顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

偕楽園内の石碑

2018年03月21日 | 水戸の観光
2月17日からの水戸の梅まつりも終盤です。異常な寒さの2月には、開花が10日くらい遅れていましたが、3月に入っての気温上昇で一気に追いつきました。
表門前の十月桜は、10月から咲き始め、真冬にはさすがに花が小さくなりましたが、ここへきて最後の元気を振り絞って春を告げています。

右側に大輪の白梅「滄溟の月」が満開、その下に常磐公園の石柱が建っています。大正11年(1922)、常磐公園の名前で史跡及名勝として指定されました。

偕楽園記碑
天保13年(1842)、前年に開設された藩校弘道館と一対をなす偕楽園創設の由来が、篆書体で記されています。徳川斉昭公の起草、揮毫で、周囲に描かれている梅は藩の絵師、萩谷遷喬の作です。
この中の「一張一弛、一馳一息」は孔子の言葉で、厳しいだけでなく時には弛めて楽しむことも大切であると、文武修行の弘道館に対し心身を休める偕楽園の役目を述べています。

茨城百景碑
昭和25年(1950)に選定され、当時の知事、友末洋治の書です。後ろに南崖の洞窟が見えます。徳川光圀公の笠原水道の岩樋や吐玉泉の集水暗渠に使用した神崎石(凝灰質堆積岩)を切り出した跡といわれています。

観梅碑
梅の季節の偕楽園を詠んだ長坂周(1845-1924)の漢詩で大正4年(1915)に建てられました。名古屋出身、東京で医院を開き、詩や書を能くしました。

正岡子規句碑
「崖急に梅ことごとく斜なり」の句は、子規が明治22年(1889)同窓の菊池謙二郎を水戸に訪ねた時のもの。昭和28年(1953)東湖神社裏に水戸の俳人たちが建てたものを、後にここへ移転しました。

大日本史完成の地
2代藩主徳川光圀公が明暦3年(1657)から編纂した大日本史は、明治維新後、編纂局の「彰考館」が水戸城内から移転し、明治39年(1906)に250年を経て、この場所で完結しました。

二名匠碑
水戸彫と言われた彫金の二名匠、萩谷勝平と初代海野美盛の顕彰碑です。菊池謙二郎の撰文、書は北條時雨によるもので明治43年(1910)建立、海野勝珉の描く龍獅子が浮き彫り(彫刻:飛田雲玉)になっています。

菁莪遺徳碑
十五代将軍徳川慶喜公の側近、原市之進の顕彰碑で、篆額は水戸第11代藩主徳川昭武公で碑文は昌平黌の岡千仭、書は吉田晩稼で、明治30年(1897)の建碑です。市之進は水戸藩士、後に一橋家の用人となり慶喜公に仕えましたが、慶応3年(1867)幕臣により暗殺されました。

遺徳碑
茨城県第6代県令、関新平の遺徳を偲び明治30年(1897)に建てられました。篆額は徳川昭武公、撰文は手塚陽軒、書は北条時雨です。旧佐賀藩士で、2年8か月の在任中、旧水戸藩士の救済などに尽力しました。

水戸八景碑
偕楽園で一番古い石碑で、斉昭公が瀟湘八景、近江八景に倣って藩内でも八景を選び、天保5年(1834)ここに「僊湖暮雪」の碑を建てました。自然石を選び、あたかも地中から出ているように台座が見えないのが特徴ですが、他所の八景碑はその後の改修で台座に載せられているものもあります。

和実梅の碑
好文亭奥御殿の清の間東側にあるこの碑は、柳川枝垂付近の竹垣の外から見えます。戦災で焼け落ちた奥御殿跡から発見され、樹が枯れたので碑を床下に置いたものと考えられます。
斉昭公が植物係の長尾左太夫に宛てた書状では、駿府から取り寄せた珍しい梅であったことがわかりますが、国内で現在見つかってはいません。白色遅咲き、実の核は極めて脆弱にして容易に噛み砕き易しという記録が残っているそうです。

園内の遅咲き梅の代表、「江南所無」が満開です。眼下に千波湖が見えます。平均水深が、約1.0m程度であるため、分類上は沼になりますが、昔から「千波湖」と呼ばれており、さらに法律上は、河川(桜川の一部)に位置づけられているそうです。

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