自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

自己愛はこれ程まで強いのだろうか?

2014年05月15日 | Weblog

(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)
 「友達の幸福からわれわれがとっさに感じる喜びは、われわれの生来の気立ての良さに由来するのでもなく、友達に抱いている友情に由来するのでもない。それは自己愛のひとつの表れであって、自己愛が、次には自分も幸福になれそうだとか、友達の幸福から何か便宜を引き出せそうだとかいう希望で、われわれの心をくすぐるのである。」

 友達の幸福を素直に喜ぶこともあると思う。自己愛に基づいて友達の得た幸福をやっかむ場合もあるだろうが、そんな場合だけではないと思う。
 そうはいうものの、こう思う僕ももっと若い時は今より自己愛に耽溺していたと回顧できる。自己愛の程度が弱くなったのは歳のせいだろうか。
 ラ・ロシュフコーの箴言は、読む年代によって異なった意味を与えると思うが、だいたいにおいて、人間にまつわる真実を描いているとも思う。
 あなたの自己愛はどれ程でしょうか?

染付秋草文面取壺

2014年05月14日 | Weblog

 近頃は東京へ行く機会がないが、東京へ行った時は目黒の日本民藝館を訪れた。
 初めて訪れたのは、30年以上前である。
 柳宗悦の肝いりで建造されたこの民藝館に入ると、別世界で気分が落ち着く。
 最初に目に入ったのが、染付秋草文面取壺であった。李朝白磁の逸品だが、元々は朝鮮国内では雑器であった。その美に着目したのは、淺川伯教(のりたか)・巧兄弟であり、伯教が宗悦に贈り、宗悦が朝鮮の焼き物の美に初めて魅せられたという逸話がある。
 昨晩、寝つきが良くなく日本民藝館の写真集を見て癒されたというのか、気分が落ち着いたようだった。 大正から昭和にかけて、日韓併合時代の京城(現ソウル)に暮らす日本人兄弟が居た。昔ながらの朝鮮服を着て、木履をはいて町を闊歩する、彼の地にすっかり溶け込んだ生活の中で、彼らは李朝工芸の美しさを見出し、それを宗悦などの日本人に伝えた。淺川兄弟が心底ほれこんだ、健やかで愛らしい李朝の美。それを典型的に表しているのが、染付秋草文面取壺だと思う。
 淺川巧は林業技師としても朝鮮の白松などの栽培方法を研究したが、同時に兄と共に朝鮮の日常生活の中にある工芸品の美を初めて見出した。困難な時代にあって、相手国の日常の美に着目できる程に器量の大きな人物だったのであろう。巧は朝鮮の土となっている。朝鮮(韓国)の人々は兄弟への尊敬の心を今も失っていないと聞く。
 隣国との間柄は、こうでなくてはならないと強く思う。もちろん隣国と、だけではない。

2014年05月13日 | Weblog

 僕は焼き物を観るのが好きだ。もっと若い頃は衝動買いで安物を手に入れ、悦に入ったことがあった。日本の焼き物は土を焼成したものが多い。
 変なことを考えた。土とは何か?
 長大な時をかけ焼かれたものが冷え、固まって風化した、それが地球だ。
 その地球の表層が土だ。土がもし無かったら、多くの植物は生えない。植物が生えなかったら、光合成がなされず、殆どの生物は存在しない。そうすると、仮に僕らが生存できるとしても、僕らの用を成すものの殆どは生育しない。勿論、樹木も野菜も生育しない。
 だから、人間を含む生物は土無しには生きられないのだ。都市部の人々は土に感謝しているだろうか。土が見えないようにアスファルトで覆っているではないか。
 ところで、土を耕す人々が居る。彼らこそ地球の住民だ。土に養分を施し、豊かな土に種を蒔き、植物を育てる。
 その植物を僕らは金で買って食べて生きている。土に密着して植物を育てる人々のお陰で、僕らは生きることが出来る。
 僕らは土から浮遊しているのだ。浮遊者なのだ。
 浮遊者なんだけど、時には土に思いを馳せることがあってもいいのではないか。いずれ土に還るのだから。土と仲良くしておく方が寝心地がいいだろう。

読む度に恥ずかしくなる本

2014年05月12日 | Weblog

 マルクス・アウレ-リウス『自省録』(神谷美恵子訳)は読む度に恥ずかしくなる本である。
 特に、その初めの方には、例えば「驚かぬこと、臆さぬこと、決してあわてたり、しりごみしたり、とまどうたり、落胆したり、作り笑いせぬこと。また怒ったり、猜疑の心をおこしたりせぬこと」という句がある。
 このような句の意味するところを我がものとし得ないことは言うまでもない。常日頃の座右の銘にするのも僭越である。臆したり、あわてたり、しりごみしたり、とまどうたり、落胆したり、そんなことばかりしているのではないかと顧みるばかりである。ただ、僕は作り笑いはしないのではないかと密かに思つている。世の中には作り笑いの得意な人もいる。
 しかし、そんな現状も、訳者の神谷美恵子のハンセン病患者への献身を思うと、たいした事ではないのではないかという気がする。『自省録』の句と神谷美恵子の生きざまとが重なり、僕に迫り来るが、いかんせん、恥ずかしくなるだけである。

 ハンセン病国家賠償訴訟の全国原告団協議会会長で、元患者らが国の隔離政策で受けた被害の快復や差別解消の運動を率いた谺(こだま)雄二さんが11日午前3時54分に逝去されたと朝刊で。ご冥福をお祈り申し上げます。

詩人・尹東柱(ユン ドンヂュ)

2014年05月11日 | Weblog

 某月某日にも記したと思うが、再度。尹東柱、創氏改名させられて平沼東柱。戦時下、立教大学そして同志社大学に留学。祖国解放について密談したとの嫌疑で特高によって拘束。1945年2月福岡刑務所で獄死(27歳)。死の前に九州帝大の医師によって特攻兵の士気を高揚させるための試薬を注射されたとの説あり。

    序詩

  死ぬ日まで天を仰ぎ
  一点の恥なきことを
  葉群れにそよぐ風にも
  私は心を痛めた
  星をうたう心で
  すべての死にゆくものを愛さねば
  そして私に与えられた道を
  歩みゆかねば

  今宵も星が風にこすられる    (1941年11月20日)

 
 この詩は高等学校の教科書にも載っていることもあり、知る人も案外に多いかもしれない。同志社には詩碑も建立されている。初めてこの詩を読んだとき、僕は戦慄を覚えた、その稀有な殉情に。

竹内浩三

2014年05月10日 | Weblog

 竹内浩三、1921(大正10)年生れる。1947(昭和22)年三重県知事の名による戦死の公報「昭和20年4月9日時刻不明、比島バギオ北方1052高地方面の戦闘に於て戦死」。死後、40年ほどして詩人として一般に認められた。代表作を(前に引いた覚えがあるが再び)引く。

   骨のうたう

 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や

 白い箱にて 故国をながめる
 音もなく なんにもなく
 帰っては きましたけれど
 故国の人のよそよそしさや
 自分の事務や女のみだしなみが大切で
 骨は骨 骨を愛する人もなし
 骨は骨として 勲章をもらい
 高く崇められ ほまれは高し
 なれど 骨はききたかった
 絶大な愛情のひびきをききたかった

(戦後は戦争で死んだ日本人は居ないと言われている。今後はどうであろうか。【集団的自衛権】の行使の結果とやらで、もうこんな詩が生れないことを願うばかりである。)

永久凍土が融ける

2014年05月09日 | Weblog

 次はおよそ4年前の新聞報道だから事態はますます悪化していることだろう。

 新聞によると、モンゴル最大の湖フブスグル湖(ロシア国境に近い)の水位が1960年代と比べ60cmも上がっているそうだ。その水の圧力は湖畔の土を削り、カラマツを根元からすくい水中に引きずり込んでいる。
 水位上昇の原因は地球温暖化にある。この地方の気温は30年間で2度近く上がった。そのため、周囲の氷河や地下の永久凍土が融け出し、地下水となり湖に流れ込んでいるとみられる。
 永久凍土とは、地下水とともに一年中凍結している土のこと。それが皿のような役割を果たし雨水を蓄え、夏には表面だけが融け、木や草を成長させる。しかし、その凍土が地下の深いところまで融け出したようだ。
 一般的には気温が上がれば水分の蒸発で湖の水位は低下するが、フブスグル湖の場合は永久凍土という水の貯金をどんどん引き出しているため、湖水は上昇するという仕組みになっている。
 だが、貯金が減れば、地面は潤いを失い、更にそこを、温暖化による水分蒸発が襲う。実際、モンゴル各地で小川や浅い湖が枯れ出し、草原の退化が進んでいるそうだ。その結果、例えば黄砂の飛来が増える。
 永久凍土は最早永久凍土とは言えなくなった。温暖化は進行し続けるであろう。地球環境破壊にもっともっと関心がはらわれ、温暖化をくい止める手立てを地球規模で考えなければならないと思う。

なんとバカげた日常か!

2014年05月08日 | Weblog

  
  私は毎日毎日の仕事を
  いまいましく思う。
  なぜなら、いつだって
  バカげているからだ。

とはゲーテの言葉。
毎日毎日の学校生活もつまらない。だって皆な、勝手なことばかりしているんだもの。
でもね、ゲーテは続けて言ってるよ。

  とはいえ、
  出来る限りの努力をし、
  その日常から得たものが、
  いつかは加算されて
  ものをいうことになるだろう。

そうなんだ。よほどの天分に恵まれていない限り、日々の生活は単調で、時にはやりきれないと感じるだろう。
ゲーテのような天才で、陽の当る道を歩いていたように思われる人でさえ、俗物貴族と顔をつき合わせて仕事をしなければならない毎日を送った。
しかし彼は、出来る限りの努力を惜しまず、自分に対して誠実な仕事をし続けた。彼の偉業は、そうした仕事が加算、累乗された結果なのだ。

自由な考え方

2014年05月07日 | Weblog

 「本当に自由なものの考え方とは、他を認めることだ。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

 人ひとりの考えなど、しれたもので、そこから生まれるかもしれない行動の規範は極めて狭い。井の中の蛙が自由であるはずがないではないか。
 自縄自縛という言葉があるが、その縄は「自分自身」であり、その縄の拘束力は比類ないほど強いばかりではなく、厄介なことに見つけにくい。
 自分の殻を脱いで他者を認める時、初めて僕(ら)はその縄から解き放たれ、自由なものの考え方をするができる。
 概略、このような意味であろう。しかし、言うは易しく行うは難しで、僕なんぞは自縄自縛の状態にある場合が多い。縄をほどき殻を脱ぐには、他者の言を傾聴することが大事だと思う。たとえ、その言がつまらなく、愛想のよいものであっても。但し、その言が立て板に水を流すような言ならば、あるいは権威を傘にきた(つもり)の言ならば、僕は逃げることを良しとする。
 とかく、自由な考え方というものには達し得ないものだ。

「驚き」

2014年05月06日 | Weblog

 民芸運動の発起人、柳宗悦の本はかつてよく読んだ。ちょっと読み返してみたら、『心偈』という書き物に「驚きを抱く者は幸いである」とある。
 思うに、人間の精神的な成長が年齢とともに老化するか否かは、この「驚き」の心を持ち続けることが出来るか否かにあるのだろう。
 世間には、立派なもの、美しいもの、鮮やかなもの等が確かに存在する。
 しかし、それを、立派だ、美しい、鮮やかだと受け止めるのは自分の心であって、その心があるからこそ、その存在を認めることができると言わねばならない。
 その新鮮な「驚き」の心がなくなれば、それらは単にガラクタにしか見えないだろう。
 ああ素晴らしいと驚く、さすがだと驚く。
 驚くとは出会った物事に対する肯定的評価であり、宗悦によると、「喜び」なのである。そのような心を持ち続けている限り、心は老いることはない、
 と言っていいのだろうか、僕にとって。

風呂敷

2014年05月05日 | Weblog
 
 昨日、高橋和巳について触れた。その和巳先生が本を風呂敷で包んでわりと早足で歩いているのを思い出した。風呂敷の長老の先生は二人はおられたが、和巳先生はまだ30代後半だった。
 ところで、風呂敷という言葉が気になった。なぜ風呂敷というのか。調べてみた。
 風呂敷とは風呂の敷物であった。もともと日本の風呂は湯船がある風呂ではなく、蒸し風呂で寺院にあった。前者は湯と言い、後者を風呂と言った。風呂に入るには礼を失っしないように、一定の着衣を要した。その脱衣を包むのが風呂敷であった。他人の物と間違えないように家紋や家号の類を染め抜き、又、浴後にはそれを敷いて座したと言われている。しかし、風呂敷という名前は江戸時代以降の事で、それ以前は平包、古路毛都々美などと言ったそうだ。が、形は四角形のままだった。風呂敷で物を包むということは、包んだ物を運ぶという機能と、その物を大切に扱うという人の心の現われである。
 因みに、「包」という字の成り立ちは、勹に己と書く。勹は母体を意味し、己は自分を表す字である。つまり、「包」は母体が子を宿し育むことを意味する字である。僕らは母体に包まれ命を宿し、生まれた後は、もともとは、自然に包まれ、四季の風情を愛でて生活してきたはずだった。近頃は、包まれるという事を何処かに置き忘れて忙しく生活している。風呂敷という言葉の由来を調べていて、考えさせられるところがあった。

生命というもの

2014年05月04日 | Weblog

 僕の好きな文の一つに次の文がある。
 「とりわけ戦後むやみやたらと経済成長に血眼になることによって、私たちがともすれば見失っている日本人が元来持っていた生命というものに対するある見方・・・日本人はなにかある極限的な状態に追い詰められて、自らの存在、あるいは生命というものを顧みようとします場合に、人間の生命というものを、一切衆生と切り離したものとしては意識しないで、他の動植物、ねずみとかトンボとか、あるいは植物とか、そういう存在の中に貫かれている生命のリズムというものを凝視することによって逆に人間の命というものを迂回して考えるという、そういう性質を日本人は持っていたはずなんです。」

 中国文学者で作家の高橋和巳の、志賀直哉『城の崎にて』についての文の一節である。この人の講義に僕は出たことがある。どこかおどおどした立居振舞の人で、優しい眼をした30代後半の書生のような先生であった。話し言葉は下手だが、小説の文は類稀な上手を極めた。残念にも早世された。

 ところで、上の文の醸すところに僕が批評するところは全く無い。
 この文を参考にして次のような事を考えた。弱肉強食の生物界にあって、強者は弱者を慮るのが良いのではないか。実際、天然自然においてはそうなっている(空腹を満たす場合を除いて)。とりわけ人間の間でも強い人間は弱い人間を慮り愛する方が良いのではないか。強い国は弱い国を慮り手を差しのべる方が良いのではないか。そうすれば、互いに戦争を仕掛けることはないであろう。そうすれば、人間を、あるいはむやみやたらと動植物を殺すこともないであろう。他者の、あるいは動植物の「存在の中に貫かれている生命のリズムというものを凝視することによって逆に」自分の「命というものを迂回して考えるという、そういう性質」を涵養する方が良いのではないか。そうすれば、他のものの生命というものを亡きものにするということは随分と減るだろう。

『木を植えた人』(再掲)

2014年05月03日 | Weblog

 ジャン・ジオノ『木を植えた人』の物語が実話なのか虚構なのかは不明である。虚構であっても、この短編から大きな感動を受ける。フランス南部のプロヴァンス地方に生まれたジャン・ジオノが、その地方の荒れ果てた高地を森に変えた一人の男を描いているのがこの短編である。
 その男、エルゼアール・ブフィエは毎晩ドングリを百粒を荒地に植えていた。植え始めて三年、十万粒のドングリの内二万本の芽が出た。その半分はネズミやリスにかじられたが、一万本のカシの木が荒地に育った。第一次大戦後五年を経て、「私」が再び訪れると、一万本のカシの木は既に人の背丈を越え、ブナやカバの森も育っていた。広大な荒地が緑の森に変わっていた。
 近くの村には小川が流れていた。そこに水が流れるのは随分と久しぶりのことで、誰も覚えていないくらい昔のことだった。男の育てた森が小川を生み出していたのだ。
 更に二十数年、男は根気よく森を育てた。廃墟だった村に気持ちの良い生活が戻り、「森が保持する雨や雪を受けて、古い水源がふたたび流れはじめ、人々はそこから水を引いている。」
 森が水をつくってくれるのだ。森は薪も炭も与えてくれるが、何より水を与えてくれる。豊かな森には豊かな水がある。
 僕らは森の恵みをどれほど認識しているだろう。文明というものが、森を切り拓くことによって進歩してきたというのが事実であるならば、この事実を反省しなければならないと思う。

出征の様子 (再掲)

2014年05月02日 | Weblog

 僕(ら?)の知識は殆どが請け売りだと言ってよい。受け売りなんだけれど、受け継ぐべき重い知識は記憶しておく方がよい。以下は今日の大新聞に挿まれたミニコミ紙からの抜粋である。

 昭和12・13年頃までの出征の様子はお祭りのようだった。出征兵士の名前を書いた幟を何本も立て、楽隊と提灯行列を従えた「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双のこの兵」はまさに「歓呼の声に送られて」出征していった。・・・しかし戦争が激しくなり、出征していった人の数だけ白木の箱が還ってくるようになると、召集令状を渡す側と貰う側の、「おめでとうございます」「ありがとうございます」の挨拶も寒々しくなってくる。出征する者の知り合いは、街角に立って「千人針」を募るようになる。街行く女性たちに、晒(さらし)の布に赤い縫い糸で結び目を作ってもらうのだ。「千人の女性に縫ってもらった胴巻きを着ければ戦場で弾に当たらない」というおまじないである。・・・「千人針」には「五銭玉」を縫い付ける事が多く、「五銭は四銭(死線)を越える」という語呂を合わせてげんを担いだ。
 当時男子として生まれたからには、召集から免れるすべはなく、・・・大陸に送られ、南方に送られ、内地を恋しく思いながら、たまに送られてくる慰問袋を心待ちにしていつまでも続く行軍に耐えた。「敵の屍と共に寝て、泥水すすり草を喰む」こともあれば、「背も届かぬクリークに三日も浸かって」いることも・・・。いつ死ぬかも知れない恐怖と、残してきた両親や子供、家族など山ほどの「後顧の憂い」に兵士たちは苛まれた。