2009年頃だっただろうか、スウェーデンの夜のニュース番組で、日本に住む老夫婦がアザラシ型ロボットをペットとして可愛がる様子が取り上げられた。撫でたり、話しかけたりすると、表情や動作で反応するようにプログラムされており、老夫婦はそれで日々、気を紛らわしているとのことだったが、正直ゾッとした。所詮、プログラムされた機械にすぎないものを、生き物と同じように感情移入させるのは騙されているような気がするし、本来、人間同士の絆が果たすべき役割を機械が代わるのは、悲しい気がしたからだ。
しかし、その後、スウェーデンの老人ホームの一部でもこのアザラシ型ロボットを購入し、認知症のお年寄りの情操トレーニングに用いるようになっているという。
ところで、人工知能学会の学会誌の最新号の表紙が話題を呼んでいる。
何かと物議を醸しているこの表紙だが、これを見てハッとした。というのも、機械・ロボットの進化の行き着く先は、結局のところ人間型ロボットなのだと改めて気づかされたからだ。(性別分業を奨励する女性差別的なイラストだとの批判が上がっているが、私は過剰反応と思う。アイドルとかAKBとかメイド云々など、日本的な流行のノリで描いたものだろう。これを女性差別だと批判するのであれば、それ以上に批判されるべきものはたくさんあると思う)
実は、スウェーデンで現在、まさにこの人間型ロボットを扱ったTVドラマが放送されている。タイトルは「Äkta människor」、直訳すると「本物の人間」になる。第1シーズン(全10回)が2012年2月の放送され、現在はその第2シーズン(全10回)をやっている。
舞台は、近未来のスウェーデン。人間(human)型ロボット(robot)なので「hubot」(フボット)と名づけられたロボット達は、人間の日常生活の様々な場面に浸透している。倉庫内の物流をひたすらこなすhubot、家事労働をするhubot、老人と生活を共にし介護をしたり、話し相手になったり、趣味を一緒に楽しむhubot、工事現場で危険な作業をするhubot、職業安定所で失業者に適した仕事や職業訓練を紹介するhubot。
彼はhubotを小賢しい奴らと思っており、反感を募らせていく
hubotは次第に人間の仕事を代替していく。ただ、これはhubotに限らず、機械によるオートメーション化や産業ロボット、IT・パソコンで既に起きていることなので、何も新しいことではない。一方、hubotがそれらの機械と決定的に異なるのは、人間の顔形をしており、表情、動作、話し方も人間を真似て精巧に作られているので、hubotに対して情が移ってしまう可能性があるということだ。
例えば、「オーディ」と名づけたhubotを友達のように可愛がり、趣味や旅行を一緒に楽しんできた一人暮らしの老人。買い物の途中に制御不能になり、古い型なのでスクラップにするよう命じられるが、哀れに感じ、自宅に持ち帰ってひっそりと使い続ける。(そして、それがドラマのストーリーに大きく関わってくる)
また、ある女性は夫と息子と暮らしているものの、男性型hubotを所有し、ジョギングやトレーニングを一緒に楽しんだり、テレビを見たりしていたが、それに嫉妬した夫を見限って、hubotと一緒に別居し、愛人関係になっていく。
夫(左)の前で、hubot(右)と一緒に仲良くテレビを見ている妻(中央)
他方で、hubotが社会生活の様々な場面に浸透していくことで、人間が次第に追いやられていき、最終的に人間とhubotとの関係が逆転しまうことに不安を覚える人たちが、アンチhubotの政党を立ち上げ、社会運動につなげていこうともする。(その政党名が「Äkta människor(本物の人間)」)
「仕事に行くhubotの数は、仕事に行く本物の人間の数をそのうち上回ってしまうだろう」
hubotの意思決定の枠組みは人間がプログラムしたものとはいえ、その枠内で自立した思考ができ、感情を持っていると思わせるような動作をするようになったとき、人間はそのようなロボットとどのように付き合いを持っていくのか、というのがこのドラマの一つの主題だ。ストーリー全体にどこかメランコリックな哀愁が漂っている。
さまざまな人間やhubotが登場し、いくつかのストーリーが平行して進んでいくのだけれど、SF的要素も盛り込まれている。数多くいるhubotの中に、自律してモノを考えることができ、感情や意志を持つものが現れ、それが人間たちと対立していくのが一つの主題だ。また、hubotを「解放する」つまり、自律した思考と意志を持つことができるようにする秘密のパスワードを手に入れることも、ストーリーの根幹になっている。
hubot達を販売するマーケット
ただ、そういうSF的なノリだけでなく、もっと真面目なテーマも含んでいる。つまり、人間型ロボット(hubot)が人間社会の隅々にまで浸透した時、人間の生活や考え方はどのように変化するのか? そして、どのような問題が生じるのか? 倫理的な問題はあるのか?
所詮hubotは機械だと多くの人が分かってはいるけれど、日々の家庭生活・社会生活でhubotと接するうちに少なからずの人々が感情移入するようになる。そして、他の人がそのhubotを差別的に扱ったり、汚い言葉を投げかけると、感情移入した人間はその行いに対して、心を痛め、反発する。では、hubotにも人間に準ずる権利を認めるべきなのか? ある人が大切に可愛がっていたhubotを意図的に破壊した場合、所有者の精神的苦痛を考慮して、通常の器物破損以上の刑を科すべきなのか?
さらには、人間自身の実存的な疑問にも関わってくる。つまり、性能が高度になり、人間と同じような複雑な思考ができ、動作も精巧になってくると、じゃあ、結局、人間とhubotの違いは何だろう?という問いかけに繋がっていく。(タイトルである「Äkta människor(本物の人間)」は、そんな実存的な問題も意識していると思う)
主人公の一人。スウェーデン人の家庭にやって来るが、実は大きな謎を秘めたhubotだった・・・。
2012年の初めに放送された第1シーズンは、その後50ヶ国あまりの国で放映され、好評だったようだ(英語圏では「Real humans」というタイトルになった)。主人公の一人が韓国出身の国際養子の女性だったことも理由の一つなのか、アジアの中では韓国で放映され、同国のTVドラマ賞の外国部門を受賞したようだが、どうも日本ではまだ紹介されていないようだ。南欧やラテンアメリカの国々でも評価は高かったようだが、その理由の一つは、ドラマで登場する北欧的なライフスタイルや社会が、非常にシンプルで合理的であり、それがエキゾチックに感じられたことらしい。
スウェーデンの製作者は、SFドラマというと大抵の場合、多額の制作費用が掛かるものだが、このドラマは比較的低予算でも面白いSFができることを示せた、とコメントしている。
※ ※ ※ ※ ※
長くなってしまったが、最後に一つ。ロボットに情が移ってしまうのは、それの顔かたちが人間に近いからだと思っていたが、必ずしもそうとは限らないのかもしれない。先日、このようなツイートを読んで驚いた。
しかし、その後、スウェーデンの老人ホームの一部でもこのアザラシ型ロボットを購入し、認知症のお年寄りの情操トレーニングに用いるようになっているという。
ところで、人工知能学会の学会誌の最新号の表紙が話題を呼んでいる。
何かと物議を醸しているこの表紙だが、これを見てハッとした。というのも、機械・ロボットの進化の行き着く先は、結局のところ人間型ロボットなのだと改めて気づかされたからだ。(性別分業を奨励する女性差別的なイラストだとの批判が上がっているが、私は過剰反応と思う。アイドルとかAKBとかメイド云々など、日本的な流行のノリで描いたものだろう。これを女性差別だと批判するのであれば、それ以上に批判されるべきものはたくさんあると思う)
実は、スウェーデンで現在、まさにこの人間型ロボットを扱ったTVドラマが放送されている。タイトルは「Äkta människor」、直訳すると「本物の人間」になる。第1シーズン(全10回)が2012年2月の放送され、現在はその第2シーズン(全10回)をやっている。
舞台は、近未来のスウェーデン。人間(human)型ロボット(robot)なので「hubot」(フボット)と名づけられたロボット達は、人間の日常生活の様々な場面に浸透している。倉庫内の物流をひたすらこなすhubot、家事労働をするhubot、老人と生活を共にし介護をしたり、話し相手になったり、趣味を一緒に楽しむhubot、工事現場で危険な作業をするhubot、職業安定所で失業者に適した仕事や職業訓練を紹介するhubot。
彼はhubotを小賢しい奴らと思っており、反感を募らせていく
hubotは次第に人間の仕事を代替していく。ただ、これはhubotに限らず、機械によるオートメーション化や産業ロボット、IT・パソコンで既に起きていることなので、何も新しいことではない。一方、hubotがそれらの機械と決定的に異なるのは、人間の顔形をしており、表情、動作、話し方も人間を真似て精巧に作られているので、hubotに対して情が移ってしまう可能性があるということだ。
例えば、「オーディ」と名づけたhubotを友達のように可愛がり、趣味や旅行を一緒に楽しんできた一人暮らしの老人。買い物の途中に制御不能になり、古い型なのでスクラップにするよう命じられるが、哀れに感じ、自宅に持ち帰ってひっそりと使い続ける。(そして、それがドラマのストーリーに大きく関わってくる)
また、ある女性は夫と息子と暮らしているものの、男性型hubotを所有し、ジョギングやトレーニングを一緒に楽しんだり、テレビを見たりしていたが、それに嫉妬した夫を見限って、hubotと一緒に別居し、愛人関係になっていく。
夫(左)の前で、hubot(右)と一緒に仲良くテレビを見ている妻(中央)
他方で、hubotが社会生活の様々な場面に浸透していくことで、人間が次第に追いやられていき、最終的に人間とhubotとの関係が逆転しまうことに不安を覚える人たちが、アンチhubotの政党を立ち上げ、社会運動につなげていこうともする。(その政党名が「Äkta människor(本物の人間)」)
「仕事に行くhubotの数は、仕事に行く本物の人間の数をそのうち上回ってしまうだろう」
hubotの意思決定の枠組みは人間がプログラムしたものとはいえ、その枠内で自立した思考ができ、感情を持っていると思わせるような動作をするようになったとき、人間はそのようなロボットとどのように付き合いを持っていくのか、というのがこのドラマの一つの主題だ。ストーリー全体にどこかメランコリックな哀愁が漂っている。
さまざまな人間やhubotが登場し、いくつかのストーリーが平行して進んでいくのだけれど、SF的要素も盛り込まれている。数多くいるhubotの中に、自律してモノを考えることができ、感情や意志を持つものが現れ、それが人間たちと対立していくのが一つの主題だ。また、hubotを「解放する」つまり、自律した思考と意志を持つことができるようにする秘密のパスワードを手に入れることも、ストーリーの根幹になっている。
hubot達を販売するマーケット
ただ、そういうSF的なノリだけでなく、もっと真面目なテーマも含んでいる。つまり、人間型ロボット(hubot)が人間社会の隅々にまで浸透した時、人間の生活や考え方はどのように変化するのか? そして、どのような問題が生じるのか? 倫理的な問題はあるのか?
所詮hubotは機械だと多くの人が分かってはいるけれど、日々の家庭生活・社会生活でhubotと接するうちに少なからずの人々が感情移入するようになる。そして、他の人がそのhubotを差別的に扱ったり、汚い言葉を投げかけると、感情移入した人間はその行いに対して、心を痛め、反発する。では、hubotにも人間に準ずる権利を認めるべきなのか? ある人が大切に可愛がっていたhubotを意図的に破壊した場合、所有者の精神的苦痛を考慮して、通常の器物破損以上の刑を科すべきなのか?
さらには、人間自身の実存的な疑問にも関わってくる。つまり、性能が高度になり、人間と同じような複雑な思考ができ、動作も精巧になってくると、じゃあ、結局、人間とhubotの違いは何だろう?という問いかけに繋がっていく。(タイトルである「Äkta människor(本物の人間)」は、そんな実存的な問題も意識していると思う)
主人公の一人。スウェーデン人の家庭にやって来るが、実は大きな謎を秘めたhubotだった・・・。
2012年の初めに放送された第1シーズンは、その後50ヶ国あまりの国で放映され、好評だったようだ(英語圏では「Real humans」というタイトルになった)。主人公の一人が韓国出身の国際養子の女性だったことも理由の一つなのか、アジアの中では韓国で放映され、同国のTVドラマ賞の外国部門を受賞したようだが、どうも日本ではまだ紹介されていないようだ。南欧やラテンアメリカの国々でも評価は高かったようだが、その理由の一つは、ドラマで登場する北欧的なライフスタイルや社会が、非常にシンプルで合理的であり、それがエキゾチックに感じられたことらしい。
スウェーデンの製作者は、SFドラマというと大抵の場合、多額の制作費用が掛かるものだが、このドラマは比較的低予算でも面白いSFができることを示せた、とコメントしている。
長くなってしまったが、最後に一つ。ロボットに情が移ってしまうのは、それの顔かたちが人間に近いからだと思っていたが、必ずしもそうとは限らないのかもしれない。先日、このようなツイートを読んで驚いた。
技術の進歩で声の調子や体温などで相手のコンデションを読み取って、体調管理とかもできそうですね。
スウェーデンのヨーテボリで散歩していて気付いたことがありました。高齢者の方は歩行器具を使用されていたことです。
日本ではあまり見慣れないので印象に残っています。
若い頃はみなさん比較的スリムですが、結婚されると体型が変わっていくようですね。
日照時間とかも関係してくるのでしょうか?
ロボットに心があるのは映画の世界だけではなくなりそうですね。
よしさんはアザラシロボットにアレルギー反応だったんですね。私は別でした。いいじゃない、って思ったんですよ。
だってあのロボットはナデナデして、可愛いと思うためのものでしょう。生きた介護師をいいこいいこしたり、抱きしめたりするわけにもいかないので、まったく機能が違うと思うんです。老人ホームでは、アレルギーの問題なんかもあって、生き物は禁止のところも多いし。大体ネコや犬を飼うのって、動物自信は迷惑だと思ってるのかもしれないし。だったら、ロボットに感情移入できるのなら全く構わないと思います。
私も年取ってきたし、人事じゃなくなっているので、私がその立場だったら、と考えるわけです。
最近、スウェーデンでも介護のスキャンダルが随分ありましたね。
認知症の患者を扱っているところで、夜は看護人が全くいなくて、施設のドアに鍵をかけてほっぽらかしてあったり。建物の外からカメラを向けて、中にいるおじいちゃんやおばあちゃんがおむつだけでウロウロしてるところが暴かれてましたね。あれだったら人間の格好したロボットが、夜中じゅう面倒見てくれるんだったら、どれだけいいことか。
虐待の話もありましたね。娘が会いに行ったら、ウンチにまみれて、床の上に裸で転がっていたり、息子が虐待を疑って、レコーダーをかくしておいたら、自分の親がひどい目に遭っていたとか。
人間だから、出勤してくる前に、パートナーとけんかして、むしゃくしゃしてて、ということもあるでしょう。それだったら、そんな感情のないロボットだったら、なんて思ってしまいます。そうしたらÄkta Människor のほうは¥は優しさを持つ余裕も時間も出来るし。
友達に看護師がいますけど、認知症の患者さんは、人によってはそう簡単に扱えないそうです。お風呂に入るの絶対にいやで、物凄く暴れるとか、朝から晩まで汚くののしることしか出来ないとか。大変な仕事だな、と思います。
今後は若い人たちが年寄りの面倒を見るようになるし、人不足がもっと本格的になるわけですね。機械でできることは、そうするしかないし、それが人間の形をしているほうが、受け入れやすいのなら、ちっとも構わないと思うんですが。
ちょっと前に、NHKテレビかなんかで、リタイアーした盲導犬の話をやっていました。
生まれてから1年ぐらい、普通の家族に育てられ、そのあと、訓練所に入れられて、目の見えない人たちを助けて十何年。歳をとって、命を全うするために、また昔の家族のところに戻ってくるという(ちょっとお涙頂戴の)話でした。
訓練師が家族の家の前まで連れてきて、ワンちゃん、家族を見たとたん、ダーッと走っていく。昔遊ぶ時にはめた分厚い手袋を出すと、まるで子犬に戻ったようにはしゃぐところなんかを見て、この犬の幸せって、何だったのかな、と不肖なことを考えてしまいました。将来、こういうことが出来るロボットがいたら、この犬は家族のところで、まったりと幸せだったかもしれませんね。甲斐甲斐しくお役目を果たしているところなんかもでてきました。複雑な気持ちになりました。
よしさん、こういうのをどう思われますか。
ペットなんかもどうなんでしょうね。
ふわふわした犬や猫の毛皮の代わりに、お人形を抱っこしたりして、気が休まる人だっているし。どこで線引きをしますか。
レスポンスが遅くなりましたが、皮膚の上から血圧を測り、健康管理をする介護ロボットがこのドラマにまさに登場します。
> アザラシロボットにアレルギー反応だったんですね
私が抵抗を感じたのはアザラシロボットについてです。「人間同士の絆」と書きましたが、これはなにも介護スタッフが満たすべきものとは思っていません。友人・親類etcを念頭に置いていました。介護に関しては、人間の重労働(精神的な面も含めて)肩代わりする機械・ロボットがあるのなら活用するのは別に構わないと思いますよ。
> お人形を抱っこしたりして、気が休まる人だっているし。
動作という形で反応が返ってこないという点で、本題のロボットの話とはちょっと違うと私は思います。