人も一定数いるだろう。僕はそこはよくわからない…

もう一点は消費に関してだけど、人は雰囲気で商品を買っているってこと。
これはメモしておいたのだけど、言いたいことの核を忘れてしまったのでまた何かの機会で思い出し書きしたいと思います。






私とスキー 続き

2021年04月29日 | Weblog
もう題材が季節とマッチしないけど書かないと終わらないので…

お店のこうちゃんの家は村で日用雑貨店をやっていた。僕が子供の頃は自動車の免許をもっていないご婦人も多かったので、こうちゃんちで食材を買ったりして食事を賄っていたりした。こうちゃんちはそのほかにも駄菓子屋みたいな商品も売っていて、当時流行っていた「スーパーボール」っていうものすごく跳ねるゴムボールのおもちゃなんかのくじ引きなんかもやってた。昔は畑仕事で遅くまで働いていた家も多くて、なかなか食材や日用品の買い出しも大変だったんだろうなって今になるとしみじみ思う。そんな村の貴重な商店をこうちゃんちはやってたのだ。
ある日こうちゃんと外で遊んでいた時、彼は自分ちのお店から売り物のアイスクリームを持ってきて僕の前でおいしそうに食べていた。とにかくこうちゃんちには駄菓子やコーラ、ちょっとしたおもちゃなんかがあって、それを好き勝手自由にしているように見えたのだ(実際は商品なんだけど)
こうちゃんに対してはちょっといつも羨ましいな~って思ってたんだけど、その時は何を思ったのかこうちゃんに「俺にもアイスクリームくれよ!」って言った。たぶん今まではそれは商品だから買わないといけないって事はわかってたんだろうけど、くやしいというか、うらやましいというか、何か不平等感を感じてちょっと強めに要求したのを覚えている。ちょっとした「カツアゲ」の要素が含まれていたかもしれない。
こうちゃんとは言い合いになり一悶着あったけど結局こうちゃんはアイスをもってきてしぶしぶ僕にくれた。あの時は完全に悪いことをしている感があってアイスがおいしいとかそういう事ではなく、ただなんとか手に入れたっていうような感じしかなかった(ような気がする)
その直後だったか後日だったか忘れたけど、こうちゃんのおふくろさんにえらい怒られた。そりゃそうだ。仲のいい友達とはいえそれをやってしまったら商売が成り立たなくなる。俺も反省をしてアイスクリーム強要事件はそれ一回きりだった。
こうちゃんちはその後何年かはお店をやっていた。こうちゃんが言うには店をやめるまでの最後の頃はこうちゃん自身が仕入れをしてたって夏祭りの時本人が言ってた。夏にジュースが売れるのでそれをよく仕入れてて、特にポカリスエットが売れたって敏腕バイヤー気取りで自慢してた。
とにかくこうちゃんちは楽しそうに見えたし実際そうだった。コンピューターゲームも持ってたし、最終的には自分でインベーダーゲームをパソコンで自作してた。最先端だったし、俺はその才能に嫉妬していたんだな…

なんの話だったっけかな…

そこで本題にやっと入るのだけど、こうちゃんの親父さんが軽井沢プリンスホテルスキー場で働いていたので、親父さんがナイターの勤務の時にこうちゃんと僕をまとめてスキー場に連れて行ってくれてたのだ。(ただ単にこれだけの話です)
その時もこうちゃんがグラスファイバーのスキー板だったのに僕は木のスキー板。こうちゃんがストッパー付きのバインディングだったのに対して僕のはリーシュコード… なにかにつけ先越されてたな。

中学校でもこうちゃんの親父さんに連れられてスキーしてた。妙高行ったり、黒姫行ったり。
その頃はスキーっていうスポーツが楽しくて楽しくてしかたなかった。
そんなこんなで今もスキーになんとなくかかわりながらこの歳まで生きてきた次第です。

とりあえずおしまい…




私とスキー

2021年02月22日 | Weblog
スキーというスポーツは今でも好きだ
小学校の時はたいして足も速くなく(短足なので)球技も大して得意じゃなかった。
僕の通っていた小学校は近所に堤義明さんが作ってくれた軽井沢スケートセンターっていうのがあって、高学年になると(たしか四年生)スケートクラブっていうのに入部することができて多くの子供たちがそこに入れられた(少なくとも僕は自分の意志ではなかったような気がする)
早朝練習では今の中軽井沢駅近くからスケート場のあった今の千ヶ滝温泉まで約2.5kmを朝のランニングと称して歩かされ(走ってたな)上級生のおさがり、自分の足よりちょっと小さめのスケート靴に足を押し込め、かじかんだ手で紐を結んでタイツ一枚と薄いヤッケ、軍手の二枚重ねという最悪の装備で-15度の寒空の下で(昔は結構軽井沢も寒かった)氷の上を何周も滑らされた。腰は痛いは手足の指先は冷たいわ、多分僕の足のサイズが24.5cmしかないのは纏足(ウィキ参照してください)ばりの矯正スケート靴によるものだと確信している。
ここまで何の滞りもなく文章がスラスラと書けるのは相当な思いというかスケートに対しての怨念みたいなものがあるからなのかもしれない。
大してスケートも上手ではなかったのでタイムもよくなかったし、成功体験もない。どっちかっていうと劣等感ばかり感じるような経験だった。ただ唯一良かったのは記録員(リレーの補欠が大会に同行して雑用をこなす係)として感謝状みたいなものをもらったことだった。これは昔書いたブログにも記してある(どんだけトラウマなんだっつーの……)
そんな小学生時代だけど、なんかあるとき、多分スケートクラブに入る前の三年生ぐらいだったかなぁ…近所に住む親せきのおじさんが軽井沢プリンスホテルスキー場に僕を連れてってくれた。まあおじさんも教えることなんてしなくて、スキー板をはかせていきなりリフトに乗せて上まで連れていかれた。当然とっ散らかってひどい目に遭い、もう二度とスキーなんてするもんかって思った。
だいたい運動が得意なほうじゃないのだ。小学一年生の時は竹刀を持った女教師に水泳の授業でこっぴどくしごかれ、トラウマで水泳が嫌いになった。高学年になるまで泳げなかったのだが、なにかのきっかけで急に覚醒し中学校ではかなり泳ぎが得意になった。
運動とか勉強ってなにかちょっとしたきっかけで覚醒してうまくスムーズにできるようになったりする。これは教育っていうものが奥深いことを物語っていて、教え方次第でよくも悪くもどっちに転ぶかわからない。だから教育者は覚悟して事に当たらなければならないし、僕はそういう職業を選んだことに本当に心から敬意を感じるが、それとともによくそれを覚悟したなっていう驚きと、もしや事を軽く考えてんじゃないだろうな?!っていう疑念や不安ともいうような思いを感じざるを得ない。

話しがだいぶそれた…私とスキーだったな…

近所に「お店のこうちゃん」っていう同級生がいた。頭がよく僕にとって興味深い小学生だった。
ある日こうちゃんちで一緒に遊んでいたらちょうど小包が届いて開封したら「がんばれロボコン」の超合金が出てきた。少年雑誌の懸賞に応募して当たったのだ。それはそれは羨ましかった僕は無茶苦茶悔しかった。彼は博学だったので僕ほとんどいろいろ論破されてた。
今でも彼が村に帰省してくると昔の話をするんだけど敵わない。「日本の政治はアホな文系の奴らがやってて理系の優秀な人間が表に出てこない」って言ってはばからないけど、たしかにそうかもしれない。もっと論理的に政治をすればスッキリうまくいくかもしれない。彼はこのコロナ禍をどう見てるんだろ、今度帰ってきたらきいてみよう

話しがまたそれた…私とこうちゃんだったっけか…

続きは次回…





戯言

2021年01月12日 | Weblog
十日間の四国トラックキャンプ旅行を終え帰ってきてすぐに農協の会議があり、その後家の掃除やら溜まっていた書類の整理やら雑用をこなし新年を迎えた。年末からちょっとは働かないと社会に申し訳が立たないと思いスキー場でお世話になっている。
今の職場はスキー場のゲレンデ管理、パトロール業務をしているのだが、今年は現場の人員が比較的充実していて、医療現場のようにひっ迫している状況ではないし加えて緊急事態宣言なども発令されて全体的にみても人出は例年並みというふうにはなっていない、どこも一緒だろう。
医療現場がひっ迫してるっていうのは僕らがマスコミからしか情報を得ていないのでそうなんだろうと想像するしかないのだが、医療機関で仕事をしている姪っ子の話などを聞くと、医療現場ってひとくくりにして論じることもできないなと思う。

今年の我が家の野菜生産は惨憺たるものだった。ここで反省文を書いてもしょうがないので割愛するが、天候不順や労働力不足等の条件の悪いなかでも
しっかりいい野菜を生産していい経営をしている農家もたくさんあった。「今年は野菜が高くて儲かったでしょ?」って言ってくる人もいたりするんだけど
そういう時は「ほかの家はよかったけどうちはダメでしたぁ(笑)」みたいな感じで受け答えしている。実際そうだったのだし……
農家ってひとくくりにできないし、医療現場ってひとくくりにできないし、サービス業ってひとくくりにして論じるとおかしなことになる。
家族(主にかみさんと息子)では今回のコロナの件で大きく意見が食い違った。遺伝子の近い人間どうしの考え方は似ているようで、俺と娘たちはコロナに関しては考え方が似てるというか、無頓着な感じで毎日を過ごしている。
身近な人と接すると、普段の起こっている出来事に対してまあそれぞれ考え方は様々なんだろうなって思いながら暮らしてはいるのだけれど、今回の件でそれがより顕著になって、もうあきらめかけたりもする。常々自分はこうだって思っていてもそこを押さえて自分を変えていったほうが楽だし生きやすいぞって半ば納得していたんだけど、ことここにきてそれだけでもダメなんだろうと・・
結論からいうと「マスクはパンツ」っていうことと「PPKで死ぬってことはコロナで亡くなるってこと」というようなことだ。
コロナは致死率100%じゃない。100%だったら誰もかかりたくないし、ロックダウンしてくれって言いたくなるのもわかる。ただ中には「これが運命だな」って思い覚悟する人間だっているだろう。今回は治ってる人間もいる(あのメタボリックのトランプでさえ)のだからつまりそういう感染症レベルなのだ。
予防はするが、それ以上に過敏になる必要はない。そりゃ人によってはサイトカインストームを起こして死んでしまう人もいるだろう。ただそういう人はもともと健康体ではなく(俺だ)表面にあらわれない疾患(あっという間に壊れる体)を患っていたということだ。
そういう弱者(老人であれ健康体でない人)を見捨てる社会であれなどと言っているわけではなく、ウイルスや病気っていうものはそういうものだからしかたないだろってことなのだ。それを公衆衛生学やテクノロジーやマスクや自粛で完璧に抑えようっていうのも無理あるだろうって…
予防対策自体をどうこういうつもりはないけど(ほんとはあるけど)社会の風潮や人々が一つの方向に流れていく様に不安や驚きを感じるし、実は冷静に受け止めている人たちもいてとりあえずマスクして自粛したようにみせているみたいな混在した世界になってるっていうのには安心させられる部分もある。
そういうふうに受け止め方も右から左まで様々、俺は俺でまあ人前に出るときはパンツをはくように、口元をあらわにすると不快に思う人が多数の世の中になればマスクもまあしとくかということになり、さらに裸族の時代は今後相当な温暖化にならないとこないだろうと落胆しているのだ。
あっちに行きたいのに社会がそれを許さないように流れていたら窮屈を感じてこんな国出てってやると思うだろうが、日本は相当なポンコツの体でも生き永らえさせてもらえる一流の医療体制が整っている。多少窮屈であろうが有り難く黙って住んどけって言われそうだが、一体いくつまで生きてどんな死に方したら気が済むんだろうか。うちの母親のように60歳で自死したら不幸なのか!? うちの父親のようにPPK(ぴんぴんコロリ)で死んだら幸せなのか?!
死をあまりにもいつも遠ざけておきすぎると今回のように慌てて焦る。コロナで死ぬのはPPK 普段死ぬならPPKがいいって言っておきながら、突然コロナ死ぬのは不条理で嫌だ思うのは覚悟も無く毎日ダラダラ生きているからなのかもしれない。

覚悟も無く毎日ダラダラ生きている人間のたわごとでした…・




コロナ禍にて

2020年07月30日 | Weblog
大学は高崎だった。高校の同級生は東京の大学に行っている人間が多く、そんなに意識していたわけではないけれどちょっと出遅れた感はいつも心のどこかにあったような気がする。
大学を卒業し、特になりたかったわけではないが、まあ社会人としてはそんなに間違ってはいないだろうということで銀行に就職した。
仕事は仕事として生活していくための手段と割り切っていくもんだと思っていたし、それがまともな大人ってことなんだろうとも思っていた。
東京のど真ん中、千代田区の社員寮に入り江戸川区の支店に出社する毎日が始まった。慣れないネクタイを締めスーツを着て満員電車にゆられ会社に出社
仕事の覚えがいいほうではないので基本的な業務をこなすのもなかなか一苦労だった。
ある日秋葉原あたりだったと思うが同僚と酒を飲んだ後、駅のホームで電車を待っていたら会社の支店長次長にばったり出くわした、時刻は午後10時を回っていた。
次長はかなりの時間をかけてこれから埼玉の自宅に戻るとのことだった。
それを聞いた時、俺もどのみち次長のような生活スタイルになるんだろうと一瞬で自分の未来の絵が頭に浮かんだ。
そのあたりからなんか気持ちが変化していったように思う。入行して三か月、ボーナスをもらった後ぐらいに依願退職した。嫌気がさしたのだ。
東京で一人前になることがまともな人生だと思っていたし、それなりに出世したいとも思っていたけど、それは叶わなかった。負けたと思ったけどさっぱり感もあった

東京の大学出身の同期入社の同僚は満員電車を難なく乗りこなしていたし、新社会人生活をそれなりに楽しんでいるようだったが俺は違った。
高崎あたりの地方田舎都市にいた人間にとって東京ってのはなかなか手に負えなかった、っていうかそもそも高崎に住んでいたのも一年だけで三年間は軽井沢の実家から大学に通っていたので元々田舎率99パーセントの人間なのだ。

人間が密集しているところをさらりとかわしながら生きていくのが都市の洗練された人間なんだろうと思っていたが、俺は洗練されてなかった。

理路整然とした植え込みと平らな道路、時間通りにくる電車、固すぎる革靴、同じ方向に向かう人並み、空調のしっかりきいた店内と子供の頃に経験したことのない高温多湿となんとなく気に入らない空気。それらすべてが俺を少しづつ消耗させた。
人との距離が近くになるってことを経験してこなかったために実は近距離免疫をもっていなかったのだ。口では「近くて全然オッケー!」とか「ソーシャルディスタンスなんて要らない!」なんて言っているけど体自体は拒否反応を起こしているのだ。
全然ウェルカム、フレンドリー、小さいことは気にしないワカチコワカチコー!な人間じゃない…

今ソーシャルディスタンスを訴える人がイライラをあらわにしているのは、もともと都会が内包していた近距離マターがやっぱりこれは普通じゃないっていうことが顕在化したんだと思う。

たぶん銀行の同僚はいまでも自分の仕事を全うしてるし、都会のストレスの中でするりと人をかわしながら元気にやってると思う
出世した人間は社用車に乗ったり、軽井沢に別荘を持ったりして近距離マターから解放されている場合もあるだろう
中にはうちの妹みたいに東京大好き都会大好き、近距離バッチコイ!っていうのもいるから、単純にひとくくりはできない。

今回のことでいろんな事が表面に現れた。
かみさんと俺の意見が食い違うことが多い、いわゆる性格の不一致もあらわになった。

ただそれで結果的に助かったことは多かったと思う




下町銭湯考

2020年02月17日 | Weblog
先週の11日から15日土曜日まで、息子の住んでいる葛飾のアパートで過ごした。
11日のお昼過ぎに高速バスに乗り夕方池袋に到着。その日は東京に住んでる高校の同級生と僕合計三名でやきとり屋で盛り上がった。
次の日はアパートでのんびり一日過ごす。大学生の息子も春休みなので家にいて二人でたわいもない話をしてだらだら過ごした。
13日は東京見物、一人で電車で三田まで行きそこから白金、目黒までぶらぶら散策。天気もよく暖かい陽気だったのでリラックスして楽しめた。
夜は息子とてんやで天丼を食べ、カラオケボックスで12時までがなりあげる。
14日はのんびり朝起きたあと、息子と近所のスーパーに食材の買い出し、こっちが金を出してくれるもんだと決め込み、これでもかっていう量を買わされた。
昼飯は父ちゃん特製牛丼を作ってやり二人でそれを食べた。息子は来月上演の舞台の稽古が夕方からあるらしく、それまでのんびりするって横になってた。

ここからが本題です (👆は無視してくださってかまいません 単なる覚え書きです…)

僕は飯を食ったあと、以前から興味のあった東京の昔ながらの銭湯に行ってみようと思いスマホで調べて東新小岩の「千代の湯」へと生前親父が乗っていた自転車にまたがった。

千代の湯はアパートから自転車で15分ぐらいの距離、ちょっと曇り空だったけど寒くない、スマホのナビを頼りに快調にとばして行った。
間もなく住宅街の中に千代の湯をサクッと発見、思ったとうりの懐かしい外観だった。
まずは自転車を入口正面脇に駐車、自転車で来る人が多いようで結構な台数停められていた。写真を撮りゆっくりと建物の中へ。下駄箱は今では居酒屋ぐらいでしか見かけない松竹錠(木でできた鍵)のそれだった。それもおしゃれなやつじゃなくて昔ながらのホンモノ、これはもう思いどうりの銭湯に来たなと少しニヤついてしまった。さらに奥に入ると右手に番台があった。番台に座っているおばさんに500円玉を渡し30円のおつりを受け取る。おばさんは僕を見ても怪しむ様子は全くなくウェルカムな笑顔で迎え入れてくれた。こういう銭湯は常連さんがほとんどで部外者はほとんど来ないと思うのだが、インバウンドもいよいよディープな銭湯巡りまではじめてここにもその食指を伸ばしてきたのかも? 俺の風貌もどうやらそれに見えたか?! そういえば前日奥戸のホームセンターで「かくかくしかじかのナニはどこにありますか?」と尋ねられたばかりだ
それよりも東京都の銭湯の料金が去年の10月1日に5年ぶりに10円値上げになったということと、そもそも入浴料金が都道府県知事によって決められる「統制額」っていうのにちょっと驚いた。まあ公共性のあるものだから郵便料金と似たようなもんなのかな…
アーチの入口をくぐって男湯脱衣所へ,
二人のおじさんが服を着込んでいるのが見てとれる。脱衣所はかなり広く天井も高い。昨今は脱衣所が狭くて「すいませんね~」っていう感じで隣の人に気を使いながらパンツを脱ぐことが多い。銭湯の一番のリラックスタイムは風呂上りに脱衣場でパンイチでコーヒー牛乳を一気飲みしている時、まったくわかっちゃいない! 建築設計士は脱衣場をもっと重要視すべし、店舗よりも駐車場のレイアウトが大事っていうのと同じなのですよ…
焦る気持ちを抑えつつパンツを脱ぎ、シルバーの引き戸を引き浴場へ、まず正面にはハワイアンな椰子の木が何本も描かれていた。
定番の富士山じゃないっていうのもまた良し。浴場自体はやわらかく温か味のある数色のタイルで作られていた。派手じゃなく落ち着いた色使いだ。天井は肌色、白、緑、スカイブルーの四色のボーダー、これも一見大胆だがよく考えられた配色で落ち着きがある。
まずはマナーに従い体を洗いシャンプーをして全身を清める。ボタン式のカランだが長年の修理のためか洗い場によってボタンの形が微妙に違っている。老舗の雰囲気がここにも表れている。また洗い場のレイアウトや数が浴槽に対してのバランスがバッチリで、これこそ銭湯の基本スタイルのお手本だろうという感じだ。
体に泡がついてないことをよく確認してからやおら湯舟に向かった。三か所に分かれた浴槽の端の「でんき風呂」とアクリルプレートに書かれた深緑の湯に足を滑り込ませた。でんき風呂とはいうものの湯がビリビリしている感じはなく、ちょっと熱めのいい湯加減だった。浴槽には誰も入っておらず、洗い場で入念に身を清めてる人が五、六人いた。多分…っていうか確実に俺が一番若い。とにかく常連さんばかりだと思うが年齢はかなりアッパーだ。仕事を終えルーチンで必ず来てる人、もう引退してのんびりしているが一日の〆はここの湯でゆったりっていうおじいちゃん。北関東訛りも聞こえてきたから、たぶん田舎から東京に出てきてこっちで長いこと暮らして家族や孫もたくさんいるんだろう…などと勝手な妄想してるのだけどあながち間違ってもいないだろう。
湯の温度がけっこう高いのであったまるのも早い、すこし体を冷ますため浴槽の縁(ふち)に腰掛けて一息ついていた。すると新たににおじさんが引き戸を開けて入ってきた、背中には美しい昇り鯉の刺青が入っている……おじさんは真っすぐ僕が使った洗い場に行き腰掛けて体を洗い始めた。もしかしたら俺は恐れ多くもおじさんの定位置を断わりもなく使ってしまったのだろうか。まあいいい…
その後もおじさんはゆっくり丁寧に洗い場で体を整えている。だいたいここのおじさんたちは湯につかっている時間より洗い場にいる時間のが長い。俺も綺麗好きだと自分の事を思ってるのだが、みなさんを見ているとそうじゃないんじゃないかって気になってくる。
俺はでんき風呂の反対側のジェット水流風呂の縁に移動しそれとはなしに鯉の刺青を遠目に眺めていた。それにしても美しい刺青だ。こういうの入れたら女の子にもてるのかななどと浅はかなことを考えながらおじさんの動向を気にしていた、なぜならおじさんの洗い場の目の上のところにタオルをい置いてきてしまったのだ。取りに行くタイミングを見失った。
こうなったら当分湯に浸かったり出たりを繰り返してのんびり待つしかない。するとおじさんは洗い場から俺の入っているジェット水流風呂に入ってきた。軽く緊張したがおじさんの表情は穏やかで、背中を意識しなければなんてことはない。今時は見た目普通だけど中身がぶっ飛んでる人もいるのでなかなか難しい
おじさんが出て行ったあとは真ん中の薬草風呂に入ってみたが そこだけ深い湯舟でちょっとあせった。
十分あったまったあとシャワーで流し脱衣場へ、入れ替わりに浴場へ入ってきたおじさんの背中には龍の刺青……刺青率高いなぁ……
もしかしたらここは作品発表展示浴場なのかな……
脱衣場と浴場を隔てるガラス窓にはビーナスのような天女のようなストリップ劇場の綺麗なお姉さんのような腰下を羽衣で覆った女の人のサンドブラストが描かれていて目を引く。足元になぜかシャコ貝が描かれているんだけど、多分職人さんが脳内イメージだけでフリーに描いちゃって微妙に間違っちゃったんだろうな。背中じゃなくてガラス戸でよかったよ。ちなみにビーナスが乗っている貝は「ジェームズホタテ貝」です……
脱衣場は古い造りなんだけど綺麗に掃除してあるのでゆっくりとリラックスできるゾーンだ。今は昔の造りと違って改築してある感じなのでここで牛乳は飲めないが、そここに雰囲気を感じる。
アーチをくぐりロビーへ、端っこにはまだ現役で使われているであろう年代物のマッサージ機が二台、興味はあったもののそこには座らずコーヒー牛乳も飲まず(ビールを飲みたかったので)番台のおばちゃんに挨拶し外に出た。
少し小雨が降っていたけれど体がかなりあったまっていたので苦にならなかった。

   東京銭湯探訪はまだまだ続く……

※  千代の湯

  住所     葛飾区東新小岩5-17-6
  電話番号   03-3697-5787
  営業時間   15:10~22:00
  休業日    月曜(祝日の場合は火曜)
  交通     [新小51][新小52][新小53]中関橋下車徒歩3分










政治論

2020年01月23日 | Weblog
車に乗りナビを使って6、7人ぐらいで目的地に決まった時間までに到着しなければいけない場合、とりあえず古いナビだったとしてもそのシステムを使いはじめたら最後までそれを信じて三人以下の合議で決めて向かった方がいい
三人以外に口を挟みたい人間がいたとして、たとえ本人がそれを名案と思っても、時間までに間に合うなと思ったらそこはグッとこらえてその三人に任せた方がいい
三人が混乱していたり、もしくは明らかにおかしな方向に向かっていた場合、口を挟む人間は自らの全責任を負う覚悟で強く断言し、皆を納得させる根拠をしっかり示して最新のスマホを片手に最新ナビを駆使して皆を目的地に導くべし
その意見に救ってもらった他の乗客はありがたく思うかもしれないが 中にはよく思わない人間も居るかもしれないと心得よ。とはいえ皆は救われたのだ
皆が納得する最新のナビ(最新システム)と皆が認める優秀な運転手と優秀な補助ナビゲーターが組めば目的地に最速で到着する可能性が高い。ということは時間的余裕が生まれるっていう面でいいシステムであるし、そこを経由して次の目的地に向かうにも楽チンで余裕をもって次の目的地に向かえる。ただ飛行機の時間が決まっていた場合、多少の足止めを食うがそれはどうすることもできない決められた運命と思うしかない。
乗客全員が口出しすると混乱する可能性が高い。直接民主主義はシステムとしてはうまく機能しにくいだろう。また目的地(目的)に向かう場合に時間的余裕がある場合は一旦路肩に止まって落ち着いて話し合ったり、時には運転手が交代することも必要。優秀な運転手であっても疲れて判断力が低下しているかもしれない。
目的地(目的)は最終目的地(目的)ではなく当面生きていく場所である。個人や乗り合わせた仲間達も旅(集団で目的地に向かって行動する)ことから離れてバラバラになり、違う目的地を目指すようになれば、それぞれ目的地(目的)も変わってくる(あたりまえだ)
同じ車に乗っている間はちょっとは文句も言いつつ、みんなと意見調整しながら乗り合っていかないと車内は混乱してしまう。走っている車から飛び降りたり、窓から車外におしっこを放ってはいけない。時にはパーキングで途中下車させたりして、無理やり連れてきた人への気遣いも必要。(パーキングで降ろされても困るだろうけど)
万が一(最悪のケースだが)ハイジャックされたとき1人だったら取り押さえられるけど4、5人ならお手上げ、従わざるを得ない。(目的地変更だ)
話は戻るが休憩を取っておしっこが近い人にも気遣ってあげたいものだ。膀胱が強靭な健康な人間ばかりじゃないのだから。もし膀胱が弱い人をないがしろにすると、その人が車内で漏らしたら逆に皆がしんどい時間を過ごさないといけなくなる。
自分が他と違った目的地を目指す場合、乗り合わせで行くなら同じ目的地を目指す人達と一緒の車に乗るって事になる。ただ大抵の人間が目指したい場所は似たか寄ったかで太宰府天満宮か福岡の繁華街(最近行ってきたばかりなのでここに例えます)欲や心地良さにかられて集まってくる。もし自分が目指したい素晴らしいと思う目的地が有ればその良さをアピールしたあとで運転手になってみんなを連れて行くか、「ついてこないやつはバカだ」と腹を立てながら、もしくは「そりゃそうだよな、でも俺はこっちに行ってどうなっているのか見てみたいんだよな」とつぶやきながら自分一人で勝手に目指すかだ。ただ一人で行くのはなかなか厳しい道だったり、立ち入り禁止だったり、みんなが行きたがらない不毛の大地かもしれないし、隠れた楽園かもしれない……
同じ目的地であってもいろんな道があってひとつではない。所要時間2時間の場合もあれば2日の場合もあるし、経由地や途中立ち寄るレストランも違ってくる。ただ乗り合わせは同じ車に乗らなければならないから道中は快適な方がいい。それは運転手やナビゲーターの腕の見せどころだし乗客どうしのマナーも大切だ。快適に到着すれば運転手は称賛され、乗客もお互いを信頼するだろう。ただ楽園だと思っていたところが見かけだけだったりするかもしれないのでその時は皆で反省してまた次を目指すことになる。
大型バスや大型豪華客船の場合はまた様子が変わってくる。一個人の意見はなかなか反映されないし、実質クルーにお任せするしかない 「iceberg dead ahead‼️」って事になれば海に投げ出されてえらいことになる。大人数を導くのは責任重大、見かけ倒しじゃないホントの船の強度やシステム、操縦者のスキルや船長の判断はかなり高度じゃないといかんだろうな…

(写真は先日相島に行った帰路の船上から島を撮ったものです)



キャンプ(車中泊旅)帰路編

2019年12月15日 | Weblog
5時40分には目が覚めていた。

昨晩は僕テント泊、友人車中。
波の音は浅い眠りの時だけかすかに聞こえ、自分のイビキは全く意識することはなかった。
朝相棒に聞いたら車の中にいても俺のイビキが聞こえてきてうるさかったらしい。ただイビキをかいてうるさいうちはまだ軽度の血中低酸素状態で安心していられるが、静かで呼吸が止まっているときは重度の血中低酸素濃度状態で危ない。イビキは心拍と同じバイタルサインだ。
そんな話はどうでもいい…

相棒は早起きしてすでに湯を沸かしてくれていた。いい判断だ。

朝食は昨日の朝食と同じメニューに加えて昨晩の夕飯の残りのトマトスープ、ヘッドライトを照らしながら綺麗に残さずいただいた。
冬至も近いのでなかなか太陽が上がってこないけどそれでも紀伊半島の方から空が明るくオレンジ色になってきた。
食器を洗い荷物を手早くまとめ帰り支度にとりかかる。本来ならもっとゆっくり砂浜でチルっていたいのだが、最短最速で帰っても距離550km 7時間ちょっとはかかる。淡路島を出るまでは高速に乗らず一般道の海岸線を楽しみながら帰りたいので出発は早めでなければいけない。

ホントの事を言うと翌日にゴルフの予定が入っていて、どうしても軽井沢に帰らなければいけないのだ。もし予定が無ければこのまま四国に渡るっていうプランもあったのだけれど勝手な俺の都合で相棒には初四国を経験させてあげられなくて悪いなと思っていた。
車はまず相棒が運転を担当した。まず西海岸線を目指し福良の方向にハンドルを切る、その後28号線を北上し南あわじ市をひた走った。南あわじ市はほんと平らで豊かな農地が広がっていた。気候的にも小学校の時習った「瀬戸内海式気候」で冬に雨が少なく農作業しやすいんだろうなって感じでのんびり感が畑に出てるひとから伝わってきた。ただあんまり若い人を見かけなかったので、高齢化は進んでいるんだろうなというのが伺える。思わぬ感じで産地見学できたのは相棒にとってはよかった事かもしれない(特に感想は無かったけれども)
その後洲本市へ、途中から東海岸線沿いを北上、大阪湾を右手に見ながら暖かな淡路路(あわじじ)を楽しんでいった。
途中行く手に白い巨大な観音像らしきものがちらほら見え隠れしはじめる。釜口地区にさしかかるとそれはある種の異様な雰囲気を醸し出しながら目の前に大きく現れた。こんな巨大な建造物なのに知らなかったな~勉強不足だな~なんて思いながらネットで調べてみたらどうやらその像は「世界平和大観音」っていうものらしい。ただ今は廃墟になってしまい倒壊の危険もあるため立ち入り禁止になっているようだった。
作った本人は大真面目に作ったんだと思うけどフォルムがイマイチ美しくないのと、首のところにある展望台がギプスを連想させるところから「むち打ち観音」と揶揄されているらしくなんとも物悲しい。
大きな建造物を前段で讃えて(たたえて)おきながらこんなこというのもなんなんだけど、こういうのの境目は難しいですな。ピラミッドにサグラダファミリア、トーキョータワーにバベルの塔、北朝鮮の柳京ホテルに薬師寺東塔。とりあえず建てたら取り壊すときのことも考えとかなきゃいけない。

ちょっと話が長くなってしまった

帰りも明石海峡大橋を渡り淡路島を後にする。そのまま新しい新名神高速に乗り名神一宮から東海北陸自動車へ、気分を変えて行きと違って飛騨高山まわりで松本を通って帰るルートを選んでみた。高山は見どころもあるんだろうけどそんなにゆっくりしている時間は無かった。松本に抜ける国道158号線の高山市の東の板蔵ラーメンでシンプルな醤油ラーメンを食べた後県境の平湯トンネル、安房トンネルをスムーズに抜け松本へ。

僕のグーグルマップナビよりも自分の車のナビを信用してる相棒は右に左にハンドルを切り渋滞を避けながら運転している俺を全く信用していないようだった。俺だってどこをどう走ってるか良く分からないからグーグルマップの指示どうりに右や左にハンドルを切っているのだ。それにしてもグーグル先生のナビはいつもえげつない…

なんやかんやで松本を抜け三才山を越える。途中霊泉寺温泉の共同浴場に立ち寄って風呂に入ろうとしたが、メンテナンスのため休館
仕方なく布引観音温泉に変更し熱めの湯で旅の疲れを癒した。うっかりしていたのだが、ここは料金が400円と格安のためかシャンプーやボディーソープが無い。相棒は家に帰ったらもう一度風呂に入って洗髪して体を洗うって言ってた。まことにすまんかった…

往復総走行距離は1200km近く、帰りは出発から10時間ちょっとかかった。

最後ちょっと忙しい旅になってしまい相棒には申し訳なかったかなと思っている。
ただ全体的にどう思っているのかはその後帰ってきてからも感想は聞けていない。

帰り道の夕飯は「美味い」「安い」「早い」の牛丼だったが
彼にとって今回の旅は 「不味い」「遠い」「イビキがうるさい」といったところかもしれないな…





キャンプ2日目

2019年12月15日 | Weblog
あんなに自分のイビキがうるさく寝られないと思ったのに気付いたら6時だった。
(↑この表現は間違っているけれども元ネタというか相棒の文章に合わせるとこうなってしまう)

自分のイビキは一切うるさく感じないのはなぜだろうと考えたら、イビキをかいているときは自分はよく寝ているからなのだろうと推測できる。
意外にも良く寝たのだろう。

今日は琵琶湖の湖東から淡路島の南端までの長旅になる、まずは朝食の支度から。

相棒のブログをみると朝食のくだりがまったく描写されていない。題名にキャンプとうたっているのに大事なそこが抜けてるじゃないか!今回の旅は宿と観光名所と地方スナックを目的にしてるわけじゃなく屋外でのキャンプがメインだというのにそこがまったく書かれていない!!
たしかにキャンプ地での滞在がここ琵琶湖では短かったけれど少しはそこ楽しんでいかないとただの野宿になってしまう…

朝食はハムエッグ(特製卵二個)と赤ウインナーに厚切りトーストガーリックバター添えにコーヒー。
俺は家では起き抜けに朝食を食べる事なんて滅多にないのだが、なぜか旅に出ると食べたくなってしまう。特にホテルのバイキングや旅館のお膳で出される朝食は最高にうまい。だからキャンプ朝飯も大好きなのだ。

相変わらず相棒は朝食を食べてもなんも感想を述べず食べ終わるとさっさと歯を磨いていた。たしかにオーバーアクションで「やっぱりキャンプで食べるパンは美味しいね~!」とか「夕日を見ながら飲むウイスキーは一味ちがうな~」なんていうのは無くてもいいけど、屋外の食事っていうのを楽しむ気持ちがもう少しあってもいい気がするんだがな…

今日は淡路島の砂浜でゆっくり夕方の時間を過ごしたいので7時に琵琶湖畔を出発し、すぐに高速道路に飛び乗った。ただこの旅はそもそもざっくりしたアウトラインだけで細かい計画なんて一切無い。すぐに予定を変更して高速を降り有馬温泉に立ち寄ることにした。ところが温泉場の細い道に苦戦してなかなか思ったところに辿りつけず、それでもなんとか「かんぽの宿 有馬」に到着、ちょうど佐川急便さんが配達物を降ろしているところだった「そこはゆうパックじゃないんかい!?」と軽くツッコミを入れ入浴料800円を支払い四階の浴場へ 「ふつう一階にあるんじゃないんかい!?」とここでも軽くツッコミを入れてエレベーターに乗った。
脱衣場からパンツを脱ぎながら引き戸越しにお湯を見ると有馬温泉特有の黄土色に濁っている 湯舟におそるおそる足を入れていく、どれくらいの深さなのかまったく見当がつかないからだ。 泉質的には「含鉄ーナトリウムー塩化物強塩高温泉」と書いてあった。ここで一時間弱ゆっくりお湯につかり、かさついたふくらはぎの痒みを取る。思いがけず古湯につかることができたのはよかった。ただお客さんと従業員のおじさんの話を聞いていたら、箱根、別府、富山のかんぽの宿は今後順次閉鎖になるとのことだった。どこも温泉場はさみしいことになっている。キャンプはいかんな、宿に泊まって金を落としていかないと…

あとこれも不思議なところだが相棒のブログには有馬温泉のくだりが一切ない。これは後で訊いてみたほうがいいだろう。

有馬温泉を後にした僕らは再度高速に乗り淡路島を目指した。快調に車を走らせていると突如 本当に突然明石海峡大橋が現れた。
僕は運転手だったので写真は撮れなかったのだが、まっすぐ伸びた橋をかっ飛ばす感覚はすこぶる爽快だった。路肩に止めたくなる気持も分からなくはないが、そんなことしたらえらいこっちゃである。
あっという間に橋を渡り切り、淡路島に上陸した。すぐに淡路ハイウェイオアシスに立ち寄り、今来た明石海峡大橋を眺めた。まあよくもこんなすごい橋を造ったもんだとあらためて感心する。全長3,911mの世界最長の吊橋。日本ってやっぱりすごい。世界に誇れる技術を持った国なんだってもっと胸張っていいんじゃないかな。一部の人は日本はもはや後進国だって言ってるけど、この橋見たことないんじゃないかい?!
AIや量子コンピューターも大事だけど、建造物っていうのも大事なのよ…
橋をバックに写真を撮り、お土産をいくつか買った後お昼も回って少し小腹がすいたので、がっつりは食べずになんかちょっとつまもうってことになり二人で淡路島玉ねぎ入りさつま揚げを食べた。
390円のわりには量も少なく味もたいしたことなかったのだが、それを食べた相棒はなんとこの旅で初めて「うまいね」と宣う
「うまいね」だと?! どこがじゃ!! まあ自分で初めて選択したものだからそう言わざるを得なかったんだろう、まあしかたない… 


その後順調に高速道路を走り、西淡三原インターで降りて玉ねぎ畑やレタス畑を眺めながら下道を走り、目的地の吹上浜キャンプ場に午後1時半頃到着した。猫数匹に出迎えられ受付に行き利用料金を訊く、大人一名1200円に車一台500円。その場で支払いパンフレットをもらう。どうやらNHKの朝ドラ「まんぷく」のロケ地になったところらしい。それも事前情報ゼロでたまたまだった。

早速海岸近くのテントサイトまで車で行ってみた。目の前は砂浜と輝く太陽、そりゃロケハンしてたらここ選ぶわな。
荷物をおろしてどっかり腰を据える用意をし始めた。テントは一人用を二張りもってきたのでそれぞれでテント泊しようと考えていたのだが、相棒はテントで寝るのが嫌だという。オイオイ…   それじゃあキャンプじゃなくて厳密に言ったら車中2泊(外で自炊)の旅になっちゃうじゃないか。ブログの題名は「キャンプ2日目」になってるだろ…  
まあそれもアリかと無理強いせずマイルドキャンプでいこうと俺も切り替えた。現地スーパーへの買い出しは積んできた折り畳み自転車で行こうって考えていたので、降ろして組み立てようとしたら借りてきたほうの自転車がパンクしていた。来るときしっかり空気入れておいたのになぁ~とちょっとガッカリしたが すぐに切り替えて車で買い出しに向かった。
近くの全日食チェーン阿万店では目ぼしい食材が手に入らず、キーコーヒーのレギュラーを一袋購入のみとなる
足を延ばしてイオン南淡路店まで行ってなんとか食材を確保、メインディッシュのオーストラリア産牛肉肩ロースと食後のデザートと地酒の都美人と黄金色の麦焼酎を一瓶
帰って砂浜で夕日を眺めながら軽くチルった後夕食の準備にとりかかった。
メニューはワンプレートで飯ごう炊きライス&牛肉ステーキ玉ねぎドレッシングキャベツ添え  軽井沢産キャベツと群馬富岡産ジャガイモ&玉ねぎのトマトコンソメスープ煮込み吹上浜風。つまみはダメ押しでポークソテーを二枚。デザートは各々が選んだ杏仁豆腐とレアチーズケーキをペーパードリップのキーコーヒーでいただくというもの。玉ねぎは富岡産じゃなくて淡路島産にしとけばよかったかなとあとで後悔
渾身のもてなしをしたつもりが案の定 ディナーに関しての相棒のコメントは一切なかった。どうってことない薩摩揚げ食べてすぐに「うまい!」って言ってたのに…

まあそれも含めて僕にとっては楽しい旅になっている。相変わらず地酒には難癖をつけ、飲んだ後「これだから怖くて地酒はなかなか買えないんだよな」
と言い、加えてコーヒーも不味いって言われたけど、それはキーコーヒーさんに言ってくれ!
ただこういうのすべて彼の持ち味だし面白いところ。なんでもオッケーオッケーっていう人間もアテにならないからこれはこれでいいのだ。


最後はなんのゆかりもない鹿児島の美味い麦焼酎でしっかり酔っ払い、とにかく楽しい二人旅は終盤に向けて盛り上がり 夜の闇とともににチルアウトしていったのであります……

っていうか相棒、美味いはおろか楽しいの一言もなかったな。楽しくなかったんかねやっぱり…











キャンプいきなり車中泊編

2019年12月14日 | Weblog
気持ち悪ぃ~
完全に昨日飲み過ぎた。
俺がこんな状態なら一緒に行く友人もきっとつらいに違いない!!

一切目覚ましのアラームかけずに酔いつぶれて寝たので5時に起きれるはずもない。今日があるから飲む量も控えておこうと最初は思っていたんだけど、いつものように楽しいぞモードに入ってしまい飲み過ぎてしまった。もう50歳だ、こんな飲み方してはいけない…

それでも奇跡的に目が覚め時計を見たら6時半近くになっていた。慌てて相棒に電話「すまん、寝てた・・ごめん」と謝り、20分後迎えに来てくれるようにお願いした。後で聞いたら彼はうちまできて庭で車を止めラインで連絡してくれていたとのこと。これは完全に俺が悪い

とりあえず昨日のうちに荷物は積んでおいたので着替えの入ったリュックだけを持って相棒の車に乗り込んだ。幸先良くないが相方の機嫌はそれほど悪くなかった(ような気がした)
車は一路琵琶湖を目指し、高速道路に乗らず一般道での旅へ…

天気予報ではこれから数日は徐々に温かくなるとのこと、出だしの時間は遅れたが、おてんとうさまは味方してくれそうだ。
和田峠を越え岡谷市へ、その後塩尻から木曽へ抜けるつもりだったんだけど、ちょっと手違いがあって辰野方面から伊那谷を通っていく道に変更した。
辰野でコンビニに寄ったのだが開けようとしたドアの向こうに見たことのある顔、農家仲間で我が消防団第八部団員のK君だった。
「何してるんですか?」そりゃそうだ。
逆にこっちも同じことを訊いてみた。彼はこれから仕事で現場に向かう途中だった。こっちは呑気にキャンプだというのに彼は畑が終わったら副業で朝早くから頑張って働いている。ほんと頭がさがる…

その後阿智村から153号線を下って治部坂高原スキー場を横目に平谷村へ、418号線で県境を越え上矢作町に入ったところで特別天然記念物の二ホンカモシカに遭遇、よく見ると罠にかかって動けなくなっているようだった。二ホンジカは増加傾向にあるけど、ニホンカモシカっていうのはどうなんだろ…よくわからないのでコレについてとやかく言う気は無いんだけど地域の個体群によって多かったり少なかったりの差があるんだろうな
ちなみにニホンカモシカは長野県では県獣、岐阜県では県獣自体がないようである…

っていろいろ考えながら車はずんずん山道を走り抜け恵那市岩村から山岡へ 
そして左手前方に突如巨大な観覧車が現れた

看板には「道の駅 おばあちゃん市 山岡」とある

突如現れた観覧車だと思っていたものをよくよくみると巨大な水車だった。そんなモノがこんな山の中にあるなんてまったく予想だにしなかったので二人ともちょっと意表をつかれて車を降り、写真を撮りながら近づいていった。
後で調べたところ最近埼玉寄居の水車にその大きさを抜かれ日本一の座を明け渡したばかり。それでも直径24mもある立派な杉材でできた水車は水の勢いで元気に回転していた。ただ費用対効果を考えるとこれを見にわざわざこんな山奥(ちょっと失礼な言い方だけど)まで来る人は少ないような気がする。
村おこしはなかなか一筋縄ではいかない…

水車を後に瑞浪のうどん屋「屛風山」さんでうどん定食をいただき、その後は瑞浪~土岐~可児~関~長良川沿い~岐阜市内~大垣を経由し、頭が薄っすら雪で白くなった伊吹山を右手に眺めながら米原の琵琶湖の畔(ほとり)にやっとこさ辿りついた。

総距離350km 時間にして10時間

もう琵琶湖の湖面は夕日で美しい赤のグラデーションに染まっていた。

途中フタバヤ近江店により夕飯の食材を購入、当初予定の神明キャンプ場が冬季閉鎖のため、隣の湖岸緑地田村の駐車場に車を止めカセットコンロで夕食の肉野菜鍋の調理にとりかかった。

相棒は鍋を食べ美味しいとも不味いとも全くコメントせず黙々と食べていた。最後は〆に生ラーメンを入れ少し冷えた体を温めたのだが、相棒はラーメンに対してもコメントなし。ただ「どっか店で食べるよりは安上がりだな」とつまらん感想を述べるにとどまり、こっちで買った地酒の笑四季お手軽純米酒を一口飲んで「こりゃダメだ!」と初めて味の感想を声にした…

まあやることないのでちょっと飲んで早めに車の中で寝ることに。明日も早起きで目的地に余裕を持って到着したい。
相棒は近くを走るバイクの爆音に恐れおののきながらも疲れていたらしく静かに眠りに落ちていった。

俺はCPAPを持ってきていないので相棒の眠りをさまたげるようなひどいイビキをかいている(だろう)実際は張り付けたカイロが熱すぎてたり無呼吸になっていたりして自身もイマイチ寝つきが悪かったが、それでも夜半から朝方までは眠れた…








キャンプ前日編

2019年12月14日 | Weblog
キャンプが流行っているというが正直実感なし。

キャンプ嫌いの友人は「キャンプなんてめんどくせえしヤダよ!」と何度誘っても乗り気になる様子がない。
例えば先日の台風19号の時のように、炊き出しをしたり野外で一部生活をしなければいけない状況だってある。
停電してればそういうのに対処しなければいけないし、避難場所を想定している公民館や学校だって使えなくなる可能性もある。
今回も乗り気になっていない友人をなかば強引に誘って瀬戸内海方面でのツーマンキャンプというザックリした計画を立てた。
俺も素人に毛が生えたようなキャンパーなので、ある程度は準備しておかないと現地で慌てて楽しめないことになったりする
とりあえず友人と二人で地元のスーパーツルヤに食料の買い出しに行くことにした。

今日の夜には「うどんを食べる会」が計画されていて、我々消防団第八部とこれから診療所と
通所介護施設を発地で運営される方々との交流をする予定になっている。
その前に買い出し品をちゃっちゃと選び買い物カゴに入れていった。赤ウインナー、卵、食パン、ハム、インスタントラーメン、初日朝食用パン等々。
あんまり決めすぎると無駄が増えるので想像力を働かせて最低限必要であろう食材を買い込み、家に帰ってクーラーボックスに詰め込んだ。

今回の「うどんを食べる会」はおかずを一品と飲み物をそれぞれが持ち寄ることになっている。俺はかみさんにジャガイモをパン粉で揚げる我が家定番の「イモフライ」を用意してくれとお願いしておいた。夕飯用に多めに作ってもらい、一部を持っていく感じ。飲み物も頂き物のビール6缶を持ってあんまり深く考えず軽い気持ちで参加させていただいた。

今回のうどん会の連絡を一手にしてくれている団員のT君に導かれ会場へ、そこは昔別荘として使われていたであろう一軒家だった
ご挨拶を交わしお招きいただいた事にお礼を述べてから、それぞれが持ち寄った一品をそれぞれバイキング的に取って畳の和室でみんなが輪になって合コン的和やかに「うどん会」はスタートした。

それぞれ自己紹介して最後に自分の好きなコト、興味のあるコトっていうのを話すのだけれど、そうあらたまって聞かれるとなんだろうなって考えてしまう。キャンプ?バイク?飲み会・・・?
とりあえず今一番してみたいことは「庭いじり」かな~なんて思いそう答えました。
(中学校の時本当は興味もないくせに、ちょっと大人ぶってそう答えたことがあるんだよな・・)

なぜうどんを食べる会になったというと参加者で長崎出身の方が三名いらして、それで五島うどんになったということ。
五島うどんっていう名前は聞いたことあったけれど実際食べたことがなかったのですごく興味津々。まずはとんすいに生卵を割り入れて、そこに長崎の「チョーコー醤油」っていうのじゃなかったったかなと思うんだけど、甘めのそれを垂らして、釜揚げのうどんをそのままいただくというなかなかのワイルドスタイル。
僕はすき焼きで卵たっぷりつけて食べるのが好きなのでとても美味しくいただいた。甘めの醤油も割り下の甘さと似ていてちょうどよかった。
量もかなりあって細麺ですぐ茹で上がるので結構いそがしい。
「早くしないと麺が煮え腐るわよ!」とのアドバイスを受ける
「にえくさる・・・?」すごい表現だなぁと思ったのだがどうやら長崎県では茹ですぎてしまうことをそう言うらしいです (^_^;)
カレーも一品であって、最後は当然のごとく五島カレーうどんにして美味しくいただきました。

うどん会を後にし僕等消防団八部面々はその後二次会という名の反省会へ。
明日5時軽井沢出発予定だというのに友人がもっていったクソ不味いワインが効いたらしく酔いつぶれて帰宅となる。
俺は大丈夫なのか?! 

次回「キャンプいきなり車中泊編」へつづく!!









天命なんてコロコロかわるのよ

2019年10月07日 | Weblog
朝夕寒い日が続くようになった。娘達は半ズボンとTシャツでファンヒーターにあたっていて
「おいおいどういうことだ!?」って文句の一つも言いたくなる…
暑い暑いっていう夏もそんなになかったまま九月も終わって早くも十月に突入、今シーズンの野菜生産も先が見えてきた感じだ。
八月のお盆に誕生日を迎えていよいよ五十代に突入、孔子の言葉を借りれば「知命」の年回りで天から与えられた使命を知る年齢になったらしい
天から与えられた使命はこのまま農業に精進してこの道で生計を立っていけってことなんだろうと思うし、それ以外他に特技やキャリアがあるわけでもないのでそれで頑張っていくほかないのだが、今年の野菜生産と同じで先がある程度見えてきて、この後も大なり小なりこんなラインだろうなっていう感じもして少し寂しい
かと言って、次の画期的な展開とか夢があるわけでもなく、気力は農業を始めた25歳の時がピークで、今は正直その七割六割っていったところで、70歳7か月でエベレスト登頂をした三浦雄一郎さんの爪の垢を煎じて飲む以外に気力の驚異的回復は見込めそうもない。
今年度で消防団も退団、農協青年部も退部となり、公的な活動が少なくなっていくのにともなって本業に専念できる時間と余裕もできそうだ。
ただ、時間的に余裕ができるからそれがすべて仕事の時間にあてられるかといったらそうではない。忙しいところをやりくりするから仕事の段取りもしっかり組み立ててたり、本業以外の活動が大変とはいえ、それが息抜きになって本業に打ち込めるってこともある。

ちょっと理屈っぽくなった…

そんなわけもあってちょっと衝動的になった。ドラムセットを買ってしまった。
初心者セットなのでたいしたないんだけど それでも八万円した。高校の時バンドを組んだことがあり、その時ドラムを担当した。たいしてうまくもないし才能もあるとは思えないのだが、興味はすごくあったし、いまでもうまく演奏できたらいいなと思っている。
YouTubeを見ながら何となくたたいて楽しんでいるんだけど、やっぱりちゃんと演奏できるまでには相当量練習しないと駄目な感じだ。わかってはいたのだけれど、たたいて楽しくなるにもある程度技術がないといけない。昔からずっと言ってることだけれど、テクニックは楽しむためのツール。ドラムセットと同様にテクニックというツールも揃えないといけない。
ドラムっていうのは比較的間口は広いような気がするけど奥は果てしなく深い。まあドラムに限らず楽器はみんなそうだし、仕事や学問もすべてそういうことだろう…
どういう風にこの楽器と付き合っていくかはまだ未定だけど、なにがどう繋がるかは予想できない。

最初はあんまり乗り気じゃなかった消防団だったけど、入団して活動していろんなところと繋がった 

面白い半世紀を過ごせて本当によかった…

父親について

2018年12月23日 | Weblog
今年10月11日 父親が他界した。

父は6月の中頃に自宅のリビングでしりもちをつき背骨を圧迫骨折して病院に行った。骨の状態を診るためMRIを撮ったところ肺に異常がみつかる。
担当医は付き添って行ったかみさんと本人に向かって「肺ガンでステージ4だね…」と言ってためらいもなくガンの告知をしたとのこと。
その時の親父の様子はその事実を受け入れたくないのか単に耳が遠かったのか(実際に耳が聞こえづらかったみたいだが)あまり状況を認識していないような様子だったとかみさんが後で話していた。父親は飲酒に問題があってアルコール依存症専門の外来を訪ねた時、医師からアルコール依存症だという告知されても自分は違うと最後まで認めなかった。

肺ガンと聞いても俺はあまり驚かなかったし、落胆もしなかった。それは「人間は皆いつか死ぬ」とかそういう達観した見方ではなく、ある意味日常的なニュースの一つぐらいにしか捉えていなかったからだと思う。それよりも2年前にかみさんが悪性リンパ腫だという事を彼女自身から聞いた時のほうがよっぽど狼狽したし落胆もした。(かみさんは抗がん剤の治療を受け、今は寛解(かんかい)状態です)
けれど目と鼻の先の別棟に住んでいる父は俺と普段会話を交わすこともなかったし、とりたてて共同で何か取り組むべきこともなかった。親父は双子の娘たちには時々アイスやお菓子をあげていたりするぐらいで、娘たちも特に爺さんを慕って親父の家に上がり込んで何かをするっていうこともなかった。かみさんだけは爺さんの面倒を見ていたり何かと用事を頼まれていたようなので多少は関わっているんだろうぐらいに思っていただけで俺はほとんど無関心、ただ隣に住んでいる隣人ぐらいにしか考えていなかったのだ。

11年前母親が亡くなった。自死だった。長年鬱病を患っていて入退院を繰り返していた。
母がいないときは何とか家族全員で家事をして家を回していた。隠していたわけではないけれど知られたくないっていう気持ちもあったので特段周囲の人たちに打ち開けたり相談することはなかった。
両親の間の事は当人同士でしかわからないこともある。長年の共同生活でお互い「認知の歪み」を抱えていて健全な関係じゃなかったかもしれないのだけれど、母の死は父親の責任だと当時の俺は一方的に考えた。もっと学んでもっと深く観察すれば母親の鬱の原因がわかったんだろうけど複雑に絡み合った糸をほどくよりも、父親のアルコール依存症が一番の原因だと考えたほうが楽だったのだ。
それ以来父親に対して嫌悪感が湧くようになり、母が亡くなってから数年間は顔を合わせるたびに喧嘩なり一方的に非難をしていた。
そのうちそのエネルギーも無くなり、また気づいたこともあって父親となるべく関わらないようにようにしていった。関わらなければ気疲れするような感情も起こらない。こちとら子供達3人とかみさんと一緒に前に向かって歩いていかなければいけない。爺さんになんてかまってられないっていうのもあって、まあ程よい距離感だろうと勝手に思って暮らしていた。かみさんはそれでも爺さんを無下にするわけにもいかないので僕の気付かないところでなにかと気遣っていたようだった。かみさんはいつも「やっくんはお父さんに近づかないほうがいいよ…」って言ってて、それは正しいアドバイスだった。

肺ガンを告知されてから精密検査のため即入院になった。ガンとはいえ今の医療技術ならなんとか治るんじゃないかって思っていたので特に見舞いにも行かなかった。とにかく野菜の出荷が最盛期で猫の手も借りたいほどの忙しさ、今年は肥料も潤沢にやったため生育も急ぎ気味で収穫の遅れは避けたい状況だった。親父の事はかみさんにまかせっきりで、医師からの病状の説明もかみさんがすべて受けて対処していた。「今度長男さんに来ていただいていろいろ説明したいこともあるんですが…」って言われてたらしいのだけれどめんどくさくて何度も無視していた。担当医の先生もなんて無責任な長男だと思っていたに違いない…

その後も精密検査をしたり肺のガン細胞の採取を試みたのだけれどガン細胞が見つからない。とりあえず肺ガンに対しての抗ガン剤を投与する治療が始まったのだけど病状の目安になる血液の数値はいくらか正常値へ向かったとのことだった。ただどうも様子がおかしいということでさらに詳しく検査をして経過をみることになったのだが、それから数日後病院から帰ってきたかみさんが「お父さん肺ガンじゃなくて悪性リンパ腫だったって!!」と驚きが混じったような声で俺に告げた。後で聞いたのだけど肺ガンに対しての抗ガン剤も悪性リンパ腫に対しての効果が多少あったのでいくらか血液の数値が改善したらしいようだった。

悪性リンパ腫と診断されてから間もなく病状は急に悪くなっていった。それまではご近所さんがお見舞いに来てくれたときも全然へっちゃらみたいな顔をして会っていたらしいのだが、その後急に呼吸困難になり病院から「お話があるので長男さんが来てください」との呼び出しがあり初めて佐久医療センターに出向いた。実弟と義妹も来てくれて一緒に血液内科と呼吸器内科の医師二人から説明を受け、電子集中治療室(EICU)に入って呼吸器を装着するか否かという意思決定をするように迫られた。「それをしないとどうなりますか?」と訊いたら「最終的には死に至ります」と。
「延命治療ということですか?」と訊くと「今後しっかり生活できるようにするための積極的な治療です」とおっしゃられたので「お願いします」と答えた。この時の医師の言葉には本当に救われたのだが、とにかく呼吸ができなくて苦しむ状態は避けたい。自分自身想像しただけでもしんどいので苦痛はとにかく取り除いてあげてくださいと医師にお願いした。

その後の治療はEICUという病室で続けられた。体中に管や線があり、周囲は最新鋭といった感じの医療機器に囲まれていた。
病状は一進一退といった様子。呼吸器の処置と同時に抗ガン剤の投与もしたのだが、悪性リンパ腫は骨髄まで転移していてなかなか厳しい状況だった。
一番良くないのは腎臓の機能低下でおしっこがほとんど出ない。そのため体中に水が溜まって腕や足がパンパンに腫れあがっていた。
それの治療として人工透析をするかどうかということについても僕らに意思決定が求められ承諾した。(っていうかお願いした)
人工透析の後は血液の状態も良くなった。一か八かの抗ガン剤投与も比較的効果が出ていて悪性リンパ腫による血液の数値もいいとは言わないまでも悪化しない状態が続いていた。俺はこの時透析をするような病院通いでもいいから車いすに乗るなりして生活できるまでになってくれればいいななんてぼんやり考えていた。医師が「積極的治療」って言って頑張って治療してくれてるんだからなんとかいけるのかなと…
親父自身も最初はガンと戦う気持ちだったと思う。それは後で見た親父の日記にもその意思が記されていた。けれどだんだんと病状が悪化していくにしたがって気弱な思いが記されたり空白が多くなっていくのも事実だった。

今までは親父に関して無関心だったし意識的にもそうするようにしていた。けれどここにきて家の隣に住んでるだけだった人から父親っていう存在にもう一度戻っていた。
まあそれでよかったのだ。俺がずっと親父にかかわってきていたらおそらくロクな事になっていない。最後喧嘩した時、親父が「この家はもうおしまいだ!」と言って俺たちが住む家の縁側のガラス戸を端から割っていった。

EICU(電子集中治療室)に入ってからは野菜の収穫の合間を縫って何度も様子を見に行った。俺が来るとほんとは苦しいのにもかかわらず目を開けてちょっとだけへっちゃらだよというようなそぶりをみせる。パンパンになっていた手は透析すると水が抜け逆に弱々しいしわくちゃな手になっていて、やさしく握らないと折れてしまいそうな手になっていた。顔色も最初の頃より黒ずんでいる。呼吸器は喉を切開して装着するようになったため多少前より楽になったかもしれないが、相変わらず声は出せない。そのため見舞いに行った時は白い紙とマジックで筆談をして意思疎通するようになった。

病状が悪化していき、危ない状態になるとその都度病院から連絡があった。そのたびに東京からは実妹や義弟がやってきてくれた。悪性リンパ腫からくる腸のダメージで大量に下血し、危険な状態になった時も仕事を後回しにして駆けつけてくれた。透析のために「ヘパリン」という血液が固まりにくい薬を使っているのでどうしても下血の危険が高まるのだ。

意識が安定し、みんなが集まってベットを取り囲んでいた時、親父は白い紙とマジックを持ってきてくれという手ぶりをした。
右手にマジックを握らせ、仰向けの親父の目の前にかみさんが白い紙を持って差し出す。親父はそこに震えた手で

「 借金 するな 」

と書いた。こんな時にそんな事かよと思ったんだけどまあ長年やってきた職業経験からきたことなんだろうなって思ったし、親父には俺が農家やってることで金の心配をしてたんだろうなって少し申し訳なくも思った。
そのあとも何か書こうとしている…

「酒 飲む な」

俺は一瞬目を疑った。酒飲むなって…あんた死ぬほど飲んでたじゃんか… ここまで自分の事棚に上げて忠告するなんて、なんて人だろう…
ただここ数年はたしかにあんまり飲んでいなかったし、量も減っていた。飲むと調子が悪かったから控えていたんだと思うし 最近の病院の検査では肝臓の数値は全然悪くなかった。これも自分の苦い経験から心底思ったことなのかもしれない。たしかに俺も酒で失敗したことも多かった。そういうのを見ていて自分の事を棚に上げても俺に忠告したかったんだろう…

そして最後に書いた言葉は  

「みんな 仲良く」

だった… 俺と親父は仲悪かったけれど本当は俺も親父も仲良くしたかった。おふくろが死んでから後の親父との時間はほとんど無駄にしてしまった。

もてる力をふり絞って本当に言いたかったことだけを書き終えるとみんなに手を振りサヨナラをするポーズをして眠った。本当にもてる力を全部出し切って訴えてたんだろう、それで安心して疲れて眠ってしまった。
親父としてはそれで本当に眠るように息を引き取りたいと思っていたかもしれない。でも彼は体自体はけっこう丈夫で、今回の病気さえなければ長生きするタイプだったと思う。そのあとも何度かヤマを迎えては乗り越えて頑張って生き抜いていた。
大量に下血した時も輸血して何とか乗り越えたし、腸閉塞も頑張って乗り越えた。実妹は危ないって言われてからずっと親父の病室の隣の付き添い室に泊まって看病してくれていた。大変で悪いなぁって言ったら「いやいや ずっと離れてたし 自分がやりたくてやってることだから」って疲れも見せずに元気に振舞っていた。「ただ東京の家族には私がいない分頑張ってやってもらってて申し訳ないけどね」って言ってたけれど…

その後も担当の医師からの病状の説明を受けた。腸内の壁がもろくなっているため大量下血の恐れがあり、これ以上血液の固まりにくい薬を使って透析をしていくのは難しい事。透析をやめた場合はいずれ腎不全から心不全などの合併症になり死に至るということだった。

僕を含めて兄弟たちは一貫して本人の苦痛が大きい状態で延命することだけはしないでくださいと担当医にお願いしていた。当初は「積極的治療」を推し進めてきたのだけれど、事ここにきてこれ以上の治療は親父にとってもしんどい延命治療になる状況になっていた。実際筆談でも「静かに死にたい」と書いていたし、俺たちがベットの脇に行くと手で首元を切るような仕草を何度もしていた。
僕ら兄弟を中心に医師と話し合いをして、透析は止めるけれどもそれによって呼吸や体全体が苦しくないようにして最後を迎えさせてあげてほしいとお願いをした。

その後窓のないEICUから外の景色が見える一般病棟に移った。投薬していた点滴も減らされ管も少なくなり、親父も少し穏やかな環境になってリラックスしている様子だった。
今まで喉が渇いたと言っても飲ませてあげられなかった水、担当看護師さんの計らいで小さな氷の塊を親父の口の中に入れてもらい、すこしづつ溶けた水を自分自身で喉に流し入れたときは、本当に美味しかったみたいですごくうれしそうだった。俺はそれを見てなぜか涙が流れた。喉に呼吸器をつけていたので肉声が聞けなかったのだけれど、親父の声を聴きたいなとちょっと思った…

外の見える病室はEICUと違って穏やかな雰囲気の部屋だった。圧迫感のある最新医療機器の代わりに小さめのテレビがあって、テレビ好きの親父はそれをなんとはなしに眺めていたって病室の中にあるソファーベットで一晩泊まって看病していた妹が話してくれた。(通算十泊目だけど)
肺に水が溜まっていて呼吸もかなり浅くなっていたため、苦痛を緩和する薬も大分増やされていた。親父の様子をみながら「親父は強いよ…」って思わず声が出た。弱い人間だったから酒飲んで紛らわしてたっていう思いはその時これっぽっちもなくなっていた。苦痛のないようにして体の機能を低下させていっても親父の体は頑張って生きようとしている。意思とか根性とか関係なく生命はその灯を最後まで燃やそうとするのだ。
「親父は本当は強いんだ…」俺は親父の事を誤解していたみたいだったな…

容態が安定していたので義妹とかみさんと妹に看病をお願いして一旦家に帰った。家に帰って車中泊の用意をしてもう一度病院へ戻ってこようと思っていた。しかし夜中の11時少し前、容態が急変したからすぐに来るようにってかみさんから俺の携帯に一回目の電話があった。そのあとすぐ二回目の電話、車に乗って病院へ向かう途中で息を引き取ったっていう知らせを聞いた…

危ない時に呼び出され、駆けつけると頑張って乗り切っては安心するっていうことが何度もあったのに最後は看取ってあげられなかった。

でももう俺のなかでは別れの覚悟はできていたし、お互いの心は少しだけは通じた。ここ数年間の親父との距離もこれぐらいでよかったんだと思うし、今は心の整理もついて穏やかな状態でスムーズに日常に戻って生活できている。

「人間は皆いつか死ぬ」  そんな風に達観もしていないし、できてもいない。


  ただその事実を目の当たりにしたことを今ここに記しておく…









遥かなる雲南の旅 最終幕(帰国編)

2018年06月07日 | Weblog
中国滞在最後の朝、昆明の街はまだ暗く静まっていた。寝坊できないプレッシャーは多少あったものの快適なベッドのおかげでゆっくり休めた。毎回一緒に夜を共にするS氏に自分のいびきがうるさいことを申し訳なく思ってるってことあるごとに言っていたのだが、彼は一向に気にしていない様子で「全然大丈夫だよ、まったく気にならない」って言ってくれてた。本当にたいしていびきをかいていないのか、お互い疲れすぎていて眠りが深くなりいびきが聞こえないのか、もしかするとそういうことで旅が気まずくなるのを避けてS氏が遠慮して我慢してくれていたのか…
まあ今回の旅ではS氏の懐の深い対応に終始助けられた。
俺は洗面所で一通り身支度し、ミネラルウォーターを一口飲んでから最終的で究極的で強固な荷造りにとりかかった。結局俺の手荷物は合計3つ、一つは持ってきたリュックでもう一つはS氏に借りた大き目の黒のボストンバッグ、そして竹の背負いカゴとなった。俺のプランでは竹の背負いカゴに買い込んだお土産品などを詰め込み上の口の部分を強固に覆ってひとまとめにし2つに収めようとしたのだがS氏がそれに苦言を呈した。「空港でチェックしたり、荷物がばらけたりしてトラブルが起こると、乗り遅れたりする原因になるからやめたほうがいい」と言うのだ。俺は結構自信があったのだがここは旅慣れている彼に従ったほうが無難だろうとS氏の言うとおりにした。そのS氏はコーヒーを飲んでから髭を剃りゆっくり出発の準備をしている。七時半発の飛行機なので六時までには昆明国際空港に着いていたい。万全な帰り支度でなければならないが少しスピード感も必要、ただ二人のタイミングは比較的息が合っていて、どちらかが「おいはやくしろよ!」といったような気分になることはほとんどこの旅ではなかった。ただこれもS氏の計らいがあったのかもしれないのだが…
ホテルを後にし空港に向かうためタクシーを探す。朝早いので少し手こずるかとも思ったが比較的すんなりタクシーは捕まえられた。上海の時もそうだったが、最終日の空港行きの交通手段はタクシーと決まっている。中国旅行ではこれが飛行機に乗り遅れないための最適な手段といっていい。順調にタクシーは空港に到着、停車場には同じようなタクシーであふれかえっていた。
空港に入ってからチェックインを済ませ黒のお土産バッグだけを預けた。その後手荷物検査を受けなんのトラブルも無く出発ロビーへ、順調にゲートに向かい時間も十分余裕をもって出発を待っていた。土産店で最後のお土産チェックをしながら、この調子だと楽勝で帰国だなとS氏と高を括っていた。
北京行のエアチャイナの搭乗時刻になり我々はゲートに向かったのだが、入口でチケットを見せると女性グランドスタッフが「北京行はあっちです!」と左手奥のゲートを指さした。同じ出発時刻だったので俺もS氏もちょっと勘違いしていたようだったので「了解了解!」みたいになって北京行のゲートに小走りで向かった。ところがそっちはバスに乗って飛行機まで行くゲートだったようで乗客はもうすでにバスに乗り込んでいるらしくゲートにはもう誰もいなかった。俺たちはちょっと出遅れた感じになっていたので少し慌てて男性グランドスタッフにチケットを渡すとちょっと待ってと何事かS氏と話していた。出遅れて焦ってパニくっていたこともありどうも話がうまく通じない。僕らが乗るのがこの飛行機じゃないのかとも思ったがそういうことでもないらしい。どうやらチェックインカウンターにS氏がプリントアウトした予約表を忘れてきてしまっているらしく、カウンターの女性から男性スタッフの電話に連絡があったらしかった。再度こちらから連絡しなおしその予約表はいらないから大丈夫ですという返事をして、僕らはゲートを抜けバスに乗り込んだ。どうやらスタッフがS氏に予約表を返し忘れたのが事の発端で、S氏ももう要らない予約表っていう頭があったので、貰い忘れてしまったらしい。出発直前のトラブルだっただけにかなり焦ってしまった。どこに落とし穴があるかわからない、最後まで気の抜けない旅だとここで気を引き締める。
バスは五分ほど走りエアバスの近くで僕らを降ろした。タラップは大混雑で強めの朝の風が乗客に吹き付けていて、太陽はまさに地平線から顔を出しはじめていた。こういう乗り込み方は気分がいい、まさに旅立ちっていう感じでワクワク感が半端ない。
北京行のエアチャイナはすこぶる順調、乗ってすぐに朝ごはんが出てきた。銀のホイルをめくると温かい朝粥、黍(きび)が少し入っていてすごく美味しい。そういえばミーセンばっかの朝メシがようやくここで終わる、だんだん現実に近づいていくのが感じられた。三時間ほどで翼の下には北京の街が現れる、天気は上々、降り立った北京の空港も暑くもなく寒くもないちょうどいい気候、この旅で服の選択が一度も間違ったことが無かったというのは画期的だったかもしれない。もっていった服が全く過不足なく活躍し、パンツも今はいているのが最後の一枚となっている。
それはどうでもいい
今回ここ北京での乗り換え時間はわずか一時間半、ここでミスするとえらいことになるので、とりあえずサクサクと行動することに徹した。預けた荷物を素早くピックアップし素早くチェックインカウンターをみつけ素早くバッゲージドロップ、出国審査も手慣れた様子で受け、もう女性入国審査官の過剰なボディタッチにも動揺しなくなっていた。羽田行のエアチャイナもエアバス、同じようにバスで移動しタラップでの搭乗になった。ここではじめて日本人ビジネスマンに会い、完全に少数民族が周囲にいなくなってしまった。

今回の旅の本当の目的とは何だったのか?途中から何となくうすうす感じてはいたものを俺はあえてそれを最後まで口にすることはなかった。
かみさんは帰ってから「中国に一週間も行っててなにしてたの」と問いかけるも俺は明確にそれに答えることができなかったし、実際どういう旅だったのか総括することがいまだにできていない。
ただこの旅行が俺の中で中国の旅の総仕上げだったってことは何となく感じているのだ。

出会ったことのない少数民族に出会うことはリアルポケモンゴーのような感覚が少なからずある。もっとすごい服を見たいだとか、もっと珍しい暮らしぶりを見たいみたいなことにはまっていくのはちょっと違うんじゃないかって旅の途中から疑問に感じてしまっていたのだ。
ありのままを見てありのままに受け入れる。そこにこうなってたらもっといいとか、このままでいてほしいとか、対象物に過度に感情移入するのはよくないってことがこの旅で何となくわかった気がした。
レアな暮らしぶりやレアな風景、レアな少数民族を探し求めて奥地へ奥地へと行くのはレアなポケモンを探しに立ち入り禁止場所に入って行ってしまうのに似ている。

帰ってきてからS氏から一度だけ連絡があった。「今度また雲南の行ってないところに行く予定になったよ」と言っていた。俺は「そうか、気を付けてな」とだけ言って、その後借りていたバックを奥さんに返しに行っただけで連絡していない。竹の背負いカゴは羽田行の飛行機の中でかなり邪魔者扱いされ、頭上のバッゲージスペースには収まらず、CAさん用のスペースに何とか入れてもらい羽田に無事到着した。

   かへりなんいざ 田園 まさに蕪(あ)れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる ……

畑を放り出して一週間がたった。軽井沢が恋しくなっていた。ただその前に東京の素晴らしくシステマティックな京成電車に感動していた。
やはり日本は素晴らしい国だ。外国人が褒めてくれるのもうなずける。ただ座っている乗客はどことなく疲れている気がする。みんなが目いっぱい働いてるから日本というこんなにも立派な国になっているのだろう。

   かえりなんいざ…

その前にお刺身が食べたくなった。来るときに泊めさせてもらった妹夫婦のマンションに行く途中で海鮮丼を食べた。この海鮮丼を食べ終わった瞬間に俺の中国旅行は終わったっていう気がした。っていうかそれを食べて日本を確認したのだ。とても美味しかった…



    終幕






  



遥かなる雲南の旅 十六幕(怒涛の帰路 勐拉~昆明9時間編)

2018年06月06日 | Weblog
勐拉の朝は気持ちのいい朝だった。こっちに来てからなぜか朝は腹が減って飯が美味い。起きてすぐ支度をし食堂に向かった。
S氏にはもう目星がついていて店先で薪を焚いて大釜でミーセンを茹でている食堂を目指した。行く道すがらでは早くも野菜を売り始めているおばちゃん達がいて一日がゆっくりスタートしていた。店に入りまだ寝ぼけ眼でミーセンを注文する。鉄腕に入れられたミーセンは薄味だったものの牛肉もしっかり入っていて活力の出そうなボリュームだったがなんせ食べやすいのでペロッと平らげてしまった。
本日の予定は朝一で金平に移動、そこから長距離バスに乗って昆明まで戻り一泊するという、来た道を戻るという帰り支度の移動日になっている。同じ風景をもう一度味わう旅なのだがそれはそれでまた新しい発見もあるだろうし、思わぬ面白いハプニングもあるかもしれない。(あったら日本に帰れなくなるのでそれはそれで避けたいが…)
ホテルに戻り荷物をまとめてクレーム女将に別れを告げ勐拉賓館を後にした。S氏は旅の間吊るしていたバケツを宿にわざと置き忘れ、荷を軽くし早くも帰国体制に入っている。俺の荷造りには一抹の不安要素が残るものの、とりあえず自分の右脳をフルに働かせてパッケージングをしてみた。後は運しだいといっていいだろう。
宿を出てすぐに、こっちでいつもお世話になってるツートンカラー性病タクシー乗り場に行き、金平行きのに乗り込んだ。すぐに満員になりタクシーは出発、バナナ畑を両脇に眺めながらグイグイと緩やかな上り坂を登って行った。また標高2000m近くまで上がっていく旅、途中たいして見るものもなかったが、広場で大鍋を焚いてイベントをやっている場所があったのはちょっと降りてみてみたい気がした。八時頃出発した性病タクシーは順調に走り、一時間程で金平の町に到着した。もう今となっては見慣れた街並み、馴染みの町に戻ってきた感じだ。タクシーを降りバスターミナルまでは少し歩いた。昆明行きのバスはすでに出発に向けスタンバっていて、乗客も来るときと違いほとんど満席に近かった。10時ちょうどにバスは昆明に向け出発、来るときにもあった検問所でのパスポートコントロールを受け国境の大砦、金平を後にした。来るときと同じ道を帰るだけなのでほとんど見た風景、途中昼食をとるために立ち寄ったサービスエリアも行きと全く同じ造りとメニューだった。ただ違ったのはバスのシートカバーの広告が性病科から金平のマンション分譲の広告に変わっていたことだけだった。10時に金平を出発したバスは夕方の4時半には昆明のバスターミナルに到着、初日に宿泊したホテルに今回も泊まろうということになり地下鉄で移動し宿に無事たどり着いた。まだ明るかったので、初日は真っ暗だった昆明の街を少しだけ散策することにした。昆明の駅に向かって歩いていったのだが、この町は思った以上に発展を遂げていてややもすれば日本となんら変わらない大都会の雰囲気だ。ただ露天商がちらほらあるのは中国らしくて面白い。店を覗いて商品を見ていたりすると購買意欲をそそられるのだが、ここにきて多めに両替していた中国元がお寒い状況になってきている。S氏にお願いしてクレジットカードでキャッシングしてもらうことにしたのだが、彼はこういうことも想定して事前にキャッシングの方法を下調べしていた。さすが中国旅行の達人だ。銀行に行きATMを下調べメモをみながら操作し何とか中国元を引き出した。S氏のカードを使ったので引き出した分をS氏に日本円で返す。手数料がどれくらい取られているのかは日本に帰って来てからのお楽しみ、まだ彼から請求がないのだけれどどうなっているかは定かでない…
キャッシングを終え時刻は7時、日本で7時というと暗いはずなのだが、中国は北京が標準時刻、経度にして14度東にある昆明は実質1時間ほど日の入りが遅いのでまだまだ明るかった。とはいえいい時間なので夕飯を食べようということになりサクッと食堂に入った。店名は日本にもありそうなベタな名前の「四川飯店」店内には先客グループがいて、豪華な料理を美味しそうにわしわしと食べていた。
野菜のカシューナッツ炒め、茄子と肉の炒め物。茹でソラマメにトマト卵スープ。四川にしては全く辛くなくて、どうやら名前だけの四川飯店のようでちょっと期待外れだった。ビールも軽くいただきほろ酔いになった後、昆明の涼しい夜の空気にさらされながら宿に戻る。残りの旅を乗り切れるだけ行った先々の宿で洗濯をしまくってきたのでパンツもシャツも洗わずシャワーを浴びた後すぐにベットに寝転んだ。テレビではなぜか倉田保昭と小出恵介が映っていて倭寇の映画をやっていた。こっちに来て反日の映画を見ることが結構多かったのだが、この映画は日本がヒールにもかかわらずそこにもリスペクトが多少なりともあってなかなか見ごたえがある映画だった。「蕩寇風雲」という題名だったのだが、日本では公開されてないんじゃないかな? まあ娯楽として観ればすごく面白いし、小出恵介を懐かしむ人にはおススメ映画になってます。
就寝前S氏と最終日の予定について打ち合わせをしたのだが、帰りのフライトスケジュールはかなりタイト、サクサクやらないと北京での乗り換えで乗り遅れる可能性があるという状況だった。とにかく明日は間違いなく帰れるように全力を出し切りノーミスで切り抜けなければならない。
僕ら二人は映画を見終わったと同時に12時前にはさっさと眠りについた。

いよいよ次回は最終回 お見逃しなく! っていうかそんな盛り上がらない感じですけどね…