上発地村から

標高934mぐらい日記

働く女子高生

2012年04月27日 | Weblog
昨日は霧の中でゴルフだった。
すぐ近所に三井の森ゴルフ場がある。畑のすぐ裏手は別世界のリゾート空間になっている。

消防団の仲間達とのゴルフだったが久々だったのでスコアはひどいものだった。
前日は代行、早朝にポンプ奏法の練習で2時間の睡眠でのゴルフは土台無理な話。
それにもかかわらず、打ち上げで熱燗をグイグイいってしまったので今朝は
さすがに起きれなかった

今日も天気はイマイチで、昨日の雨で畑には入ることができなかった。

仕事は比較的順調に進んでいるのだが、なにか物足りなさを感じる。
何なのかはわからないがいわゆるぼんやりとした不安みたいなものが心にひっかかっている。

5月病? まさか新入社員でもあるまいし・・・とりあえずやり過ごしてみるか。

軽井沢はにぎやかになってきた。別荘に住まう人達がゴールデンウィークをこっちで
過ごす準備に入っている。
桜もまだ咲いていない寒さだが、そんなことは関係ないスケジュールで日本の
黄金週間は決まっているらしい
いつもそうだが 農家は天気次第なので 世間の休みとは無縁、GWも働いている。
ただ子供達が休みになるため完全に無視できないのが悩みの種だ、どっか連れていかないと
おとうさんの役割がはたせない。

同じ年の友人の女性は隣町の農家の娘で、子供の頃、家は農作業で忙しく
夏に海水浴に連れていってもらえなかったと話す。
学校の友達に海に行ってきたと思われたいがため、水着で畑仕事の手伝いをしたと言っていた

   お手伝い、ちょっとカッコいいなって思いました…

   今日の一曲 Yes - Rhythm Of Love
 http://www.youtube.com/watch?v=XXEynWOmNvw&feature=fvwrel






春遠からじ?

2012年04月14日 | Weblog
アホ旅行記なんぞを書いている間に、卒業式、卒園式、入学式(2回)が終わった。
寒い春のまんまだが子供達は元気に学校に通い始めている。

息子は小学校では特別支援学級にいたため、比較的というか大々的にノンビリしていた。
中学に入学し引き続き支援学級にはいるのか否か決めかねている状況なのだが
本人は今のクラスでみんなと一緒に学校生活を送りたいと希望しているらしい。
ところが小学校の算数はほとんど身についていない・・今頃になって急におかしな
エンジンがかかりだし、机に向かって宿題をやっている姿に少々驚いたのだが
わからないところだらけらしく、夕飯支度そっちのけで母親が付き添って教えるはめになっている
俺が教えようとすると断固拒否するのだが、なんでだ?
これでも農家始めた頃にアルバイトで家庭教師やってたんだぞ、オイ!!

畑のほうは順調に作付が進んでいる。
キャベツの他にレタスも復活してやることになり少々不安な事もあるけど、とりあえず
GFも二年目のスタートを切った。周囲の目は去年よりも厳しくなるのは当然だが
まあやるべきことをやっていれば結果は後からついてくるということだ。
ただ今年は冷夏なんじゃないかという不安が今のところあるのだが、それだけはどうしようもない
ラジオでは太陽活動がうんちゃらかんちゃらと話していたのだが・・・

裏山の水仙も咲き出し、それでも春が少しずつやってきた感じだ。

息子や娘達よりも、俺がしっかりダッシュしていかなければ。

  寒い春もあって、気分的にはどうやら出遅れている・・・



    今日の一曲 The Beatles   Dont Let Me Down
    http://www.youtube.com/watch?v=qR-SlkUgCRg&feature=related






驚異的回復後赤色靴下的上海旅行記 最終回

2012年04月08日 | Weblog
午後からずっとホテルのベットでひたすら寝ていた。

夕方ごろには寒気と頭痛も無くなり、かなり回復。残ったバナナとミネラルウォーター(農夫山泉)
を更に補給、南京路に行くというS氏にお土産やらを買ってきてと頼み再度布団に包まった
南京路は上海のメイン繁華街、華やかな夜の町並みを見たかったのだが、そこは我慢した。

ほとんど諦めていたのだが、どうやら中国製の風邪薬がかなり効いたみたいで、その後驚異的に回復
やはり大陸の病は大陸の薬でなければ対抗できないらしい・・・

なんとか起き上がり、帰ってきたS氏と最後の上海の夜の街に出かけることにした。
胃に負担がかかっていたのが良くなかったかもしれないのに、セリと牛肉の炒め物とビールで〆る。
店のおばちゃんは初日と同じく料理を出し終えると隣の席で毛糸の靴下を編んでいた。
なんてヴィヴィッドな赤色だろう・・・

五日目の朝は早かった。薄靄がかった太陽を見ながら浦東国際空港に向かう、タクシーは
ジグザグに前の車を追い越していく、こういうのは嫌いではない。
最後まで中国を堪能した。S氏は明日から現実が待ってると少々元気がない。
この辺の感覚が俺とは全然違う。俺はこれから帰る日本が楽しみだった。
また逆カルチャーショックを味わえるじゃないか・・・

今回はS氏に感謝している。彼がいなければディープな上海を知ることができなかったし
もしかしたら風邪をこじらせて大陸でくたばっていたかもしれない。


       日本に帰ってきたら天気がよかった。
  
   また柔らかいトイレットペーパーでケツを拭く日々がはじまる・・・・





風邪頭痛的上海旅行記 四日目 

2012年04月05日 | Weblog
鎮江で四日目の朝を迎えた。

まずは朝市に向かい、街の一日のスタートを見学する。途中小学生達に沢山出くわした。
おかーちゃんやおじーちゃんがバイクや自転車の後ろに子供を乗せて登校してきている。
子供達はどこ行っても元気だ。

朝市は前日S氏が予想していた道路で開かれていた。中国の朝のは朝市から始まる。
売っている物は地元野菜や肉、魚といった食料品が主で、あとは食器などの日用雑貨品。
トラック山積みの生姜やトラック山積みの長芋なんかもありなかなか豪快なのだが
ニワトリやアヒルが生きたまま売られているのはさすがにワイルドだなと・・・・
S氏は真っ赤に完熟した美味そうないちごを購入、いちご農家の兄ちゃんと
フレンドリーに会話していた。

朝市を堪能後、オートリキシャ(ハードトップ仕様)をつかまえ、鎮江の新幹線火車站に向かう
中国語で汽車は自動車、火車は列車をさす。站は駅というような意味だ。

鎮江駅に到着するなり大笑い・・・営業すんなと注意されていたワンタンおばさんが
性懲りもなく駅前で屋台を開いていたのだ。相変わらず箸はダラッと濡れているが
おばさんからは「冗談じゃないわよ、こっちは生活かかってんだから、公安なんて怖くないわ!」
的なオーラが出まくっていた。たくましいもんだ。

帰りの新幹線は長野新幹線「あさま」に似ていてなかなかカッコよかった。
隣の席では赤ちゃん連れの夫婦が大きな荷物を抱えて並んで座っている。この急ごしらえ的な
中国新幹線で上海に出稼ぎに行くのであろうという姿はとても印象的だった。
父親の顔と手は黒く、目はキラッと輝いている。彼と家族には大きな荷物の他に大きな希望があるのだ
田舎暮らしとかスローライフなんて価値観は彼らには無い。上と前を向いて進んでいるだけ。
パワーがある奴は外に向かって放出すればいい、ない奴はある奴からおすそわけしてもらえ

帰りの「あさま」似は虹橋でなく上海駅に到着。その後宿近くの宝山路で地下鉄を降りた。
上海は大陸的な晴天、またもやちょっと埃っぽい。
買付の残りを済ませた後、外灘(ワイタン)にあるS氏お気に入りのブロードウェイマンションや
浦江飯店(プージャンハンテン)を見てまわった。

このあたりから体調が悪くなってきたのだ。
黄浦江のほとり歩きながら、上海タワーをバックに写真を取っている時まではよかったのだが
対岸の浦東に向かうフェリーの船上で、ひどい頭痛と吐き気に見舞われた。
具合に悪さに耐えかねて、急遽S氏に頼んでホテルに帰ることに、ここへきてまさかのダウン・・

最初は昨日の白酒が良くなかったのかとも思ったのだが、寒気もあったので風邪と判断
S氏に薬局で風邪薬と頭痛薬、八百屋でバナナ、お菓子屋でなんとかタルトを買ってきてもらい
一緒くたんに流し込んだ。後はありったけの服を着て布団にくるまって寝るのみだ。
何としても明日は朝早く日本に向けて出発せねばならない・・

初日に泊まった安ホテルだったが、S氏のおかげで係の人に言って毛布を追加してもらった。
部屋が変わったのでテレビも壊れていない。 なぜか山田優と藤井リナが映っていた。

    
       そんなことはどうでもいい 風邪を治すのだ・・・・


                                       つづく





文明人的上海旅行記 三日目(鎮江編) その2

2012年04月04日 | Weblog
長江を後にし、白タクをつかまえて鎮江の街へ戻った。

まずは泊まる宿の確保から。中国人が宿泊できる旅社という施設は外国人が泊まることができない.
最初に泊まろうとした宿はあえなく断られ、二軒目の錦江之星飯店でOKが出た。
S氏によると結構有名なチェーンホテルらしいが、フロントの受付小姐は愛想が全く無い
共産主義イデオロギーの名残だろうか?

荷物を置き、鎮江の古い路地裏散策に向かった。大通りから一歩奥に入るとそこはもう迷路
鎮江の人々の生活が狭い路地に充満していた。
ゴムの伸びたパンツとヨレヨレのブラジャー 洗濯物が軒先にガッツリぶら下がっている。
住居は古く、訪れる観光客の為にあるのだろうか、清代とか中華民国代とかいう説明のプレートが
建物に貼り付けられていた。

集落単位が「巷」というふうになっているらしいのだが、文化大革命の名残のだろうと思われる
「文明巷」の入口看板がS氏にのツボにハマってしまったようで、その後一人大笑いしていた
俺にはイマイチ理解できない・・・ 

路地の商店で歯磨き粉とタバコを購入したS氏の百元札を受け取った主人は、何度も太陽に透かして
偽札かどうかチェックしていた。S氏の風貌は、俺が言うのもなんだが確かに怪しい。

その後骨董屋の軒先で麻雀してる人達や、玄関先で宿題してる小学生、井戸水汲んでるおじさんや、タバコを楽しんでるおばあちゃんなどに出会ったり・・・
葬式にも出くわしたのだが、花輪は日本と違って赤や黄色の明るい色使いだった。死生観の違いだな・・

その後名残惜しかったが大通りへと抜けだした。
いくら見てても飽きないのだが、だんだん暗くなって鎮江の人達も夕飯時、邪魔してはいけない

一旦宿に帰り、体制を立て直し夜の街に繰り出すことにした。とはいうもののキャバクラやスナックは無い。
とにかく美味い物を食べようと、はやってそうな地元食堂に入ってみた。
まずは定番の雪花ビールとピータン豆腐、地元野菜の炒め物と揚州炒飯を注文。
上海にもあったが、揚州炒飯は有名で日本のチャーハンの原型、安くてなかなかよろしい
ちょっと高かったが38元(400円程)の草魚の酸辣湯(サンラータン)を追加で注文した。
店のおススメとあってなかなか美味しい。辛くなく鎮江の黒酢が程良く効いている。
またもや調子に乗り、コーリャンが原料の白酒(パイチュウ)を蛇足注文。これが後になって
尾を引くことになるのだが・・・
旅先では何事も自重しなければいけないのだが、日本にいても中国にいても人間のアホは治らない。

その後足裏マッサージをしてもらい、歩き疲れた足はすっかり元通り、いやそれ以上に調子良くなった
ホテルに戻ったがくつろぐ間もなく早々にイビキをかいて就寝。明日もまた沢山歩かねばいけない

いつでもどこでもあっという間に寝れる俺達には、真新しい清潔なシーツも、ちょうどいい湯加減の
シャワーも、頑丈な歯ブラシといい香りの石鹸もすべてもったいなかったな・・・


    
         晩安 明天見! (おやすみなさい また明日!)




文明人的上海旅行記 三日目(鎮江編) その1

2012年04月01日 | Weblog

上海は天気予報どうりの雨が降っていた。

埃っぽかったのでちょっと落ち着いていいのだが、今日は鎮江に行くことにしている。
傘もささずに濡れながら上海虹橋駅を目指し地下鉄に向かった。
地下鉄では五体投地して物乞いしているおばさんがいて非常にショッキングだったが
出口付近にいたおじさんはもっとすごかった。コスプレじゃねえのかというようなツギハギの服
を着て、これまた五体投地して物乞いしているのだ。
そのへんに落っこちている服のがよっぽどいい。あれはどう考えたって大道芸だろう・・・

虹橋は上海郊外に作られた新しい駅だ。地下鉄駅から新幹線の切符売り場まではなかなか距離がある。
鎮江行きのニ等切符は千円程、購入後待合コンコースに向かったのだが、切符には23番ホーム
と書かれてあった。マジかよ、全部新幹線のホームだ・・・なんてバカでかい待合コンコースだろうか。
S氏はここを現代の兵馬俑(へいばよう)と形容していた。秦の始皇帝の陵墓の風景だ。
土地が豊富にあると自然とこういう作りになるんだろうな・・・

乗り込んだ新幹線「和諧号」はまさしく新幹線だった。大陸には300キロぐらいでる高速鉄道じゃないと
移動はきびしい。日本よりもこっちにあったほうが実用的じゃないかという気もする。

車窓の景色、最初は興味深く見ていたが、そのうち飽きてきた。どこまで行っても山もなければ
谷も無い。平坦な大陸がだらだらと広がっているだけだ。
蘇州、無錫、常州をすぎて鎮江にお昼頃に到着した。鎮江は朝とは打って変わっていい天気
街はのどかだった。
駅前で腹ごしらえをすることにし屋台でワンタンとゆで卵をおばちゃんに注文する。箸は桶の中で適当に
洗ったものらしく濡れていたのだが、そんなことは中国に来たらいちいち気にしてられない。
食べ始めて間もなく、お役人さん(警察ではなかった)がやってきて「ここで営業したらいかんぞ!」
みたいなことを言われ、おばちゃんは苦笑いしながらそそくさと店をたたみはじめた。
俺達も追われるように食べて店を後にする・・・

S氏の予定はまず長江(揚子江)に行き船で河を渡ろうというもの。渡し場行きのおんぼろバスに乗る
おばちゃんが運転してたのだが、やたら小気味よくクラクションを鳴らすのと、赤信号で止まる時に
必ず手前でエンジンを切って惰性で交差点まで行く小技を使っていた「ECO」っていうより「KECHI」

途中車内は乗車客で混み合ってきた。おじいさんが俺の席の隣にきたので何となく席を譲ったのだが
立って席の上を見たら「愛心专座」と表示されている。どうやら優先席だったようだ。

その後タクシーに乗り換えて長江の渡し場までやってきた。
目の前は全長6300kmもある世界で三番目に長い河、まずはそのデカさに圧倒された。
渡し船は頻繁に出航していて、車やトラック、自転車も簡単に乗船して対岸の揚州へ
行けるようになっている、地元密着生活路線だ。
 
俺達は展望デッキに乗り込み長江の風に吹かれながら揚州へ、海原へ出航するような雰囲気だ・・
船は貨物船をよけながらうまいこと対岸に到着、揚州で一泊するのか鎮江に戻るのか協議の結果
鎮江に戻ることで一致、来る時バスの車窓越しに見た古い街並みを散策することにした。

来る前はあっちこっちに黒酢の甕(カメ)が置いてあって、酸っぱい臭いがするんじゃないかと
勝手にイメージしていたのだが、鎮江の街は実際は全然違った。
鹿児島の街中に芋焼酎の甕があるわけじゃない・・・中国3千年のイメージを
ふくらまし過ぎると、怪しい増毛剤や健康食品なんかに手を出して失敗する。
のちにS氏は帰国してから上野で鎮江の黒酢を購入してお土産にしていた。正しい選択だろう。
 
 長くなってしまったので 鎮江旅行記はその2に続く・・・