顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

那珂西城趾と宝憧院   (城里町)

2017年11月04日 | 歴史散歩
那珂川と、合流する藤井川の支流、西田川の浸食によってできた舌状台地の端に位置する那珂西城は、広さ約4ヘクタールにも及ぶ規模をもつ南北朝時代の平山城跡です。

城主については、秀郷流藤原系の那珂氏の本拠とされていましたが、大中臣系の那珂氏が鎌倉時代に築城した説が有力になっています。しかし確証を得ず諸説の残る一族の城址です。
2郭から(D)見た本郭は大木に覆われた土塁に囲まれています。このように土塁が巨大で直線的なのが戦国以前の館の姿だそうです。

貞治4年(1365)那珂宗泰の代に足利尊氏に従って丹波に移り、当地に残った一族は佐竹氏の勢力下に入ったといわれています。那珂氏時代は本郭のみだったのを、佐竹氏支配になると、2郭、3郭を整備しこの地方支配の拠点にしたようですが、佐竹氏の秋田移封によって廃城になりました。2郭の西南、国道沿いには高さ4mくらいの土塁の一部(A)が残っています。

本郭には真言宗豊山派の泉山法厳寺宝憧院があります。応安2年(1369)上宥上人が上那珂西の地に開創し当地方一の真言道場となり、徳川光圀が当院で元服したとも伝えられています。元禄3年(1693)光圀は那珂西城跡に移転させ朱印300石を下附し、真言宗の観学所として70人もの学僧が常住する伽藍となりました。

本郭の土塁を切って宝憧院の山門(B)が建っています。山門と本堂の屋根には徳川家の三つ葉葵が付いています。

本郭の土塁は約3~4mで遺構はよく残っています。南東の角(C)にある那珂西城の看板と石碑には秋とはいえ強烈な日差しが照り付けていました。

1郭の西南にある大手口は、そこだけ土塁が切られているのが見えます。

本郭東端にある歴代住職の墓地(E)は、土塁にかこまれてひっそりと歴史を語っているようです。

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