顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

鯉渕城址と中崎家住宅

2022年04月18日 | 歴史散歩
農地や宅地化が進み遺構はほとんど残っていませんが、水戸市の南西部にある中世の城址です。
南北朝時代の末期、嘉慶元年(1387) 小田城主孝朝の子、五郎藤綱が小山若犬丸に加担して挙兵した乱で、江戸通高は鎌倉公方に従って難台山城で討ち死にします。将軍足利義満はその功により通高の子通景に河和田、鯉淵、赤尾関の地を与え、通高の二男通重が鯉淵城を築き、鯉淵氏を称して江戸氏の南西の守りを固めたのが始めとされます。

天正18年(1590)、城主通賢の時に、江戸氏が本拠とした水戸城が佐竹氏の攻撃で落城し、翌日には河和田城、鯉渕城をはじめ周辺の支城はことごとく攻め滅ぼされました。
城は全体的に比高3~4mほどの低い台地上に展開された平城のため、水戸市の郊外として開発が進み、残っている遺構は上記Google mapのA,B,Cの3か所だけでした。

Aの遺構は、後述する中崎住宅の北西部に隣接する堀と土塁の跡です。この一帯には堀の内という地名が残っており、堀の深さ約3m、幅約5mで守られた居館の跡とされています。


Bの遺構は、古谷川の西の台地上にありますが、竹林とすごい藪の中で約1.5mの土塁、深さ約3m、幅8mほどの堀がなんとか確認できました。


Cの遺構は、Bの南側に高さ約2mの土塁の一部が残っているだけでした。ホトケノザなど春の野草に囲まれていますが430年前の歴史を語ってはくれません。


この一角にある中崎家住宅は、元禄元年(1688)に建てられたという桁行14.81m、梁間8.2m、平面積124.8㎡、屋根面積245㎡の茅葺の古民家です。

現在は直家ですが、調査により別棟造であったことが明らかとなりました。この形式は居室部分である主屋と、土間部分の2つの建物が接して建てられ、平面上は曲屋と似た間取りとなります。当時の形式を保持している元禄時代の建造物として国の重要文化財に指定されています。


家伝によれば元禄元(1688)年の建立で、初代は藤原左京といい、天文5年(1536)に生まれ、84歳で亡くなっており、その位牌が当家に保存されており現在の当主は18代目になるそうです。


中崎家は、中世以来この付近に住んだ地侍の後裔と伝えられており、桃山時代頃の兵農分離によって農家として土着し代々庄屋を務めてきたと案内板にあるので、落城した天正18年(1590)に帰農したと思われます。


なお城域の南東の一画に十一面観音堂があります。

江戸時代中期の作といわれる漆塗の一間厨子の中に安置されている十一面観音は、「けが観音」と呼ばれる伝説があり、古くから多くの人々の信仰を集めていたそうです。



ここに正法山持福院という寺があり、幕末の水戸藩内の元治甲子の乱では、天狗党の中でも過激な田中愿蔵隊の略奪放火に対抗するためにできた農民組織「鯉渕勢」の決起の舞台になりました。やがて45ヶ村3000人余の規模になった勢力は、諸生派に利用されて天狗党との最前線にも駆り出されていくのでした。


城址内にある邨社鹿島神社です。東北、関東地方を中心に全国に600社以上あるという鹿島神社は茨城県鹿嶋市の鹿島神宮が総本社のため、県内各地には鹿島神社が特に多く見かけられます。

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