上発地村から

標高934mぐらい日記

戯言

2021年01月12日 | Weblog
十日間の四国トラックキャンプ旅行を終え帰ってきてすぐに農協の会議があり、その後家の掃除やら溜まっていた書類の整理やら雑用をこなし新年を迎えた。年末からちょっとは働かないと社会に申し訳が立たないと思いスキー場でお世話になっている。
今の職場はスキー場のゲレンデ管理、パトロール業務をしているのだが、今年は現場の人員が比較的充実していて、医療現場のようにひっ迫している状況ではないし加えて緊急事態宣言なども発令されて全体的にみても人出は例年並みというふうにはなっていない、どこも一緒だろう。
医療現場がひっ迫してるっていうのは僕らがマスコミからしか情報を得ていないのでそうなんだろうと想像するしかないのだが、医療機関で仕事をしている姪っ子の話などを聞くと、医療現場ってひとくくりにして論じることもできないなと思う。

今年の我が家の野菜生産は惨憺たるものだった。ここで反省文を書いてもしょうがないので割愛するが、天候不順や労働力不足等の条件の悪いなかでも
しっかりいい野菜を生産していい経営をしている農家もたくさんあった。「今年は野菜が高くて儲かったでしょ?」って言ってくる人もいたりするんだけど
そういう時は「ほかの家はよかったけどうちはダメでしたぁ(笑)」みたいな感じで受け答えしている。実際そうだったのだし……
農家ってひとくくりにできないし、医療現場ってひとくくりにできないし、サービス業ってひとくくりにして論じるとおかしなことになる。
家族(主にかみさんと息子)では今回のコロナの件で大きく意見が食い違った。遺伝子の近い人間どうしの考え方は似ているようで、俺と娘たちはコロナに関しては考え方が似てるというか、無頓着な感じで毎日を過ごしている。
身近な人と接すると、普段の起こっている出来事に対してまあそれぞれ考え方は様々なんだろうなって思いながら暮らしてはいるのだけれど、今回の件でそれがより顕著になって、もうあきらめかけたりもする。常々自分はこうだって思っていてもそこを押さえて自分を変えていったほうが楽だし生きやすいぞって半ば納得していたんだけど、ことここにきてそれだけでもダメなんだろうと・・
結論からいうと「マスクはパンツ」っていうことと「PPKで死ぬってことはコロナで亡くなるってこと」というようなことだ。
コロナは致死率100%じゃない。100%だったら誰もかかりたくないし、ロックダウンしてくれって言いたくなるのもわかる。ただ中には「これが運命だな」って思い覚悟する人間だっているだろう。今回は治ってる人間もいる(あのメタボリックのトランプでさえ)のだからつまりそういう感染症レベルなのだ。
予防はするが、それ以上に過敏になる必要はない。そりゃ人によってはサイトカインストームを起こして死んでしまう人もいるだろう。ただそういう人はもともと健康体ではなく(俺だ)表面にあらわれない疾患(あっという間に壊れる体)を患っていたということだ。
そういう弱者(老人であれ健康体でない人)を見捨てる社会であれなどと言っているわけではなく、ウイルスや病気っていうものはそういうものだからしかたないだろってことなのだ。それを公衆衛生学やテクノロジーやマスクや自粛で完璧に抑えようっていうのも無理あるだろうって…
予防対策自体をどうこういうつもりはないけど(ほんとはあるけど)社会の風潮や人々が一つの方向に流れていく様に不安や驚きを感じるし、実は冷静に受け止めている人たちもいてとりあえずマスクして自粛したようにみせているみたいな混在した世界になってるっていうのには安心させられる部分もある。
そういうふうに受け止め方も右から左まで様々、俺は俺でまあ人前に出るときはパンツをはくように、口元をあらわにすると不快に思う人が多数の世の中になればマスクもまあしとくかということになり、さらに裸族の時代は今後相当な温暖化にならないとこないだろうと落胆しているのだ。
あっちに行きたいのに社会がそれを許さないように流れていたら窮屈を感じてこんな国出てってやると思うだろうが、日本は相当なポンコツの体でも生き永らえさせてもらえる一流の医療体制が整っている。多少窮屈であろうが有り難く黙って住んどけって言われそうだが、一体いくつまで生きてどんな死に方したら気が済むんだろうか。うちの母親のように60歳で自死したら不幸なのか!? うちの父親のようにPPK(ぴんぴんコロリ)で死んだら幸せなのか?!
死をあまりにもいつも遠ざけておきすぎると今回のように慌てて焦る。コロナで死ぬのはPPK 普段死ぬならPPKがいいって言っておきながら、突然コロナ死ぬのは不条理で嫌だ思うのは覚悟も無く毎日ダラダラ生きているからなのかもしれない。

覚悟も無く毎日ダラダラ生きている人間のたわごとでした…・