令和5年1月1月26日(木)
大須観音 : 北野山真福寺宝生院
建久2年(1190年~)、尾張国中島郡大須(現、岐阜県羽島市)
に建立された。
慶長17年(1612年)、徳川家康の命により犬山城主の成瀬正
成が、宝生院、真福寺と共に現在地(名古屋市大須)に移転した。
文化2年(1855年)に五重塔建立、空海が彫った愛染明王像が
五重塔に納められた。
明治25年(1892年)、大火で本堂、五重塔等が消失した。
その後も昭和20年、太平洋戦争中に2度目の消失。
昭和45年(1970年)に再建され現在に至っている。
大須観音は戦前・戦後ともに大須の街のシンボルとなっている。
大須観音の境内に、「芭蕉句碑」がある。
いささらは雪みにころふ所まで 芭 蕉
芭蕉は貞享4年(1687年)に再度訪れて際、12月3日に
原町の「書林風月堂」に於いて、俳諧を催した。
如行、夕道、荷号、野水らが参加した句会の折り、雪となる。
この歌仙句碑は幾度かの変遷を経て大須観音に落ち着いた。
芭蕉翁三百年忌を迎えるにあたり、その追善と名古屋文化の
発展の一助として再建されたとある。
この句の意味は、「いざさらば雪見に転ぶところまで」
さあそれでは雪見に参りましょう、雪見で転んだら戻ります。
境内の中央に「女人梵鐘」という立派な鐘楼がある。
昭和41年(1966年)に、地元の婦人会等の女性達だけ
で寄進されたといわれる。
境内には他にも様々な供養塚等が在る。
「人形供養塔」
昭和54年(1979年)に建立された
人形は我が子に振りかかる災難や厄を人形に転化し、身代わり
をとの祈りを込められている。こうして愛されてきた古い人形
をおろそかに扱ってはならないと供養塔を設け、毎年10月の
第一木曜日を「人形供養の日」として祀られている。
「扇塚」
昭和37年(1962年)、芸どころ名古屋の舞踊協会が古い
扇に感謝・報恩のために「供養塚」を建立した。
西川流家元の西川鯉三郎が発起人に名を連ねている。
「歯歯塚」
義歯(入れ歯)の使い古したものを供養し、納めるという。
「宗春爛漫」
境内鐘楼の後ろ(南側)に「宗春からくり人形」が在る。
尾張藩7代目藩主の徳川宗春に因んで作られた。
徳川吉宗の「倹約令」を無視して、尾張の地で芸能を奨励
し、名古屋の街の発展に寄与、吉宗から謹慎・蟄居を命じ
られた。名古屋の発展の大恩人と慕われた宗春を称える声
は多い。毎日5回からくり人形が上演される(所要6分)
「仁王像」
境内の南に二体の仁王像が在る。
本尊の「聖観音」を護衛するための「武神」といわれる。
向かって右手は口を開けた「阿形」、左手は口を閉じた
「吽形」という。
大須観音の境内を抜け、大須商店街へ入り中程左手の折れ
ると「大須演芸場」があり、度々訪れる場所だ、、、
仁王様が、ヘラヘラしないで、観音様を拝めと、、、、。
今日の1句
大嚏仁王揃ひて咎めをり ヤギ爺