顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

弘道館などが日本遺産に認定

2015年05月04日 | 水戸の観光



藩校としての旧弘道館と偕楽園、大日本史編纂の彰考館跡、加倉井砂山の日新塾跡をまとめた水戸市の遺産群が、栃木県足利市の足利学校、岡山県備前市の閑谷学校、大分県日田市の咸宜園とともに日本遺産「近世日本の教育遺産群」―学ぶ心・礼節の本源―に選ばれました。

日本遺産は全国各地の文化財や遺跡、伝統芸能などをまとめ、それを通して日本の魅力を伝えるいわゆるストーリーを認定する、今年から始まった文化庁の事業で、今回は83件の申請があり、18件が認定されました。水戸を含めた近世の教育遺産群グループは、世界遺産を目指していますが、第一ステップとしての日本遺産申請でした。

認定のニュースの翌日4月25日、たまたま弘道館の案内活動日でしたが、思ったほどの来館者はありませんでした。しかし半数くらいの方がニュースで知って出掛けてきたという、知識のある方ばかり、普段は静かな歴史地区ですが、ちょうど統一地方選の最終日、選挙カーの賑やかさだけがひとしおでした。

いま水戸城周辺の景観の整備が行われており、三の丸にある弘道館から大手橋を渡り、二の丸の学校群の通りの塀が白壁に変わりつつあり、さらにその先、本丸手前に杉山門、柵町坂下門が立てられ、城跡の風情がさらに強くなりました。
水戸城はもともと土塁の城で、天守閣もなく、城めぐりの観光客にはやや期待外れの声が聞こえる一方、この方が味があるという通の方もおられます。そういう意味でむやみに建築物を再建しない方がいいという意見もありますが、今後の世代の方の興味を惹く一助になれば、ある程度の視覚的な魅力も必要と思います。数年後には、水戸駅方面から見えるところに隅櫓、大手橋に大手門が再建されることが決まっているので、さらに観光客誘致に役立つことでしょう。



写真は白壁の続く二の丸から本城橋方向を撮りました。大きなシイの木、見晴台入口、新しく建てられた杉山門が見えます。この大シイは樹齢400年、水戸藩の創設以来の歴史を眺めてきたものです。お城といっても佐竹氏の統治以後、攻防戦があったわけではなく、明治元年(1868年)戊辰戦争最終章、藩内抗争による弘道館戦争が最初にして最後の戦いでした。この時に藩校弘道館の武館、文館などを焼失し、また明治5年の不審火による本丸の炎上、そして昭和20年の空襲による三階櫓などの焼失と続き、弘道館の正門、正庁、至善堂を除いた建造物をすべて失いました。



大シイは、弘道館内の対試場を見下ろす三の丸小学校の敷地内(元の弘道館武館跡)にもあり、北辰一刀流や神道無念流の試合を眺めてきた老木ですが、樹齢は同じくらいでしょうか、昭和20年8月2日、終戦直前の水戸大空襲によって市街地の7,8割は消滅しましたが、生き残りました。大きな洞が口をあけて何か言いたげな様子に見えたので、写真に収めてみました。

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