上発地村から

標高934mぐらい日記

父親について

2018年12月23日 | Weblog
今年10月11日 父親が他界した。

父は6月の中頃に自宅のリビングでしりもちをつき背骨を圧迫骨折して病院に行った。骨の状態を診るためMRIを撮ったところ肺に異常がみつかる。
担当医は付き添って行ったかみさんと本人に向かって「肺ガンでステージ4だね…」と言ってためらいもなくガンの告知をしたとのこと。
その時の親父の様子はその事実を受け入れたくないのか単に耳が遠かったのか(実際に耳が聞こえづらかったみたいだが)あまり状況を認識していないような様子だったとかみさんが後で話していた。父親は飲酒に問題があってアルコール依存症専門の外来を訪ねた時、医師からアルコール依存症だという告知されても自分は違うと最後まで認めなかった。

肺ガンと聞いても俺はあまり驚かなかったし、落胆もしなかった。それは「人間は皆いつか死ぬ」とかそういう達観した見方ではなく、ある意味日常的なニュースの一つぐらいにしか捉えていなかったからだと思う。それよりも2年前にかみさんが悪性リンパ腫だという事を彼女自身から聞いた時のほうがよっぽど狼狽したし落胆もした。(かみさんは抗がん剤の治療を受け、今は寛解(かんかい)状態です)
けれど目と鼻の先の別棟に住んでいる父は俺と普段会話を交わすこともなかったし、とりたてて共同で何か取り組むべきこともなかった。親父は双子の娘たちには時々アイスやお菓子をあげていたりするぐらいで、娘たちも特に爺さんを慕って親父の家に上がり込んで何かをするっていうこともなかった。かみさんだけは爺さんの面倒を見ていたり何かと用事を頼まれていたようなので多少は関わっているんだろうぐらいに思っていただけで俺はほとんど無関心、ただ隣に住んでいる隣人ぐらいにしか考えていなかったのだ。

11年前母親が亡くなった。自死だった。長年鬱病を患っていて入退院を繰り返していた。
母がいないときは何とか家族全員で家事をして家を回していた。隠していたわけではないけれど知られたくないっていう気持ちもあったので特段周囲の人たちに打ち開けたり相談することはなかった。
両親の間の事は当人同士でしかわからないこともある。長年の共同生活でお互い「認知の歪み」を抱えていて健全な関係じゃなかったかもしれないのだけれど、母の死は父親の責任だと当時の俺は一方的に考えた。もっと学んでもっと深く観察すれば母親の鬱の原因がわかったんだろうけど複雑に絡み合った糸をほどくよりも、父親のアルコール依存症が一番の原因だと考えたほうが楽だったのだ。
それ以来父親に対して嫌悪感が湧くようになり、母が亡くなってから数年間は顔を合わせるたびに喧嘩なり一方的に非難をしていた。
そのうちそのエネルギーも無くなり、また気づいたこともあって父親となるべく関わらないようにようにしていった。関わらなければ気疲れするような感情も起こらない。こちとら子供達3人とかみさんと一緒に前に向かって歩いていかなければいけない。爺さんになんてかまってられないっていうのもあって、まあ程よい距離感だろうと勝手に思って暮らしていた。かみさんはそれでも爺さんを無下にするわけにもいかないので僕の気付かないところでなにかと気遣っていたようだった。かみさんはいつも「やっくんはお父さんに近づかないほうがいいよ…」って言ってて、それは正しいアドバイスだった。

肺ガンを告知されてから精密検査のため即入院になった。ガンとはいえ今の医療技術ならなんとか治るんじゃないかって思っていたので特に見舞いにも行かなかった。とにかく野菜の出荷が最盛期で猫の手も借りたいほどの忙しさ、今年は肥料も潤沢にやったため生育も急ぎ気味で収穫の遅れは避けたい状況だった。親父の事はかみさんにまかせっきりで、医師からの病状の説明もかみさんがすべて受けて対処していた。「今度長男さんに来ていただいていろいろ説明したいこともあるんですが…」って言われてたらしいのだけれどめんどくさくて何度も無視していた。担当医の先生もなんて無責任な長男だと思っていたに違いない…

その後も精密検査をしたり肺のガン細胞の採取を試みたのだけれどガン細胞が見つからない。とりあえず肺ガンに対しての抗ガン剤を投与する治療が始まったのだけど病状の目安になる血液の数値はいくらか正常値へ向かったとのことだった。ただどうも様子がおかしいということでさらに詳しく検査をして経過をみることになったのだが、それから数日後病院から帰ってきたかみさんが「お父さん肺ガンじゃなくて悪性リンパ腫だったって!!」と驚きが混じったような声で俺に告げた。後で聞いたのだけど肺ガンに対しての抗ガン剤も悪性リンパ腫に対しての効果が多少あったのでいくらか血液の数値が改善したらしいようだった。

悪性リンパ腫と診断されてから間もなく病状は急に悪くなっていった。それまではご近所さんがお見舞いに来てくれたときも全然へっちゃらみたいな顔をして会っていたらしいのだが、その後急に呼吸困難になり病院から「お話があるので長男さんが来てください」との呼び出しがあり初めて佐久医療センターに出向いた。実弟と義妹も来てくれて一緒に血液内科と呼吸器内科の医師二人から説明を受け、電子集中治療室(EICU)に入って呼吸器を装着するか否かという意思決定をするように迫られた。「それをしないとどうなりますか?」と訊いたら「最終的には死に至ります」と。
「延命治療ということですか?」と訊くと「今後しっかり生活できるようにするための積極的な治療です」とおっしゃられたので「お願いします」と答えた。この時の医師の言葉には本当に救われたのだが、とにかく呼吸ができなくて苦しむ状態は避けたい。自分自身想像しただけでもしんどいので苦痛はとにかく取り除いてあげてくださいと医師にお願いした。

その後の治療はEICUという病室で続けられた。体中に管や線があり、周囲は最新鋭といった感じの医療機器に囲まれていた。
病状は一進一退といった様子。呼吸器の処置と同時に抗ガン剤の投与もしたのだが、悪性リンパ腫は骨髄まで転移していてなかなか厳しい状況だった。
一番良くないのは腎臓の機能低下でおしっこがほとんど出ない。そのため体中に水が溜まって腕や足がパンパンに腫れあがっていた。
それの治療として人工透析をするかどうかということについても僕らに意思決定が求められ承諾した。(っていうかお願いした)
人工透析の後は血液の状態も良くなった。一か八かの抗ガン剤投与も比較的効果が出ていて悪性リンパ腫による血液の数値もいいとは言わないまでも悪化しない状態が続いていた。俺はこの時透析をするような病院通いでもいいから車いすに乗るなりして生活できるまでになってくれればいいななんてぼんやり考えていた。医師が「積極的治療」って言って頑張って治療してくれてるんだからなんとかいけるのかなと…
親父自身も最初はガンと戦う気持ちだったと思う。それは後で見た親父の日記にもその意思が記されていた。けれどだんだんと病状が悪化していくにしたがって気弱な思いが記されたり空白が多くなっていくのも事実だった。

今までは親父に関して無関心だったし意識的にもそうするようにしていた。けれどここにきて家の隣に住んでるだけだった人から父親っていう存在にもう一度戻っていた。
まあそれでよかったのだ。俺がずっと親父にかかわってきていたらおそらくロクな事になっていない。最後喧嘩した時、親父が「この家はもうおしまいだ!」と言って俺たちが住む家の縁側のガラス戸を端から割っていった。

EICU(電子集中治療室)に入ってからは野菜の収穫の合間を縫って何度も様子を見に行った。俺が来るとほんとは苦しいのにもかかわらず目を開けてちょっとだけへっちゃらだよというようなそぶりをみせる。パンパンになっていた手は透析すると水が抜け逆に弱々しいしわくちゃな手になっていて、やさしく握らないと折れてしまいそうな手になっていた。顔色も最初の頃より黒ずんでいる。呼吸器は喉を切開して装着するようになったため多少前より楽になったかもしれないが、相変わらず声は出せない。そのため見舞いに行った時は白い紙とマジックで筆談をして意思疎通するようになった。

病状が悪化していき、危ない状態になるとその都度病院から連絡があった。そのたびに東京からは実妹や義弟がやってきてくれた。悪性リンパ腫からくる腸のダメージで大量に下血し、危険な状態になった時も仕事を後回しにして駆けつけてくれた。透析のために「ヘパリン」という血液が固まりにくい薬を使っているのでどうしても下血の危険が高まるのだ。

意識が安定し、みんなが集まってベットを取り囲んでいた時、親父は白い紙とマジックを持ってきてくれという手ぶりをした。
右手にマジックを握らせ、仰向けの親父の目の前にかみさんが白い紙を持って差し出す。親父はそこに震えた手で

「 借金 するな 」

と書いた。こんな時にそんな事かよと思ったんだけどまあ長年やってきた職業経験からきたことなんだろうなって思ったし、親父には俺が農家やってることで金の心配をしてたんだろうなって少し申し訳なくも思った。
そのあとも何か書こうとしている…

「酒 飲む な」

俺は一瞬目を疑った。酒飲むなって…あんた死ぬほど飲んでたじゃんか… ここまで自分の事棚に上げて忠告するなんて、なんて人だろう…
ただここ数年はたしかにあんまり飲んでいなかったし、量も減っていた。飲むと調子が悪かったから控えていたんだと思うし 最近の病院の検査では肝臓の数値は全然悪くなかった。これも自分の苦い経験から心底思ったことなのかもしれない。たしかに俺も酒で失敗したことも多かった。そういうのを見ていて自分の事を棚に上げても俺に忠告したかったんだろう…

そして最後に書いた言葉は  

「みんな 仲良く」

だった… 俺と親父は仲悪かったけれど本当は俺も親父も仲良くしたかった。おふくろが死んでから後の親父との時間はほとんど無駄にしてしまった。

もてる力をふり絞って本当に言いたかったことだけを書き終えるとみんなに手を振りサヨナラをするポーズをして眠った。本当にもてる力を全部出し切って訴えてたんだろう、それで安心して疲れて眠ってしまった。
親父としてはそれで本当に眠るように息を引き取りたいと思っていたかもしれない。でも彼は体自体はけっこう丈夫で、今回の病気さえなければ長生きするタイプだったと思う。そのあとも何度かヤマを迎えては乗り越えて頑張って生き抜いていた。
大量に下血した時も輸血して何とか乗り越えたし、腸閉塞も頑張って乗り越えた。実妹は危ないって言われてからずっと親父の病室の隣の付き添い室に泊まって看病してくれていた。大変で悪いなぁって言ったら「いやいや ずっと離れてたし 自分がやりたくてやってることだから」って疲れも見せずに元気に振舞っていた。「ただ東京の家族には私がいない分頑張ってやってもらってて申し訳ないけどね」って言ってたけれど…

その後も担当の医師からの病状の説明を受けた。腸内の壁がもろくなっているため大量下血の恐れがあり、これ以上血液の固まりにくい薬を使って透析をしていくのは難しい事。透析をやめた場合はいずれ腎不全から心不全などの合併症になり死に至るということだった。

僕を含めて兄弟たちは一貫して本人の苦痛が大きい状態で延命することだけはしないでくださいと担当医にお願いしていた。当初は「積極的治療」を推し進めてきたのだけれど、事ここにきてこれ以上の治療は親父にとってもしんどい延命治療になる状況になっていた。実際筆談でも「静かに死にたい」と書いていたし、俺たちがベットの脇に行くと手で首元を切るような仕草を何度もしていた。
僕ら兄弟を中心に医師と話し合いをして、透析は止めるけれどもそれによって呼吸や体全体が苦しくないようにして最後を迎えさせてあげてほしいとお願いをした。

その後窓のないEICUから外の景色が見える一般病棟に移った。投薬していた点滴も減らされ管も少なくなり、親父も少し穏やかな環境になってリラックスしている様子だった。
今まで喉が渇いたと言っても飲ませてあげられなかった水、担当看護師さんの計らいで小さな氷の塊を親父の口の中に入れてもらい、すこしづつ溶けた水を自分自身で喉に流し入れたときは、本当に美味しかったみたいですごくうれしそうだった。俺はそれを見てなぜか涙が流れた。喉に呼吸器をつけていたので肉声が聞けなかったのだけれど、親父の声を聴きたいなとちょっと思った…

外の見える病室はEICUと違って穏やかな雰囲気の部屋だった。圧迫感のある最新医療機器の代わりに小さめのテレビがあって、テレビ好きの親父はそれをなんとはなしに眺めていたって病室の中にあるソファーベットで一晩泊まって看病していた妹が話してくれた。(通算十泊目だけど)
肺に水が溜まっていて呼吸もかなり浅くなっていたため、苦痛を緩和する薬も大分増やされていた。親父の様子をみながら「親父は強いよ…」って思わず声が出た。弱い人間だったから酒飲んで紛らわしてたっていう思いはその時これっぽっちもなくなっていた。苦痛のないようにして体の機能を低下させていっても親父の体は頑張って生きようとしている。意思とか根性とか関係なく生命はその灯を最後まで燃やそうとするのだ。
「親父は本当は強いんだ…」俺は親父の事を誤解していたみたいだったな…

容態が安定していたので義妹とかみさんと妹に看病をお願いして一旦家に帰った。家に帰って車中泊の用意をしてもう一度病院へ戻ってこようと思っていた。しかし夜中の11時少し前、容態が急変したからすぐに来るようにってかみさんから俺の携帯に一回目の電話があった。そのあとすぐ二回目の電話、車に乗って病院へ向かう途中で息を引き取ったっていう知らせを聞いた…

危ない時に呼び出され、駆けつけると頑張って乗り切っては安心するっていうことが何度もあったのに最後は看取ってあげられなかった。

でももう俺のなかでは別れの覚悟はできていたし、お互いの心は少しだけは通じた。ここ数年間の親父との距離もこれぐらいでよかったんだと思うし、今は心の整理もついて穏やかな状態でスムーズに日常に戻って生活できている。

「人間は皆いつか死ぬ」  そんな風に達観もしていないし、できてもいない。


  ただその事実を目の当たりにしたことを今ここに記しておく…