遊民ヤギ爺

俳句と映画のゆうゆう散歩

大須観音

2023-01-26 15:54:56 | 鶴舞公園へ行って来ました
令和5年1月1月26日(木)

大須観音 : 北野山真福寺宝生院


建久2年(1190年~)、尾張国中島郡大須(現、岐阜県羽島市)
に建立された。
慶長17年(1612年)、徳川家康の命により犬山城主の成瀬正
成が、宝生院、真福寺と共に現在地(名古屋市大須)に移転した。
文化2年(1855年)に五重塔建立、空海が彫った愛染明王像が
五重塔に納められた。
明治25年(1892年)、大火で本堂、五重塔等が消失した。
その後も昭和20年、太平洋戦争中に2度目の消失。
昭和45年(1970年)に再建され現在に至っている。

大須観音は戦前・戦後ともに大須の街のシンボルとなっている。

大須観音の境内に、「芭蕉句碑」がある。


いささらは雪みにころふ所まで   芭 

芭蕉は貞享4年(1687年)に再度訪れて際、12月3日に
原町の「書林風月堂」に於いて、俳諧を催した。
如行、夕道、荷号、野水らが参加した句会の折り、雪となる。
この歌仙句碑は幾度かの変遷を経て大須観音に落ち着いた。
芭蕉翁三百年忌を迎えるにあたり、その追善と名古屋文化の
発展の一助として再建されたとある。

この句の意味は、「いざさらば雪見に転ぶところまで」
さあそれでは雪見に参りましょう、雪見で転んだら戻ります。

境内の中央に「女人梵鐘」という立派な鐘楼がある。

昭和41年(1966年)に、地元の婦人会等の女性達だけ
で寄進されたといわれる。

境内には他にも様々な供養塚等が在る。
「人形供養塔」

昭和54年(1979年)に建立された

人形は我が子に振りかかる災難や厄を人形に転化し、身代わり
をとの祈りを込められている。こうして愛されてきた古い人形
をおろそかに扱ってはならないと供養塔を設け、毎年10月の
第一木曜日を「人形供養の日」として祀られている。

「扇塚」

昭和37年(1962年)、芸どころ名古屋の舞踊協会が古い
扇に感謝・報恩のために「供養塚」を建立した。
西川流家元の西川鯉三郎が発起人に名を連ねている。

「歯歯塚」
義歯(入れ歯)の使い古したものを供養し、納めるという。

「宗春爛漫」

境内鐘楼の後ろ(南側)に「宗春からくり人形」が在る。
尾張藩7代目藩主の徳川宗春に因んで作られた。
徳川吉宗の「倹約令」を無視して、尾張の地で芸能を奨励
し、名古屋の街の発展に寄与、吉宗から謹慎・蟄居を命じ
られた。名古屋の発展の大恩人と慕われた宗春を称える声
は多い。毎日5回からくり人形が上演される(所要6分)

「仁王像」
境内の南に二体の仁王像が在る。


本尊の「聖観音」を護衛するための「武神」といわれる。
向かって右手は口を開けた「阿形」、左手は口を閉じた
「吽形」という。


大須観音の境内を抜け、大須商店街へ入り中程左手の折れ
ると「大須演芸場」があり、度々訪れる場所だ、、、



仁王様が、ヘラヘラしないで、観音様を拝めと、、、、。


今日の1句

大嚏仁王揃ひて咎めをり  ヤギ爺


寒波襲来

2023-01-25 15:55:04 | 鶴舞公園へ行って来ました
令和5年1月25日(水)

寒 波 : 冬一番

北極圏やシベリアに発生した著しく冷温な寒気団が、日本付近
の低緯度地方に南下流出して急激に気温の低下を引き起こし、
厳しい寒さになる現象をいう。その襲い方が波の押し寄せるの
に似て周期的、波状的であることから「寒波」と呼ぶ。
寒波が来ると一日で気温が5度から10度以上急激に下がる事
があり、その冬初めての寒波を「冬一番」と呼ぶ事もある。

昨日からこの冬一番の強い寒気が流れ込み、全国的に冷え込み
が強まった。
全国で最も冷え込んだのは北海道の陸別、ー30℃で、25日
朝6時に全国913地点のうち、506地点で今期最低気温を
記録した。
全国主要都市の今朝最低気温は、札幌でー12・8℃、仙台で
ー7・5℃、東京で-2・9℃、名古屋で-3・8℃、大阪で
ー2・0℃、福岡でー2・5℃となっている。

名古屋城付近、
名古屋、栄付近、

名古屋地方は昨日の午後から、横殴りの強風下で「猛吹雪」と
なった。積雪量は大してなかったが、前日に比し冷え込みは厳
しく、外気は手が冷たさよりも痛さを感じる程である。
今朝、風は弱まったが寒さは厳しく、新聞を取りに玄関を開け
外気の冷たさに震えた。通路のほんの少しの雪は凍っている。
ラジオの予報は「名古屋は氷点下3・8℃、今冬一番の冷え込
みです。」に、一層身震いがした。
薄暗い中の公園は、ほんの少し雪が積もっているようだ。


また雪がチラつき始め、8時頃には辺り一面の銀世界となる。
昨年末の積雪より少ないが、気温が低く直ぐに凍りつく。
車がゆっくり進むが、ガリガリと氷を削るような音が、、、

道路上の雪は解けず、車の通った後は塊り表面が滑り易い。
通勤・通学の人達はバスが来ず、ゆっくりとペンギン歩き。
通勤者か、?自転車にまたがりふらつく様にゆっくり進むが
転倒した。 雪の日の自転車は「要注意」です、、、、

テレビで「滑り易い場所」を掲げていたが、交通量の多い
所の横断歩道、バス亭付近、地下鉄出入口、店頭付近等と
注意をしていた。

交通量はなくても裏通りは日陰で、積雪が残っている。
「不要不急」の外出は控えるようにとの注意喚起が身に沁む、
今日はカミさん、外出を控え「体操教室休む」にホットする。


今日の1句

寒波くる蛇行自転車へたりをり  ヤギ爺

四家道(しけみち)

2023-01-24 16:23:19 | 鶴舞公園へ行って来ました
令和5年1月24日(火)

四家道 : しけみち

慶長15年(1610年)、「清洲超え」といって清洲の町から
名古屋の地へ町ぐるみ移転し、名古屋の北部に築城をした。
元禄13年(1700年)に大火が在り、町が消滅。


四家道由来、

その後に街並み保全(防火)と商業活動のため、道路の幅を4間
(約7m)に広げた。その後にこの四家道の名が付いた。
四家道の東側には石垣の上に土蔵を建て(堀川沿い)集荷場に。
道路を挟み反対側(西側)には商家が立ち並んだ。

堀川荷を揚げ、石畳・屋根神様・子守地蔵等を祀り、城下町を
作り上げた。(名古屋市は昭和61年、町並保存地区に指定)
此処から名古屋城へは、真直ぐ北へ約1kmの場所にある。

私の生れた家は名古屋城から西へ約1km、「押切町」に在る。
子供の頃には四家道に隣接する「円頓寺商店街」へよく出かけ、
映画を観た後に、親に連れられ喫茶店に入りアイスクリームを
食べるのが楽しみで、今も思い出に残っている。
当時の円頓寺商店街はとても繁華で、映画館・劇場が多く在り、
皆、挙って出かけていた、、、、。
小学生の頃には、円頓寺の手前の新道(明道町)の菓子問屋街
へ、遠足の菓子を買い求めに、、(今も問屋街は健在する)
この頃には「四家道」は余り知らず、記憶に無い。
数年前から俳句仲間と吟行に訪れる様になり、四家道の所在を
知った。(歴史ある古い街並みが私の生れた場所に在るとは)

吟行で訪れる時には、名駅に近い「浅間神社」に集合する。


小さな社だが、境内には樹齢300年を超す大樟がある。
直ぐ傍に道標があり、其処から先(北)は石畳が続く。


北へ進むと東側は土蔵が連なり、その建物を利用した洒落た
レストランが在る。道路を挟み反対側には古い町家が続く。

町屋の所々に屋根神様が祀られている。



細い路地に入って行くと、袋小路の先に「子守地蔵」が祀ら
れ、時折の風に寄進旗がはためいていた。



再び通りに戻り、北へと進むと「円頓寺商店街」の東端に出
る。右手に直ぐ堀川が在り、ここに五条橋が架かっている。


堀川沿いを真直ぐ北へ1kmほど進むと「名古屋城」が在る。
円頓寺商店街を西へ行くが、商店街は半分程が閉まっていた。

中程に、長久山円頓寺がある。

当時の面影はなく閑散とする。(平日の午前中の所為かも)
商店街を出た所に、郷土の英傑の像(信長、秀吉等)が在る。
織田信長像、

豊臣秀吉像、


今日の1句

三寒の屋根神拝む媼かな   ヤギ爺

冬牡丹

2023-01-23 15:29:22 | 鶴舞公園へ行って来ました
令和5年1月23日(月)

冬牡丹 : 寒牡丹


牡丹は、ボタン科の落葉低木で中国原産(中国の国花)
日本へは7,8世紀頃に遣唐使や空海が伝来したと云われる。
古くから観賞用、薬用として栽培されている。樹高は1m程。
本来は春(4~5月頃)に咲く花だが、花期を遅らせて厳冬
に花を咲かせる。

厳しい冬の寒さに咲くので、藁苞(藁を編んで作った苞で包
むもの)を周囲にかけ、根元に藁を敷いて労わってやる。南
面が開けてあり、陽光を取り込む工夫がされている。

寒気にめげず咲く冬の牡丹は、健気で美しい。
花の大きさは20cm程の、二期咲き性の牡丹を変種。

冬牡丹と寒牡丹の違いは、
冬牡丹は、元々春に咲く品種を、春、冬(1,2月)に開花
するように品種改良した。茎は青々と芳しく葉っぱも多い。
寿命は1年で、2度咲くことはない。人工的に栽培される。
寒牡丹は、春と初冬に花を付ける二期咲きの変種。葉は殆ど
なく、茎や枝は黒っぽい。30年もの寿命のものも在り、人
の手があまりかからないといわれる。

徳川園の冬牡丹

名古屋市東区に在る「徳川園」で、冬牡丹の展示が始まった。

藁苞の中に、色とりどりの花が見頃を迎えている。
20種類・70鉢が、徳川園内の北側にある、「牡丹園」に
植えられている。
太陽、
五大州、
島大臣、
新日月、
日暮、

冬牡丹は、藁や温室で雪や霜を防ぎ温度管理を徹底し、本来
春に開花する牡丹を人工的に、真冬に開花させたもの。
徳川園では毎年、牡丹の生産量日本一を誇る島根県松江市の
大根島から仕入れ展示をしているとのこと。
紫紅色万重盛り上げ咲きで大輪の花の「花王」、桜色の八重
「八千代椿」、絞りと呼ばれる紅白が入り混じった色合いの
「島錦」などの彩々の花が見頃を迎えている。
花王、
八千代椿、
島錦、

つい、カメラを向け、、、、、ゆっくり立ち停まっていると、
見知らぬ人から声がかかる。
何とも心地よい日溜まりである、、、、。


今日の1句

日溜まりの箱入り娘冬牡丹   ヤギ爺

侘 助

2023-01-22 16:35:37 | 鶴舞公園へ行って来ました
令和5年1月22日(日)

侘 助 : 唐 椿

徳川園を訪れる


黒門に入り、直ぐ右手奥「虎の尾」の方へ進む。
白い小さな花がひっそりと咲いている。




数寄屋侘助というそうだ。暫く虎の尾から右手の塀沿いの
寒々とした苑を進むと、大曾根の滝に出る(人口の滝)
此処から左手に折れると、「四眠庵」の辺りに薄い紅色の
花を見つけた。(後で調べ、太郎冠者という侘助と判明)


冬枯れの苑は、花も少なく人も疎ら、、、寒椿や山茶花
など、何れも侘助同様に椿に似た花が時折顔をみせる。





侘助は、ツバキ科の落葉低木で花は一重の半開きで小さい。
白侘助、紅侘助、有楽椿(太郎冠者)等がある。
開花期は、白侘助が11~3月、紅侘助が2~4月頃。
中国系の「椿」の交配種と言われ、「唐椿」ともいわれる。
侘助は花の数も乏しく、葉も細く如何にも控えめの茶人好
みの花として珍重される所為か、日本の庭園によく似合う
花とされている。
色は白、淡紅、赤白の混じり等の薄い色合いが多い。

名前の由来は諸説が在るが、人名(千利休と同時代の茶人
の侘助という人が気に入っていた花)という説がある。
一方で、閑散とした趣の「わび」と数寄者の「すき」とが
結び付いたとされる説がある。
「わび、さび」という説を指す人の方が多いようである。
小ぶりの花が枝に数少なく、もの淋しい気持ちが日本人の
情感を誘う花とされるようだ。
椿、

侘助、

侘助は椿の一品種で、中でも「太郎冠者」(別名有楽椿)
は、侘助の原点ともいわれる。
他に侘助の定義とされるのは、「葯」という雄蕊の先端の
花粉を作る器官が退化して、花粉を作らないこと。
また、椿に比べ花が小さいこと。一重咲か、猪口咲きの花
が多い。椿より開花が早い、椿は香がないが侘助には香り
が在るものも在るとか、様々な説がある。
何れにしても私にはよく判らないが、冬枯れの花の少ない
中、もの寂し気な花は、私のお気に入りの花である。
(茶房に立ち寄り、ゆっくり熱いコーヒーを啜る、、、)


今日の1句

侘助や茶房にひそと話し声  ヤギ爺