原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

棄民

2014年01月21日 10時23分33秒 | 社会・文化

 

ちょっとばかり古い話となるが、中学に入ったばかりの頃、一人のクラスメートが転校することになった。転校と言っても外国、それもドミニカというカリブ海の島国への移動である。おそらく中学校も卒業ということになるのだろう。ドミニカへ移民する一家のひとりだった。別れのあいさつをする彼の姿が忘れられない。海外への移民はおそらく彼の希望ではないはず。名残惜しそうに別れを告げ、寂しさを体いっぱいに表現していた。その後、ドミニカ移民の悲惨な現実を聞いた。あの友が今どうしているか、まったく分からない。すごく嫌であるが「棄民」という言葉が頭をよぎる。

 

ドミニカ移民は1956年から59年にかけて行われた。当時の日本は敗戦の名残りがまだあり、満州からの引揚者もあり、高い失業率に悩んでいた。こうした対策の一環として考えられたのが中南米への移民政策であった。ドミニカ移民はその一つで条件は破格に良かった。土地の無償譲渡や中程度の肥沃度の入植地という宣伝文句に応募者が殺到。厳正な審査を受けて選ばれた人たち(家族単位)は移民のエリートだった。カリブの楽園を目指したのは249家族1319人。級友一家はその中に含まれていた。多くは鹿児島、福島、高知、山口の人たちであったが、北海道でも選ばれていたのである。当時の道東には開拓があり、新天地を求めて多くの人が北海道に来ていた。満州からの引揚者もいた。今も道東にある弥栄村は満州にあった同名の村からつけられている。級友一家もそうした開拓者であった。

 

ドミニカ移民はわずか3年という短い期間で挫折する。土地の無償譲渡などというのは真っ赤なウソ。耕作権を与えるというだけのもの(ドミニカの法律がそうなっていた)だった。土地は塩を含んだ荒れ地、耕作にはまったく適していない。こうした事情を当時の駐在のドミニカ大使が知らなかったわけがない。黙認していたのだ。おまけに隣のハイチからの犯罪者が入り込み、危険であった。移民した人たちは早速クレームをつけた。それを無視し政府に進言もしなかったのが外務省。

決定的だったのはこの移民政策を画策した独裁者トルヒーヨ大統領が暗殺されたことだった。国は混乱し、スペイン語を話せない日本人はまさに路頭に迷った。無能な外務省でもこれでは問題となる。ようやく移民計画の見直しをして日本人の帰国を実行したのは1961年であった。当時の首相は池田勇人。この無謀な移民計画を了承し実行に舵を切ったのは鳩山一郎内閣。あのルーピーの祖父である。

1961年に約8割の家族は日本に帰国したが、南米のブラジルへ移動した人もいた。ドミニカに残った人は47家族276人。残った人たちは日本政府に移民条件を守るように要求したが、遅々として交渉は進まず、1998年になってようやく新たな土地が提供されたが、これまた全く耕作に適さないものだった。まさに彼らは「棄民」となったのである。

残留者たちは2000年に日本政府に損害賠償を請求し訴訟を起こした。2006年の東京地裁は国の責任を認めながら、賠償請求については20年時効を理由に棄却したのである。当然控訴となる。当時の小泉純一郎総理は原告側に謝罪の意を伝え、同時に原告側に最高200万円の一時金を支払うことを決定。これに基づき和解が成立。控訴は取り下げられた。

 

これが一連の概略である。級友のその後は依然として不明だ。ドミニカに行った1年後に現地からの手紙が届いたのを記憶している。馬に乗った写真とともに、スペイン語の勉強と荒れ地を耕していることが綴られていた。元気そうに感じたが、事実はまったく違っていたということなのだろう。だいぶ後に、関西に帰ってきているという話と、大統領暗殺のどさくさに殺されたという噂を聞いた。12,3歳の子どもが体験するにはあまりにも過酷なものであったことは容易に想像できる。訴訟の原告団のなかにもそれらしい名前は見当たらなかった。彼は今どうしているのだろうか。

 

 (仕事でドミニカを訪れたことがある。1980年代だった。この時はまだドミニカの悲惨な実情をよく理解していなかった。ただリゾート地の美しい海の風景と社会情勢のギャップは強く感じた)

政府によって切り捨てられた自国民を意味する「棄民」。かつて満州へ駆り出された人たちもそうであった。北朝鮮を地上の楽園と持ち上げられ、かの地へ夫とともに向かった日本人妻たち。拉致されたままの人たち。政治の責任は実に大きい。特に外務省は愚かであってはならない。

 

名護市長選の結果が出た。これがどんな結果を生むのか分からないが、翻弄される沖縄の人たちを思うと、政治の大切さを痛感する。イデオロギーとは関係なく。

 

*巻頭の写真は首都サント・ドミンゴの大聖堂。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ほんの少しだけ読んだことがあります。 (numapy)
2014-01-21 16:20:18
ともかくひどかったらしいですね。
荒れ地というもんじゃなかった、と書いてありました。
それで思い出しましたが、中学生の頃、南米への移民を考えたことがあります。
ブラジルとチリが候補でした。
チリは当時100人以下しか日本人がいないということでした。
大学生になってから、行かないでよかったと思いましたね。
返信する
もしも、 (原野人)
2014-01-22 10:25:00
チリに行っていたら、今頃、大統領になっていたかも。ちょっと想像すると面白いですよ。
しかし、日本を離れると言うことはなかなかできないですね、私は。海外はずいぶんにきましたが、日本を離れて暮らしたいと言う国はついにあらわれなかったです。
いろいろな事情で日本を離れた人は多いようですが、国策で海外移住を推進しておきながら、あとは知らぬでは、やりきれませんね。級友の消息は依然として不明ですが、どこかで元気にしていると思いたい。
返信する

コメントを投稿