昨日の記事で、インターネットによる電子投票がノルウェーで試験的に行われたことを説明したが、あの記事を書いたときの私の関心は、安全性や匿名性・秘密性などを技術的にどうやって保証するのか、というものだった。
しかし、あの後にふと考えた疑問は「インターネットによる電子投票なんて、本当に必要なのだろうか? それに、社会にとって望ましいことなのだろうか?」ということだ。
確かに、投票所に足を運ぶのが面倒だと思う人もいる。雨が降れば、投票率がガクッと落ちることは日本ではよく知られている。だから、投票率を高くするためには、通常の期日前投票の利便性を高めるだけでなく、インターネットでも「気軽に」投票できるようになるのが望ましいかもしれない。
一方で、このまさに「気軽さ」が本当に良いことなのかが疑問だ。言ってみれば、インターネットで簡単に本を注文したり、フェイスブックで「いいね!」ボタンを押したり、いろんなサイトで見かける「世論調査もどきのアンケート」で選択肢を選んだりするのと同じ感覚で、国政や地方政治の行方を決めてしまっても良いのか?ということだ。
見方によっては、選挙をある種の儀式、もしくは「ハレの日」と捉えることもできる。投票所に足を運んで、投票のための手続きをし、封筒など必要なものを担当者から受け取り、ついたての向こうで記入し、封をして、投票箱に入れる。そこは緊張感の漂う公の場であり、生半可な軽い気持ちで票を投じるのは少し気が引ける。例えば、スウェーデンの選挙を考えてみれば、毎年のように何らかの選挙がある日本とは違って、スウェーデンでは国政・地方ともに4年ごとにしか選挙がないから、それまでの4年間を振り返り、これから始まる4年間をどの党に任せるのかを意思表示する節目の時であるわけだ。
私の友人、レーナ・リンダルさんは、スウェーデンの選挙を説明するために日本語で書いたある記事の中で、スウェーデンの投票日のことを「民主主義の祭典」の日だと呼んでいたが、私もその見方に賛成だ。スウェーデン人の別の知り合いも、一昔前は厳粛なお祭りという意味合いがもっと強くて、投票所には少し着飾って行くくらいの心構えで足を運んだ、などと語ってくれたことがある。また、その人だけでなく、もっと若い友人の中にも、いくら期日前投票が便利になったからとはいえ、せっかく投票日が設定されているのだから、その日に、あらかじめ決められた投票所で投票したい、という人も少なからずいる。
それに比べ、自宅のパソコンの前というのは、まさにプライベートな空間だ。それに、インターネットの世界は匿名であるため、何でも思いついたことを書けるし、時には極端な意見を述べたり、自分の名前を出しながらは絶対にできないような発言もできてしまう。インターネット上で極端な意見が多いのはよく知られたことだが、皆がそうではないにしろ、プライベートな空間の延長のまま、公の場というフィルターを通すことなく「気軽に」投票ができるのも問題ではないかと思う。何が違うかというと、自分の投票権に対して感じる責任の重さではないだろうか。
だから、昨日あれだけノルウェーの電子投票制度について興味津々に説明したが、やはり昔ながらの「投票所」と「紙」と「ついたて」と「封筒」による投票が今後もずっと続いてほしいと思う。
しかし、あの後にふと考えた疑問は「インターネットによる電子投票なんて、本当に必要なのだろうか? それに、社会にとって望ましいことなのだろうか?」ということだ。
確かに、投票所に足を運ぶのが面倒だと思う人もいる。雨が降れば、投票率がガクッと落ちることは日本ではよく知られている。だから、投票率を高くするためには、通常の期日前投票の利便性を高めるだけでなく、インターネットでも「気軽に」投票できるようになるのが望ましいかもしれない。
一方で、このまさに「気軽さ」が本当に良いことなのかが疑問だ。言ってみれば、インターネットで簡単に本を注文したり、フェイスブックで「いいね!」ボタンを押したり、いろんなサイトで見かける「世論調査もどきのアンケート」で選択肢を選んだりするのと同じ感覚で、国政や地方政治の行方を決めてしまっても良いのか?ということだ。
見方によっては、選挙をある種の儀式、もしくは「ハレの日」と捉えることもできる。投票所に足を運んで、投票のための手続きをし、封筒など必要なものを担当者から受け取り、ついたての向こうで記入し、封をして、投票箱に入れる。そこは緊張感の漂う公の場であり、生半可な軽い気持ちで票を投じるのは少し気が引ける。例えば、スウェーデンの選挙を考えてみれば、毎年のように何らかの選挙がある日本とは違って、スウェーデンでは国政・地方ともに4年ごとにしか選挙がないから、それまでの4年間を振り返り、これから始まる4年間をどの党に任せるのかを意思表示する節目の時であるわけだ。
私の友人、レーナ・リンダルさんは、スウェーデンの選挙を説明するために日本語で書いたある記事の中で、スウェーデンの投票日のことを「民主主義の祭典」の日だと呼んでいたが、私もその見方に賛成だ。スウェーデン人の別の知り合いも、一昔前は厳粛なお祭りという意味合いがもっと強くて、投票所には少し着飾って行くくらいの心構えで足を運んだ、などと語ってくれたことがある。また、その人だけでなく、もっと若い友人の中にも、いくら期日前投票が便利になったからとはいえ、せっかく投票日が設定されているのだから、その日に、あらかじめ決められた投票所で投票したい、という人も少なからずいる。
それに比べ、自宅のパソコンの前というのは、まさにプライベートな空間だ。それに、インターネットの世界は匿名であるため、何でも思いついたことを書けるし、時には極端な意見を述べたり、自分の名前を出しながらは絶対にできないような発言もできてしまう。インターネット上で極端な意見が多いのはよく知られたことだが、皆がそうではないにしろ、プライベートな空間の延長のまま、公の場というフィルターを通すことなく「気軽に」投票ができるのも問題ではないかと思う。何が違うかというと、自分の投票権に対して感じる責任の重さではないだろうか。
だから、昨日あれだけノルウェーの電子投票制度について興味津々に説明したが、やはり昔ながらの「投票所」と「紙」と「ついたて」と「封筒」による投票が今後もずっと続いてほしいと思う。
確かにそうですね.目から鱗の問い掛けです.
9/14のコラムを読ませていただいた後は,例えば,個人が特定できてもどうやって他人(党関係者とか団体関係者とか)の指示を受けずに投票できたことが保証できるのか,等の疑問がいくつか浮かびました.それらが解決できるかどうか,といった技術的なことよりも,何のための利便性か,投票率さえ上がればそれでいいのか,といったことが本質的な問題のはずですね.
議論が尽くされて有権者が吟味した上で投票に向かう,その重みを考えれば少々不便なぐらいの方がいいのかもしれません.ここ数回の日本の国政選挙などは,深い議論がなされぬまま直前の雰囲気に流されて投票している有権者が少なからずいるような状況なので,これ以上お手軽にすることを考える前にやるべきことがあるはずですね.
そうですね。深い議論がなされないままに直前の雰囲気に流される人が出るのは、やはり、各政党ごとの政策の特色や実行可能性などがイマイチ分からず、選べといわれても選択の根拠になるような政策選択肢がきちんと提示されていないためでしょうね。