フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

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「これが軽めですって!?でも美味!!!」

2011年09月24日 | パリ15区

久しぶりにこのカップルについて書く時がやってきた。

 

山登りが好きな二人とは奈良で出会った。そうして翌年私が彼等の家に1泊させてもらった。

 

この15区の家にはミッシェルさんが車で送ってくれた。今思えばよく辿り着いたものだ。

少し迷ったが、目指すアパルトマンは車を止めた道の反対側にあるのが判った。

この時まだミッシェルさんの方向音痴について、全く気が付いていない時だった。

 

訊ねるカップルの奥さんは休暇が取れず、ご主人が休暇を取って迎えてくれた。着いて一休みしてからアパルトマンの前の道路のトラムに乗って、シトロエン公園へ連れて行ってくれた。

 

                 

 

                  

この時初めてパリのトラムに乗った。(後に知ったが、同じものが富山市内を走っている。)もともとシトロエンの自動車工場があったところで、栄枯盛衰の跡地であるが、今は広い公園になっていた。

 

                           

 

                           

寝転んだりして、ゆっくりしてから帰途は散歩がてら歩いて帰った。途中に高級住宅街があり、こういうところのアパルトマンに何時か住みたいと彼は言った。

 

                           

また日本料理の店を見かけたが、松花堂弁当が28ユーロとあった。当時のレートで言えば4000円を軽く超えていたのではないだろうか?とかくフランスの本物の日本料理店の価格帯には目をむく私である。(安いところは中国人やべトナム人が経営するニセ日本料理店であり、こちらは味に目をむくことになる。)

                                      

                                       

                   

                                                    

散策を終り帰宅すると間もなく奥さんも返ってきた。食傷気味の私に二人は「軽い物にします。」と言ったが、実際は大変な御馳走の準備をしてくれた。

子羊のアバラの肉が手に入ったと言って、焼いてくれたのだ。

 

                 

 

                 

 

                  

             

                  

 

                  

 

                  

 

食傷なんてどこかに吹き飛んだほど、これは本当においしかった。それにしても夫婦とも仕事があるので、ご主人が家でも実によく働くことに感心した。

 

その夜、以前に書いたように一番いい部屋を私のために明けてくれたのだった。

あくる日この家のすぐ近くで骨董市が開かれると言うので、それを楽しみにしてその日は、満腹のおなかをさすりながら眠りに着いた。

 


タクシーの運転手への天罰?

2011年09月12日 | パリ15区

その年の2年前にアヴィニョンへ向かうTGVの中で向かい合わせに座った王子様とそのお母さんに再会する機会がやってきた。

 

シャルトル大聖堂からの帰りが遅くなってしまったが、急いでタクシーでその家に向かった。大幅の遅刻であった。(一時間近く)

パリ中心部のアパルトマンで、ロダン美術館に近いところだ。

 

あいにく王子様は二年前と同じで、バカンスでおばあちゃんの所に行って留守だったが、お母さん、お父さん、そしてちょっと年上のお兄ちゃんが待っていてくれた。

王子様とは電話で話した。

少年らしい可愛い声が受話器の向こうから聞こえた。

お母さんの手料理の夕食をいただくなど、温かいもてなしを受けた。            

 

            

お父さんは何かの編集者と言うことで、おとなしい方だった。

お兄さんは学校の成績優秀で、「飛び級」したということだった。

お母さんも本を朗読する仕事をしているとのこと。

 

そのうち、お母さんのお兄さんがやってきた。彼からみれば母方の伯父さんだ。

この人はお医者さんだそうだが手品が上手で、鮮やかにトランプをさばき、私の目をパチクリさせてくれた。

 

私も持参した折り紙で「飛ぶ鳥」を伝授し、完成後全員パタパタはばたかせることに成功、子供心に帰ってもらった。

 

          

 

          

 

あまり遅くならないよう切り上げ、タクシーを呼んでもらい、ビュットショーモン公園そばの友人宅に戻ることにした。

 

帰途、ライトアップしたエッフェル塔で車を止め写真撮影した。が、この時の運転手の行動にやや不信感を抱いた。車窓からライトアップしたエッフェル塔を見て綺麗だなとかは言ったかもしれないが、車を止めて写真を撮りたいとは言ってなかった。

まあ、これもいいかと、その時は多少メーターの回るのも暗黙に了解した。   

 

      

 

だが、車がバスチーユ広場のロータリーに入った時、この運転手に天罰?が当たった。

左から別の車が「ガシャーン!」とタクシーの左前方にぶちあたった。 

たちまち運転手同士「お前が悪い!」「いや俺は青だった!」みたいな口論になった。

こういうときは日本と相当様子が違うようだ。

 

しかしそんな混乱の中でもタクシーの運転手は、私にそこまでの料金はちゃっかり請求し、「降りて、他のタクシーに乗り換えて」と言った。

後で他のフランス人に聞くと、大抵の人は「目的地まで行かなかったのだから、そんなの払う必要なかったのに」、「お父さんだったら払わない」(若い女の子)と言う。

さっさとその場を離れ、別のタクシーに乗り換え無事宿泊先に帰宅した。もちろん乗り換えたので、少しは高くついたが、幸い何の怪我も無く、バスチーユ広場でだったのですぐにタクシーも見つかり、こう言っちゃ何だが「貴重な」経験をした。

料金についてはちょっと悔しいが、こんな剣幕に対応できるフランス語力を持ち合わせていないので、次の課題としておこう。

 

さてあの事故だが、タクシーと別のマイカーとどちらが悪かったのだろう。

これについては私なりに「見解」はあるが、「第六感」によるものなので、伏せておくことにする。

 

翌日は、ヴォー・ル・ヴィコントへ行く。

 


山好きカップルのカラオケ初体験

2011年06月03日 | パリ15区

奈良のとあるカフェでの出会いだった。
実はこのカフェは、先述の
「マダム中のマダム」とも出会ったところである。

彼等は観光地図を拡げていた。
奈良に来る外国人観光客用にフランス語版のマップがある。それはピンクで縁取りがしてあるので色を見ればフランス語とわかるのだ。

しかしすべてフランス人とは限らない。カナダやスイス、ベルギーのフランス語圏と言うこともある。
ちなみにドイツ語やスペイン語、中国語、韓国語などもあり、色分けされている。

余談であるが、京都市には、フランス語の案内が少ないのをいつも残念に思っている。(京都市観光課に電話でなぜ作らないのかと聞いたところ、英語のもので対応できると言う悲しい答えであった)
フランス人ほど京都を好きな外国人はいないと言っても過言ではないし、パリと姉妹都市である京都にフランス語の案内パンフレットがないというのはいかがなものか。
京都もまたフランスのように簡単には「なびかない」ところがある。

さて、本題から逸れてしまったが、この夫妻は当時アラフォー(40歳前後)で、ヒマラヤに登ったこともあるほどの、大変な健脚である。
奥さんは富士通で仕事をするために関東圏に滞在していたこともあるのだが、ご主人はこの時が初来日で、二人の初めての日本旅行の計画は彼がすべて考えたと言うことだった。

奈良でも「吉野山」に行き、その後、「山の辺の道」、「柳生街道」などを歩きたいとのことで、少しばかり助言もした。
この旅では、彼らは「上高地」や「立山」にも行ったと言うことであったが、残念ながら富士山は天候不良のため、断念せざるを得なかったらしい。


夕食を一緒に食べることになったとき、ご主人の仕事は「軍事レーダーを作るエンジニア」と言うことであり、びっくりした私に「ディフェンスの」と、付け加えることも忘れなかった。

カラオケにも誘ってみたのだった。
実は彼らは歌を歌うことは苦手だったらしい。でもなかなか経験できないこと(と思ったと思う)とて、なんとか決心して応じてくれた。
フランス語で歌える曲は少なく、通常フランス人はおなじみのシャンソンナンバーか、あるいは英語の曲を選ぶ。若いフランス人は日本のアニメやポップスなども歌えるらしい。

彼らは最初恥ずかしそうに何曲か歌った後、後半はリラックスしていた。カラオケのおかげで、距離がとても近くなったようで、帰り際には「パリに来たら、ホテルには泊まらないでうちに泊まって」と言ってくれ、別れたのであった。



そして、二年後パリに行くとき、他にも招待してくれる家が何軒かあったので、彼らのところに一泊だけさせてもらうことになった。
その旨を伝えた時、「なぜ一泊だけ?何泊でも泊まってくれたらいいのに」と残念がってもくれた。

そのアパルトマンは、モンパルナスからそう遠くない大通りに面したアパルトマンで、昔の映画に出てくるような蛇腹?のエレベーターがあった。
パリらしい感じがするので私は大変好きだが、スーツケースがあると窮屈なくらい狭い。
と言うわけで、迎えに下まで降りてくれていた健脚のご主人は自分は乗らずに6階まで階段で上った。



そして、その部屋はロフトがついていて、その奥に寝室があった。
その寝室を彼らは私のために空けてくれ、自分たちは階段を上がったところのソファが置いてある部屋で寝ると言う。
それではあまりに申し訳なく、私がソファでと言ったが、彼らが固辞するので、奥の寝室をつかわせてもらった。

普通、日本なら、大きな家でなくても部屋が余って(空いて)いないと、招待しにくいのではないだろうか。
実際、私もそう思っていた。だから小さな我が家に来てもらうのをそれまでは躊躇していたのだった。
しかし、彼らにホスピタリティと言うものは、「器」ではなく、心が一番大切だと教えられたのであった。


王子様の成長

2011年05月13日 | パリ15区

さて、80代のムッシュが三人登場しましたが、私の出会いは大人ばかりではない。

今回は、今思い出してもあんな美しい男の子を見たことがないと言っても過言ではない、かわいいと言うよりは美しい6歳の「ガブリエル」だ。

彼との出会いはTGV地中海線と言う素晴らしい景色の中を走るフランスの新幹線の中で、パリからニームまで一緒だった。
ちょうど席が向かい合っていて、母親が同行していた。
行儀よく一人で絵本を見たり、おもちゃを取り出して遊んだりで、母親は雑誌を読んでほとんど構うことはなく、静かに過ごし、日本の親子のそれとは違っていた。
公共の場での子供のマナーの良さを目の当たりにする初めての出来事でもあった。
日本には旅は道連れと言う言葉もあり、せっかくの異文化交流のチャンスをみすみす逃がす手はない。
いつも携帯している折り紙を出し、いろいろ折り始め、折った「鶴」を渡すとはにかみながら「メルシー」といった。
そして雑誌を読んでいた母親であるマダムが、初めてこちらに視線を向け、笑顔で礼を言い、私の折るものを見ながら会話が始まった。

彼女たちはパリ在住で、ニームの生れである彼女は、バカンスをおばあちゃんと過ごすためニームに向かうところとのことだった。

ガブリエルは電子辞書を使うのを珍しそうに見ていたので、「使ってみる?」と言うと、また小さな声で「メルシー」と言って、初めて見る電子辞書を興味深く触っている。
その横顔はまるで小さなムッシュであった。
折り紙の「鶴」と自分のおもちゃで一人遊びをしたり、時々簡単なフランス語で会話をしたり、ちょうど私のフランス語のレベルも母親より合っていて楽しいものであった。


私がニームからポンデュガールに行くと言う話や、彼女は朗読の仕事をしているなど、話が盛り上がってきたころ、彼女が「サンドイッチを買いに行くけど一緒にどう?」と。
それならば一緒にと売店に向かうと「コーヒーをおごるわ。」と言う。
マダムは折り紙に対してのお礼が言いたかったのであろうと、喜んでご馳走になった。

その二時間半余りの列車の旅の時間は早く感じた。

そして、帰国してから「パリに戻った時、ロダン美術館に行った。」とメールをすると、「うちのすぐそばよ。知らせてくれれば、もう一度会えるチャンスがあったのに残念だったわ。」

それから数カ月、その年の九月に小学校に入ったとガブリエルの書いた短い手紙とともに、彼が描いたエッフェル塔、そしてポンデュガールの絵が添えられてあり、それはもちろん今でも大切に保管している。

              

二年前、彼らの家に夕食を招待されたのだが、残念ながら、同じ季節、彼はまたおばあちゃんのところでバカンスを過ごしており、会えず残念だったが、電話口でやはり変わらないあのはにかむような声を聞かせてくれた。
そう、あれから何度かメールで彼の成長がわかる写真をもらったが、この時金髪だった髪の色はダークブラウン、西洋の子供の髪の色が変わることも知った次第である。
成長を楽しみにしているが、実は一番最近のものは、最初の面影は消え、「美しい王子様」は「普通の12歳の少年」に成長していた。


またこれからどのように変わっていくのかな?


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