中居城は、常陸大掾氏の庶流、鹿島三郎政幹の第三子、四郎時幹がこの地に分封されて、中居氏を称し、当初は、白鳥城を築いて居城しましたが、勢力の拡大に伴って手狭となり、新たにこの要害の地に中居城を築いたと伝わります。その後、中居氏歴代の居城となり、東方に西山館、南方に新館を置いて備えを固めていきました。
比高20mほどの台地の先端部を利用した東西約150m、南北約600mもある広大な山城でしたが、東側は土砂採取により消滅、しかし西北側などに巨大な遺構が竹藪の中にしっかりと残っています。
民家の脇に小さな案内板がありそこを入ったところが大手道といわれています。
正面には急な切岸が立ちふさがり、敷くように落ちていた藪椿の花が迎えてくれます。
大手道から入ると標高38.1mの一番高い一画がⅠ郭で、周りには2mくらいの土塁が取り囲んでいます。
北西側の端には一段と高い櫓跡らしき遺構がありその、下には深い急峻な堀が巡らしてあります。
Ⅰ郭とⅡ郭の間には土塁に挟まれて、小さな社が建っています。
Ⅰ郭の西側にあるⅡ郭は3mほど低くなっており、ここも周囲には土塁が巡らしてあります。
このⅠ、Ⅱ郭群を取り囲むように巨大な横堀が巡らしてあり、深さ7m、幅20mほどはあるその規模に驚かされます。
この大規模な防御は城の守りばかりでなく、周辺を取り巻く土塁や堀が11本も配置されている図が「茨城の城郭(茨城城郭研究会)」に載っています。遠いものは本城より1.6Kmも先にあり、遺構の総延長は3.5Km、その概略の位置をgoogle map に落とし込んでみました。
その一つ、長大な土塁が畑の真ん中に残っています。
しかし、こんな幾重もの守りを固めた中居氏でしたが、天正19年(1591)、当主中居秀幹は佐竹義宣に、南郡三十三館と呼ばれる鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の領主16名と共に、梅見の宴として招かれた常陸太田城で誘殺されてしまいました。
一説では、中居秀幹は事前に察知して逃れ、中居城に向かうところを捕らえられ殺害されたとも伝わります。敵に備えて堀の掘削作業をしていた領民達は、城主の死を聞くと念仏を唱えて亡き領主を弔ったことから、その完成しなかった巨大な堀は念仏堀と名付けられ、北側に残っています。
結局、この堅固な守りを使うことなく滅びてしまった中居城、城跡にタチツボスミレ(立坪菫)が咲いていました。
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